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ルカの福音書21章

2021年03月15日 07時00分28秒 | 福音書
ルカの福音書21章 終末のメッセージ
1.見掛け倒しの宗教家に注意せよ(21:1-4) 
当時、ユダヤの宗教家は、大きくサドカイ派とパリサイ派の二つに分かれていました。同じ宗教で、同じ聖書を使いながら、二つは真逆の考え方をしていました。そしてイエスは、この二つの宗派のいずれかでもない、別の考え方を示すのです。
 そもそも律法学者と呼ばれるユダヤの宗教家は、バビロン捕囚と呼ばれる歴史的事件の後に生まれた宗教的な指導者層です。BC6世紀の南王国ユダの滅亡によって、祖国を強制移住させられたユダヤ人は、それまでの神殿でいけにえをささげる祭儀的な宗教を捨て、会堂で聖書を教え学ぶスタイル、つまり今日のキリスト教会のような宗教に生まれ変わるわけです。そうなると、律法を筆写し写本を作り、注釈し、さらにこれを教える律法学者と呼ばれる宗教的な指導者層が起こるようになるのです。そしてバビロン捕囚帰還後、エルサレムに神殿を再建しても、彼らの重要さは変わらず、やがて政治的なグループでもあるサドカイ派が分離し、律法学者はパリサイ派に属するようになった、わけです。
すでにイエスは19章で、律法学者の問題点を並べ上げています。2:46、彼らは人々の注目を集めるのが好きであると。さらに当時、離婚した女性の財産分与の調停を助けて、多くの見返りを求めて、やもめを食い物にするような人たち。そしてさも宗教的に敬虔に振舞う、見掛け倒しの宗教家であったというわけです。イエスは、こうした宗教家、信仰者を警戒するように言います。そして、人を意識した信仰者に対して、レプタ銅貨二つを投げ入れる、ただ神を意識した純粋な信仰に注目するように言うのです。
2.終末のメッセージ
そして本当に神の前に生きる信仰を大事にする時に、5節以降の、終末についてのイエスの説教も意味あるものとなります。昨日も言いましたように、神を信じると言いながら、死人の復活も、霊的存在も、神の御国も否定するようなら、信仰を持つ意味はないのです。やがて私たちは神の元に帰り、神の前に立つのだ、人類の歴史には、始まりがあり終わりがある、神がこれをご計画された、人間は永遠の存在という実に重たい価値を持っている、という確信に立たない信仰など意味がないでしょう。信仰を地上の利益が膨らむ手段とする安っぽいものにしてはなりません。
また、終末的なことを語ると、不安感を抱く人も多いでしょう。しかし聖書の関心は、歴史の終わりに対する読者の恐怖心を煽ることよりも、その安息の希望と信仰に確信を持たせることです。9節「戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません」28節「これらのことが起こり始めたなら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです」つまり世が終わることは、神を信じて生きる者にとって、神の救いのご計画が完了すること、いわゆる安息が近づいていることを意味します。ああ、ようやく、この不条理に満ちた世界ともお別れ、全ての帳尻が合わされて、それぞれの報いを受ける時が来るというわけです。34節、キリスト教会は、2000年もの間このキリストの再臨の時を待ち望んできました。それは神のご計画は、多くの人々の救いのために遅らされていると言えるでしょう。人は永遠に生きる者、死後を含めて人間の一生となるのです。
最後に、今日の聖書クイズを一つ、旧約聖書時代、エルサレムがバビロンに破壊されたのはBC586年、では、新約聖書時代、エルサレムがローマに破壊されたのは、AD何年だったでしょうか?昨日のクイズの答えは、サドカイ派でした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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