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詩篇58篇

2013年06月09日 06時34分03秒 | 出エジプト記
<朝のディボーション>
 「力ある者よ」は、ヘブル語で、エレム。直訳すれば黙するである。唇を堅く閉ざすことを意味し、詩篇31:18では、「偽りのくちびるを封じてください」と訳されている。あるいは、ダニエル書では、「私はうつむいていて、何も言えなかった」(10:15)という形で使われている。「封じる」「何も言えない」「黙っている」。ここでは、語るべきことを語ろうとしない者、語り得ない者を意味し、裁きの座にありながら、公正な裁きを語り伝えられず、偏った判決を下し、地に暴虐を許している状況を語っているのだろう(2節)。
いったいダビデは、人生のどの時期でこのような状況に遭遇したのであろうか。具体的にその時期を特定することはできないが、ここでの非難は個人的な問題ではなく、社会的な影響を与えている人に対する非難である。
となればサウル王の迫害下にあり、正しいことがわかりながらも、ダビデのためにとりなすのでもなく、黙して語らず、冷やかに事の成り行きを見つめている権力者たちを言っているのかもしれない。寒々しい状況である。「耳ををふさぐ、耳の聞こえないコブラのよう」こんな者たちに権力を委ねてよいものか。まさに上に立ってはいけない者が上に立つ状況である。しかし、世の中ではよくありうることだろう。ダビデの経験は特殊な経験ではなく、身近な経験であり、人はそこに無念さを思うところである。
 しかし、天地創造の神を信じるダビデは言う。「彼らの歯を、その口の中で折ってください」(6節)「彼らを流れて行く水のように消え去らせてください」(7節)「彼らの矢を折れた矢のようにしてください」(7節)「溶けて、消えて行くかたつむりのように」(8節)「日の目を見ない、死産の子のようにしてください」(8節)。
<夜のディボーション>
ダビデのことばは激しい。「クリスチャンらしからぬ」と思う人もいるかもしれない。しかし、言葉を問題にすると、深さがわからない。言葉ではなく、ダビデのやるせない感情を受け止めるべきところなのだろう。ダビデは、自分の力ではどうにもならない落とし穴に閉じ込められているのである。正義は曲げられ、不正と暴虐が蔓延る最中に置かれている。ダビデの状況は、にっちもさっちもいかない。下手に抗おうものなら、耳をふさぎ、耳の聞こえないコブラの毒牙にかかってしまう。こんな時には、ただひたすら神に向かって叫ぶほかはない。ダビデの救いは神以外にはないのである。
「おまえたちの釜が、いばらの火を感じる前に、神は、生のものも、燃えているものも、ひとしくつむじ風で吹き払われる」新共同訳では、「生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい」である。「つむじ風で吹き払われる」と訳されたヘブル語のサアルは、直訳すれば新改訳のとおりで、ヨブ記では、「神はあらしをもって私を打ち砕き」(9:17)。言いたいことは、上に立ってはならない者が何かを計画し、実行しようとする時には、その計画が立て始められるやいなや、神がそれを根こそぎに打ち砕いてくださるように、ということだろう。神がそのようにして、私たちを守られる時に、私たちは、「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる」(11節)、と安堵の時を得るのである。
 たとい、袋小路の中に追い詰められようとも、私たちには神がいる。神は天地創造の神であり、全能の神である。神に信頼し、神に心のままを語り、神の業を見させてもらう。それが、私たちに許されていることである。神の恵み深さに感謝し、神に自らの重荷を委ねようではないか。
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