グリーン車で行く② / 角屋・揚屋建築(旧花街)

2017-01-28 07:40:58 | 一人旅(Haru)

《 グリーン車で行く 》

金戒光明寺/重文茶室/壬生寺

揚屋建築の遺構/旧花街

格子造りの外観は「京町屋」風 

江戸吉原の「花魁」見せるための

牢屋とはちょっと違う

 

重要文化財指定

 昭和27年(1952)

 

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島原「角屋」の歴史・・・「島原」は江戸幕府の「花街」として栄えた 寛永18年(1641年)頃に現在地へ移転しました 急な移転で大騒ぎする様子が戦乱のようであったことから、「島原の乱」になぞらえ「島原」の地名がついたと言います

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 島原/角屋(すみや)

 

 正面玄関

    祇園など「花街」と同じ、華やかな赤い壁 

角屋の暖簾

紋を染め抜いた暖簾

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「揚屋建築」の特徴・・・江戸期の文化サロンの場 角屋は「遊郭」ではありません 現在の料亭に当たる「揚屋」という業種です 江戸時代には民間最大の宴会場でした お茶会なども行われ文化サロンとしての役割を果たしていました  「揚屋建築」は大座敷に面した広庭に必ず茶席を儲け台所を備えています 「遊郭」には「大座敷~広庭~茶席」などはなく小部屋のみです

  

「揚屋」の意味・・・江戸初期から中期の「揚屋」は間口が狭く、奥行きある小規模建物であったため一階を台所&居住部分、二階を主たる座敷としました 二階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになりました 江戸中期以降には京都や大阪の「揚屋」は、隣接地を買い増しをし1784年には「揚屋」のほとんどが一階を大座敷や広庭を備え、大宴会場へと特化しました

 

 

 

 

「松の間」

 角屋で最も大きな座敷「松の間」

 

 「松の間」

左手「臥龍松の庭」が広がる

 

 

 「松の間」/庭に面し43畳の間

 岸連山筆「桐に鳳凰の図」の襖絵

 

 「臥龍松の庭」 

お茶室が三室設けられています

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「揚屋」と「置屋」の違い

島原の「揚屋」・・・歌舞音曲を伴い、明治以降「歌舞練場」を備えて上演していたことから「花街」となりました 「揚屋」は太夫や芸妓を抱えず、置屋から《太夫&芸妓》を派遣されてお客様に遊宴していただくところ 料理を作っていたので現在の料亭&料理屋にあたります 「揚屋」は江戸時代のみで、明治以降はお茶屋業に編入されました 島原は開放的な町で360年間、放火による火事は皆無でした

 

江戸吉原の「置屋」・・・周囲に10m幅の塀を設け、入り口を一つにして厳しい管理を行っていました 遊女を閉じ込めるなど閉鎖的でした そのため逃げ出すための放火が多かった 新吉原時代の190年間に21回、明治期には7回の大火が発生しています また吉原では、江戸時代には俳壇や歌壇が存在せず、歓楽専門の町でした 都市構造上から「遊郭」ということです   

 

 網代の間

座敷/28畳

網代組みにした天井が特徴

蝋燭を灯す燭台に灯油を使用/天井が煤ける

 

網代の間/美しい木組み

 

 

 

 

台  所

 

(かまど)

「揚屋建築」の特徴ある台所

 

 

配膳場

揚屋建築の特徴は台所

 

 

              ↑ 配膳場      脇にある帳場 

   

         刀箪笥 

 

 

階段箪笥

 

 

 八 方

 

吊行灯

四方八方灯りを照らす/八方 

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  グリーン車で京都へ

「旧花街」に残る揚屋建築

  朝日旅行/2017.1.23(月)

 

 



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グリーン車で行く① / 京都迎賓館

2017-01-25 07:56:22 | 一人旅(Haru)

《 グリーン車で行く 》

 京都御所/金戒光明寺/重文茶室/壬生寺

 京都 迎賓館 

京都迎賓館

 正面玄関車寄せ(2017.1.24)

 

 

正面玄関

屋根上に国の紋「五七の桐」

正面玄関から入場

 

