源氏物語には様々な音楽描写がある。
特に弦楽器である琴や琵琶についての表現は非常に多い。
山田孝雄博士は「源氏物語の音楽」S44宝文館 において
『源氏物語は音楽に関する記事多くして、しかも諸の方面にわたり
旦つよくその音楽を理解して記述せるあと歴然なり』と、
述べておられる。
『源氏物語は音楽に関する記事多くして、しかも諸の方面にわたり
旦つよくその音楽を理解して記述せるあと歴然なり』と、
述べておられる。
平安時代の貴族にとって音楽が教養の一つとして必要不可欠であった事は
伊藤伸吾氏の「風俗上よりみたる源氏物語描写時代の研究」S43 風間書房
によっても明らかであるが、
紫式部がその時代に生きていた人にせよ、
源氏物語における膨大な音楽描写と表現には驚くばかりである。
伊藤伸吾氏の「風俗上よりみたる源氏物語描写時代の研究」S43 風間書房
によっても明らかであるが、
紫式部がその時代に生きていた人にせよ、
源氏物語における膨大な音楽描写と表現には驚くばかりである。
特に、同じ時代に生きた清少納言の「枕草子」の音楽描写と比較すると、
<日記>と<物語>という形態の違いこそあれ、両者の感覚の違いを非常に感じる。
<日記>と<物語>という形態の違いこそあれ、両者の感覚の違いを非常に感じる。
「枕草子」に描かれている音楽は単に音楽会が催されたという風景描写や、
<無明>という琵琶の名前を知っていたという自慢話(93段)にすぎない。
<無明>という琵琶の名前を知っていたという自慢話(93段)にすぎない。
特に琴(こと)については、
(217段)
『弾くものは琵琶。調べは風香調。黄鐘調。鶯の囀りといふ調べ。
筝の事いとめでたし。調べはさうふれん(想夫恋)』と、
いとも簡単に書かれているのみである。
(217段)
『弾くものは琵琶。調べは風香調。黄鐘調。鶯の囀りといふ調べ。
筝の事いとめでたし。調べはさうふれん(想夫恋)』と、
いとも簡単に書かれているのみである。
紫式部日記には
『風の涼しき夕暮れ、聞きよからぬひとり琴をかき鳴らしては
なげきくははると聞きしる人やあらむと、ゆゆしくなど覚え侍るこそ、
をこにもあはれにも侍りけれ。
さるはあやしう黒みすすけたる曹司に、筝の琴、和琴調べながら心にいれて
「雨降る日、琴柱(ことじ)倒せ」などいひ侍らぬままに、塵つもりて立てたりし厨子 と、柱のはざまに、首差し入れつつ琵琶も左右にたて侍り』
という記述がある。
『風の涼しき夕暮れ、聞きよからぬひとり琴をかき鳴らしては
なげきくははると聞きしる人やあらむと、ゆゆしくなど覚え侍るこそ、
をこにもあはれにも侍りけれ。
さるはあやしう黒みすすけたる曹司に、筝の琴、和琴調べながら心にいれて
「雨降る日、琴柱(ことじ)倒せ」などいひ侍らぬままに、塵つもりて立てたりし厨子 と、柱のはざまに、首差し入れつつ琵琶も左右にたて侍り』
という記述がある。
おそらく紫式部は非常に琴(こと)が好きだったのではないかと思う。
この点について萩谷朴氏は、「紫式部日記全注釈」で
『式部が筝曲の演奏にすぐれたものを有していた』と、述べておられた。
この点について萩谷朴氏は、「紫式部日記全注釈」で
『式部が筝曲の演奏にすぐれたものを有していた』と、述べておられた。
一人琴(こと)をかき鳴らしながら<をこ>にも<あはれ>でもあるという表現には
注目したい。
心理描写と音楽との融合。
実際、源氏物語には<あそび>として、華やかな音楽会としての琴の演奏だけでなく、
そういうしみじみした一人琴(こと)の場面も多い。
注目したい。
心理描写と音楽との融合。
実際、源氏物語には<あそび>として、華やかな音楽会としての琴の演奏だけでなく、
そういうしみじみした一人琴(こと)の場面も多い。
左大臣家の葵の上に会いに行くが、すぐにも女君はあらわれず、
つれづれと思いめぐらして一人琴をひく源氏の描写(花宴)や、
源氏が出家した女三宮の所に寄り、あわれなる音で一人琴を弾く場面(鈴虫)など、
その胸中を推し量る事ができよう。
つれづれと思いめぐらして一人琴をひく源氏の描写(花宴)や、
源氏が出家した女三宮の所に寄り、あわれなる音で一人琴を弾く場面(鈴虫)など、
その胸中を推し量る事ができよう。
また明石の上が紫の上に預けたわが子の事を思いながら琴をひく場面(野分)なども同様である。
読者に音楽を通してその心理を伝えているといえよう。
読者に音楽を通してその心理を伝えているといえよう。
一方、琴(こと)の音色によってその女の人の存在を知るという手法も
源氏物語にはある。
末摘花との出会いなどもその一つであろう。
琴(きん)の名手であると聞かされて末摘花に興味を持つ源氏。
その後の展開は残念であったが、その後もしばしば出てくる末摘花の登場のきっかけであった。
そして明石の上の存在も、
明石入道と琵琶筝の話をした時に明石が名手と聞いて知る事になる。
源氏物語にはある。
末摘花との出会いなどもその一つであろう。
琴(きん)の名手であると聞かされて末摘花に興味を持つ源氏。
その後の展開は残念であったが、その後もしばしば出てくる末摘花の登場のきっかけであった。
そして明石の上の存在も、
明石入道と琵琶筝の話をした時に明石が名手と聞いて知る事になる。
宇治の橋姫では、
薫が阿闍梨から宇治八の宮の娘達の琴の音が川辺から聞こえてくるという話で
その存在を知る。
薫が阿闍梨から宇治八の宮の娘達の琴の音が川辺から聞こえてくるという話で
その存在を知る。
また花散里の巻の中川の女の出現は、
次第に琴の音が近づいて気付くといういわば遠近法的な手法がとられている。
次第に琴の音が近づいて気付くといういわば遠近法的な手法がとられている。
紫式部は琴についての様々な描写を用いながら、
源氏物語の場面にふさわしい心理描写と音楽を選んでいる。
源氏物語の場面にふさわしい心理描写と音楽を選んでいる。
源氏物語以前の文学としては、「宇津保物語」も琴に関する有名な物語であるが、
その琴の音は自然界や神をも驚かすという現代離れした内容になっていて、
源氏物語とは少し表現が違うように思う。
その琴の音は自然界や神をも驚かすという現代離れした内容になっていて、
源氏物語とは少し表現が違うように思う。
だからこそ、源氏物語は琴をはじめ音楽を通して
読者に深く心の内を考えさせる稀有な文学といえるのではないかと思う。
読者に深く心の内を考えさせる稀有な文学といえるのではないかと思う。