歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

一橋慶喜と桜田門外の変・会沢正志斎と水戸学の分裂

2021-04-06 | 青天を衝け
「青天を衝け」のネタバレを積極的にする気はないのですが、「史実のネタバレ」がありますからご注意ください。もっとも史実と言っても、比較的有名な事柄ばかりで、たいしたもんではありません。少し歴史を知っている方は、読んでも大丈夫だと思います。「天狗党」についても触れます。

「青天を衝け」では今週「茶歌ポン」井伊直弼が大老となって、来週にはもう「桜田門外の変」です。この間、1858年4月から1860年3月。2年です。一橋慶喜が登城禁止になったは、1858年7月です。慶喜が謹慎を解かれるのは1860年の9月です。

水戸学というのは「幕末の思想」です。後期水戸学とも言われます。戦前まで大きな影響力を持っていました。さらにこの後期水戸学は「藤田東湖の水戸学」と「会沢正志斎の水戸学」に分かれます。どっちも戦後「天皇制ファシズムの思想的基盤、危険思想」として否定されましたから、研究はしばらく停滞していたようです。

水戸学というのは「身分制を前提にした秩序安定のための思想」です。天皇がいて、政治を委託された将軍がいる。その下に藩主がいて、それぞれの家臣がいる。その下に町人とか農民がいる。そういう「身分制秩序を守ることで、日本全体が安定する」。身分に応じた道があって、それぞれがそれを守ることで社会全体が安定する。基本的には「幕藩体制の強化」を目的としたものでした。倒幕を目指したものではありません。

しかし藤田東湖は踏み込んだ主張をしました。低い身分の者であっても「天下国家(天皇を主とする日本)に関心を持つべきだ」としたのです。これは明らかに幕藩体制への批判です。渋沢栄一ら「豊かな農民」は「読書階級」であっても「低い身分」です。どんなに修養を積んでも天下国家に参加することはできない。そういう「教養ある農民層や下級武士層」が「藤田東湖の水戸学」に「心酔」したのは、そこに「身分制社会を否定するかの如き」考えがあったからです。

今「身分制社会を否定するが如き」と書きました。水戸学はあくまで「江戸期の身分制社会が生み出した思想」で、そこに純然たる平等思想がないことは当然です。あくまで幕藩体制を守るための思想なのです。だから「如き」となります。「秩序思想」ですから「身分制を根こそぎ否定する」ことはありません。身分制とは、例えば男と女。殿と家臣。武士と農民、下級武士と上級武士というものです。

徳川慶喜は藤田東湖の思想(水戸学)を学んだとされますが、彼は貴族中の貴族ですから、身分制度の堅持は自明の考えでした。実際、彼は天狗党の乱を起こした藤田東湖の息子らを「討伐」し、藤田小四郎は斬首の後さらし首となります。藤田東湖の「身分制社会を否定するが如き」考えには共感することはなかったと思われます。

水戸では「水戸学派の分裂」が起きました。安政の大獄に伴った動きです。藤田東湖の流れは「激派」と言われ、会沢正志斎派は「鎮派」と呼ばれます。過激派と穏健派です。

井伊直弼の水戸斉昭処分等に対し、朝廷は「幕政改革」に関する「勅書」(天皇の意向)を水戸藩に伝えます。孝明天皇自身が主導したようです。しかしこれを受けるか否かで、水戸藩は二つに割れます。朝廷に「送り返す」、返納すべきだというのが「鎮派」の考えです。「激派」は受け取るべきだと主張しました。

この時、水戸の徳川斉昭は会沢正志斎に強く説得され「返納」に同意します。「激派」は鎮圧されることになり、その一部は江戸に脱出します。この「脱出した激派」が起こしたのが「桜田門外の変」です。彼らは本当の意味の脱藩浪人だったのです。水戸では鎮圧される側の人間たちでした。

その後、この「激派」は藤田東湖の息子、藤田小四郎らを中心にして活動します。しかし「いろいろあって」、結局は勅許を仰いだ上で、一橋慶喜によって討伐されました。

水戸学といっても、藤田東湖の流れと、会沢正志斎の流れでは歴然とした差異が存在するようです。

最新の画像もっと見る