国の紋/五七の桐」  

かざり金物

 

ロビー溜まり

広々とした部屋に気品が漂います

正面入ったお部屋/会議にも使える広いお部屋

 

 

椅子は西陣織

 写真撮影(可)

   

庵冶石

大会議室前・庭園

 石は香川県「牟礼」から運ばれた

 

「牟礼」/石の彫刻家として有名な

「イサム・ノグチ氏」の工房があります 

 

 

↑ 大会議室  

大会議室「東壁」/つづれ織り(西陣織)

月をバックに比叡山(帯の龍村織物製)

 

 

 大会議室「西壁」/愛宕山

綴れ織りは龍村織物製

京都伝統工芸/匠の技術の酔

 

 

庭園

大会議室前

庭園には稲作発祥の日本をデザイン ↑ 

 

 

晩餐室

四季の花

背面ガラス越にお庭が見えます

綴れ織り(西陣織)川島織物製/(麗花) 

横約16m/縦約3m

 

 

晩餐室

最大約120名の着席会食が可能です

晩餐会で使われる食器

椅子は漆塗り 座は川島織物製

 

 

桐の間/前庭

 

桐の間

 輪島塗座卓(一枚板・長さ12m)

職人の技が光ります

 

  

 

 

  

 

廊  橋

 

 

 

 

 

お舟で遊覧

 2016年来日

アウン・サン・スーチさん御接待

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伝統工芸品

 

天井は昇降式の和紙格子を配置 

 

   

神社に見る建具かざり   几帳

 

    

 清水焼・香炉     有田焼壷/今泉今右衛門

 

 

舞台扉

伝統技術/ 截金(きりかね)

人間国宝/ 江里佐代子作

 

 

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グリーン車で京都へ

 京都迎賓館/朝日旅行 

  2017.1.22(日) 

 

 

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隈研吾著/ なぜぼくが新国立競技場をつくるのか 

2017-01-13 16:42:11 | 一人旅(Haru)

《 建築家/隈研吾の覚悟 》

新・国立競技場を造るわけ

国立 代々木競技場

1963年/『丹下健三』建築

 

 

隈研吾氏・・・(100歳)の時、丹下健三氏の『国立・代々木競技場の前に立ち、カッコいい建物にビックリし、「建築の仕事をしよう・・」と心に誓ったと言う その《隈研吾氏》 半世紀以上経て、56年後のやり直しコンペで『新・国立競技場』の設計を担当することになりました

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 初回コンペ

ザハ案/白紙

新・国立競技場建築・・・設計費の高騰が危惧されました 国民の意識も反対意見が多数を占め、安倍首相の決断で『新・国立競技場ザハ案)』は白紙に戻されました

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日本建築界の良心『槇文彦氏』

第一コンペの《ザハ氏案》に異論を唱えたのは

建築界の巨匠

槇文彦氏 

東京都と文科省に提出した『新・国立劇場に関する要望書』の発起人に《隈研吾》さんも真っ先に名前を連ねました 《隈研吾》さんが『新・国立競技場』を設計したかったわけではなく、ザハ案の建物が神宮外苑の杜にできるのは近隣住民として「いやだ」、と本能的に感じたからでした

ザハ氏案の巨大スケールが神宮外苑の景観にスケールアウトしていると当初から反対を表明していました 新しい要綱でも70mの高さ制限は変らないままですが、これより低い案の提出が《隈研吾氏と伊東豊雄氏》に期待されました

やり直しコンペ/二人の建築家

《A案》/隈研吾氏・・気をふんだんに使う

《B案》/伊東豊雄氏・・ガラスを多用

 

 

 《A案》/隈研吾氏に決定

 ザハ案/75mだった

   新・国立競技場の高さを49mに

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隈研吾の覚悟

1964年/東京オリンピック 2010/ 再びの東京オリンピック 1964年と2010年は、二つの特別な年であると考えている 日本の近代とは何か、日本は何処からきて何処へ向かうのか

