《父の想い出》
父42歳誕生/末っ子
2008年雛飾り
父42歳の末っ子
健康に恵まれない父・・・実現しない父の決断 頭の良い父の能力は生かされない 昭和初期いや大正末期、山奥の岐阜「根尾」」から父は東京に出たの? 何故母と所帯を持ったの? ずーと聞いてみたかった 父は一人娘の母の姓を名乗る 8人姉弟の三男の父 山奥の根尾谷から東京へ出て母を見初めたの?・・・結婚 想像だけで父のルーツが解らない
晩酌をする父の傍で・・・末っ子の私は父の傍でお相伴をした お酒のつまみは変わった物が好き 「ナマコ」とか変わったものは父のお相伴で頂いた そのせいか今でも変ったものが好き 当時肉はかしわが常食でした
2009年雛飾り
父は百歳まで生きる
と信じていた
胃がん72歳/没・・・父の命取りは「胃ガン」72歳であっけなく死んだ 胃がんの上、風邪をこじらせあっけなく死んだ お彼岸のお中日でした 父の死は突然のことで悲しくて泣いた 悔やまれる死でした
孫は「5歳&3歳」
私は「29歳」
父/8人姉弟・・・下から2番目の父は、姉4人下4人男の三男坊 戦前・東京「東芝で真空管」を作っていた 最晩年・熊本・山口・鳥取・岐阜・とお世話になった土地を回る旅をした 私達の新居を楽しみにしていた 建築は始まっていたが新居の完成を見ず父は没した 末の伯父さん一人おとなしい人 姉/弟・「7人姉」」は「我こそは...」の個性の強い姉弟でした
2003年/Haru60歳
還暦の吊るし雛
戦 災
疎開生活22年
人生は無常・・・結核に苦しんだ父 父を可愛がっていた伯父が(岐阜・根尾谷在住)、家無しの父を心配し早田に新居を建ててくれた 伯父は新居完成寸前で亡くなる 遺言状がなかったため新居は人の手に渡る 当時私は中学生、新居の話は聞いていたが新しい家は見ていない 家族が夢にまで見た新居だった・・・「夢は夢のまま」消えてしまった
父母の人生設計・・・みなで東京へ帰ろう! 父は東京で再起だったか? 4人の子供のうちまず兄が東京へ転職した・・・兄は岐阜県庁勤務
(教育委員会)~外資系船会社(エバレット汽船)に転職し妹達を呼んだ 父の期待に応えた兄は当時・24歳 長女・結婚で東京へ 次女・就職で東京へ 私の高校受験を下げて迄東京転向を成功させたかった父 東京での再起を決断した父だったが、東京転校は実現しなかった 父58歳、最後の決断でした
一期一会の人生・・・岐阜での生活が始まっていたら、又東京の高校に転校できたら? 私の人生はどんな展開をしたかと考えます 今の家族は存在しません 思いもしない方向へ進んだでしょう
《長男》/父や家族を
支えつづけた
茂木健一郎
人生は「偶有性」
自分が置かれた「偶然」・・・「偶然を必然」とし受け入れる・・・「遇有性」こそが私たちの生命を育み、生命は《遇有性》を母体とし《遇有性》を抱きしめ、「遇有性」を有することで進化した 「遇有性」から逃げようとすることは「生命」そのものを否定するに等しい
遇有的な存在・・・現代の日本に生まれた そのような「遇有的」な存在としてこの世にいる 現在置かれている状況に何の必要性もない 現代の日本に生まれ両親の下に生まれた 生命は遇有性をダイナミックスの中に内在する
時代は転換期・・・世界は「遇有性」を必然として変化し始めている 時代を理解する上で最大のカギは《遇有性》を理解し抱きしめ適応しなければ今日の世界で輝くことは出来ない
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「偶然から必然」へ
命がけの飛躍は「覚悟」です
その「覚悟」は
人生を裏切ったことではない
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人生とは「遇有性」の物語り
何が起きても不思議でない
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