【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

テモテへの手紙第二3章

2018年06月22日 08時41分05秒 | パウロ書簡
「終わりの日」は、イエスの働きによって始まり(ヘブル1:1-2)、イエスが再臨される時までのことを言う。「終わりの日」と呼ばれるのは、神が、ご自分の目的を完成される時だからである。ある人々は、その約束を信じることができない(2ペテロ3:3)。しかし、イエスは約束されたとおりに再臨される。また、その日が近づけば近づくほど困難な時代になる。それは、人間の自己中心性が強まるからである。自己愛、金銭愛、快楽愛に熱中する時代になる。本来向けられるべき対象に愛が向けられなくなっていく、的外れな人生を生きていく人々が増えていく、そのような人々は避けなさいという。
この自己中心性の問題に根本的な解決をもたらすのは福音のみである。福音は新生を約束している。つまり自己中心な者からそうではない者になる、人生にひっくりかえりをもたらすのである。人間としての正しい感覚を回復させるのである。しかし、この福音に触れながら、依然として自己中心であり続けることもある。それは何が問題なのか、と言えば、終末意識の低さにあるのではないか。やがて神の前にきっちり自分の人生を報告する時が来る、という意識が薄い、そのために自己中心性が増長されるのである。
パウロはヤンネとヤンブレをとりあげ、避けるべき人をイメージさせる。当時はピンと来る名前であったのだろうが、今の私たちにはわからない。ただユダヤ人の伝統によれば、彼らは、モーセがエジプトからヘブル人を脱出させようとした時に、パロの宮廷にいて敵対した二人の魔術師であったとされる(出エジプト7:11)。しばしば教会は、こうした偽教師、巧妙な手口で教会をかき回す人々によって苦しめられることがある。しかし、たとえそうであっても恐れる必要はない。彼らの横暴も鎖付である。神のみ許しの中で起こっていることなのだから(9節)。
14節、「けれどもあなたは」とパウロは語り掛けてくる。「堅く立ちなさい」と。あなたを世俗に順応させようとするプレッシャーが大変強いものであれ、一々狼狽してはならない。若く経験不足であっても、弱く臆病であっても、心配するに足りない。たとえあなたが証人の中にただ一人とされることがあっても、怖気づいてはならない。これまでどおり、あなたはただ聖書の教えに従いなさい。あなたが信じるようになったものに留まり続けなさい。あなたは自分の信仰について聖書が保証していることを知っているはずである。聖書は、神の息吹を受け、有益なものである。邪悪な人間とペテン師どもがますます悪さをして、非常に耐え難い時の最中にあっても、聖書はあなたを完全なものとし、あなたをあなたの働きのために整える。神のことばがあなたを神の人としてくださる。聖書に忠実であり続けなさい。そうすれば聖書があなたをキリストの成熟へと導いてくださるというわけだ。
聖書に親しむことは大切だ。確かに、聖書を読まずして、神の前に立つにふさわしく自分を整えるなど不可能な話しである。「教え」は、何が正しいか、「戒め」は何が間違っているか、「矯正」はどのように正しくなれるか、「義の訓練」はどのように正しくあり続けられるかを言っている。つまり、聖書は、私たちに、正しいこと間違っていることを教えるのみならず、どのように自分を正し、正しあり続けられるかを教えてくれる。それは、私たちを神の人として整えるためである。しかしこうしたあまりにも単純なことを私たちはよくわかっていない。聖書に向かうことは、何か心の慰めを得る以上のものである。私たちは教えられるだけではなく、神のいのちに触れ、神と語り合うことを重ねながら、その影響を受けていくのである。それは考え方の変化、行動の変化として現れることになる。つまり、日々、聖書によって、新しい神のいのちに生かされていき、その感動と喜びの中にあるのでなければ、聖書を読んだことにはならない。聖書は神のことばである。それは、シェークスピアや、ミルトンのようなどんなに心に感動を与える書であったとしても、それら天才的な作家の著作とは違う。神が、ある特定の人々を選び、霊感されて書かれるに至った、特別ないのちある書である。それは、私たちの死せる人生を、復活させる書である。
 トーマス・ア・ケンピスは、「復活を喜ぶ者はあるが、十字架を喜ばない者が多い。しかし、復活は、十字架の向こうにあるのであって、復活だけ求めてもそれはむりだ」と語った。本当に霊的に成長するクリスチャンは、十字架をしっかり背負うことができる人である。キリストの似姿に似た新しい自分を生み出そうと、自分の心の深層と向かい合っている人である。十字架を負うことから、逃げ出す自分の首の根っこをしっかりつかまえて、真に霊的な戦いの中に生き続ける人である。安易さを好む自分の肉の性質に流されず、しっかりと神のみことばを食み、神のみ言葉の歩みを進めることにしよう。



最新の画像もっと見る