二つの時代で必要とされる建築の違いは何か? 考え続けながら線を描いている 二つの時代で社会と建築との関係 社会と人間との関係との違い、をはっきりと実物で示したいと思って材料を選び形態をきめている

 「コンクリーの時代」→「木の時代」に

  経済の崩壊も、震災も、全て引き受けた建築を作ろう

  建物の高さを低く、地元の自然素材を使いたい


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 隈研吾の設計

和の感覚

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隈研吾 著/なぜぼくが

新・国立競技場をつくるのか

戦後建築家の『第四世代』がやる意義

「1913年生まれ/丹下健三が第一世代」 「槇文彦さん、磯崎新さんが第二世代1930年代」 「伊東豊雄さん、安藤忠雄さんが第三世代の1940年代生まれ」 「隈研吾さん、妹島和代さん、坂茂さんが第四世代」・・・干支の一回りで世代交代が起きました

 

第一世代/《丹下健三》は日本の戦後復興を支えた世代 日本の工業力をアピールしたのが《丹下健三》の建築でした 戦後日本の高度成長期にいちばん建てられたのが公共建築でした 戦後建築を造ったのは、《槇文彦》、《磯崎新》、《黒川記章》の第二世代でした 所謂箱もの世代です 次に第三世代の《安藤忠雄さん》、《伊藤豊雄さん》、になると世の中に環境問題が大きな課題になりました 高度成長的な箱もの建築に対する批判が浮き上がったのです

 

そういう時代背景の中で、《安藤忠雄》は建築をコンクリートに閉じ込めました 《伊東豊雄》はガラスにして存在を消し、翳りの部分を表現しました その手法は大人の感じがしました 高度成長の陰りは、日本が成熟時代に入ったということの裏返しです

 

 

第四世代の《隈研吾さん》、(坂茂さん》、《妹島和代さん》、になると時代はポストバブル期 日本が本格的な低成長時代に入りました バブルはほんの一瞬にはじけて日本には仕事がない 必然的に海外に行って仕事をしなければならない時代になりました 第四世代は海外に活路を求めました

 

グローバル時代の到来は海外でしか仕事がない、というシビアな時代です 第四世代は時代の恩恵にあずかれなかった世代 今回の『新・国立競技場』が、《B案/伊藤さん》は選ばれなかった

A案/隈研吾

が選ばれたことは示唆的です 

2020年の東京オリンピックは

日本建築界に新たなメッセージをおくる 

  

《A案》に決定

 水と緑のスタジアム

木の庇が重なっていることで優しい影をつくりだす

庇の上部には野草が植えられている

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『隈研吾』とは?

1954年/横浜生まれ(63歳) 1979年東京大学工学部建築学科大学院修了 米コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築設計事務所主宰 2009年より東京大学教授

 

隈研吾さんの建築は、100件くらいの建築が同時進行していると言います 建築のプロジェクトは長くて10年くらいかかるものもあるので、時間差でスケジュールを組んでいます 100件進行中で、工事真っ盛りで現場に通うのは常時10件くらい だから時間管理をちゃんとすればできるのだそうです

 

近隣の人が嫌がる建物を英語で「eyesore(目の傷)」って言います 「あ~出来ちゃった・・・」「あれ、無くなればいいのに・・・」みたいな含みを持つ言葉です 第二のコンペでは本大震災からの復興というテーマに 世界に日本をアピールする普遍的な価値を考えた時、「共生」と言う方向にだんだんシフトしていった 「環境の時代」「共生の時代」と言葉では簡単ですが、建築の形にするにはどうすればよいか そうした時、《隈研吾氏》は大成建設からやり直しコンペで組もうと誘われました 

 

2020年は少子高齢化オリンピックであると同時に、復興オリンピックでもある 世界的に木材への追い風があり『新・国立競技場』は木を中心に提案しました 『新・国立競技場』には東北の木材を積極的に使います 東北は杉のいい材料が揃っています 日本の風土から生まれるマテリアルを味わってもらいたい

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隈研吾氏の仕事

根津美術館/サントリー美術館

豊島区役所/歌舞伎座 

 2017.1.15(日) 

 

 


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