歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。

2021-04-18 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。史実に「少しぐらいは」基づいています。

1176年頃、源氏挙兵の4年前、伊豆に「スケ殿」と呼ばれる流人がいました。源頼朝(大泉洋)です。最後の官職が右兵衛権佐だったので「佐殿=スケ殿」と呼ばれていたのです。伊豆に流されてもう16年が経っていました。すでに29歳です。16年前の平治の乱で父の義朝が討たれ、死刑になるところを平清盛の義母に助けれられ、伊豆に流されたのです。監視役は伊東祐親(辻萬長)という地元の有力武士です。しかし16年も経っていますから、監視といっても緩いものでした。お経を読むことが課されていたのですが、比較的自由に弓の稽古などもしていました。「巻狩り」などにも参加して、地元の若い武士と交流も持っていました。憎めない愛されキャラで女好き、地元では人気者で通っていました。

ここに、都に憧れる二人の女子がいます。北条政子(小池栄子)と伊東八重(新垣結衣)です。二人は地元の「荒くれた武士」たちが嫌いで、都の貴族と結婚したいと夢見ていました。貴族といえばスケ殿ぐらいしかいませんが、八重は積極的、政子は「スケ殿はどうも女にだらしがない」と思っています。結局、頼朝は八重と結ばれます。これに涙したのが八重に憧れていた北条義時(小栗旬)です。義時の母も伊東家の生まれで、八重は「おばさん」なのですが、八重と伊東祐親に血のつながりはなく「養女」なので、八重と義時も血のつながりはなく、義時は美しい八重に恋していました。

八重と頼朝の間には子が生まれますが、これを知った伊東祐親は激怒します。生まれた子は死んだことにして養子に出されます。八重も「身を投げて死んだ」ことにされ、北条に匿われました。やがて義時と八重は結ばれ、生まれた子供が後の「北条泰時」です。なおこの時、北条義時は北条家の人間ではなく、江間に養子に出ていました。ですから名前はまだ江間小四郎義時です。小四郎と呼ばれていました。

伊豆に知恵者がいました。義時の兄の宗時(片岡愛之助)です。「平家の世はいつか終わる。その次は源氏の世だ。いや俺たちの世だ」と考えていました。そこで頼朝と血縁を結んでおこうと思います。そのころ、頼朝は八重と別れ落ち込んでいました。そこへ嫌がる政子を世話係として派遣します。やがて頼朝と政子は結ばれました。

さて、都では平清盛(松平健)がこの世を謳歌していました。「平家でなければ人ではない」と言われます。そもそもこれほど清盛が出世したのは、武力の実力もさることながら、後白河法皇(西田敏行)の「推し」だったからです。後白河法皇は自由人で、そもそも天皇になる予定もなかった人です。好きになったら止まらないタイプで、当時のJPOP=今様が大好き。歌い過ぎて喉を傷めたり、歌詞集(梁塵秘抄)を作って喜んだりしていました。清盛とは持ちつもたれつ「おぬしもワルよのう」という関係でした。清盛の異常な出世は藤原氏などの反感を買います。すると後白河法皇は自分のひいじいさんである「白河法皇が清盛の父だ」とすればいいと思います。「さすがにそれはない」と清盛は思いましたが「まあいいか」と乗ることにします。

ところが1180年になると、清盛と後白河の関係は色々あって悪化していました。清盛が後白河を幽閉し、これに怒った後白河の息子、以仁王が「平家を討て」と「令旨」を発します。源行家(杉本哲太)は食えない男で、実は「おれが源氏を仕切る」と思っているのですが、なにせ庶流です。そこで「へたれのスケ殿」を担いで「かいらい」とし、平家を倒そうと思います。そして以仁王の命令書を持って伊豆にやってきました。

驚いたのはスケ殿です。「なんで持ってくるかなー」と思います。伊豆にきてもう20年も経っています。政子と結婚し、子供も生まれ、やれやれと思っていたら源行家(叔父)の訪問です。「命令書を読んでしまった」ので、もう平家に討たれる運命が見えています。「やられる前にやりかえす」と叫んだものの、自信は全くなく、家来と言えば足立盛長(野添義弘)ら数人です。ここは北条に頼るしかないのですが、宗時を見ると「無理だ」という顔です。政子の父の北条時政(坂東彌十郎)はやや芝居がかった男で、「こうなれば仕方なし」「しかし声をかければ500騎は集まる」と言っています。しかし実際に北条が集めたのはわずか50騎でした。「えー話違うじゃん」と頼朝は思いますが、もう後へは引けません。なんとか集まった300騎で、平家の代官ヤマキを襲い、これは成功します。しかし思ったように兵は集まりません。

梶原景時(中村獅童)という武将がいました。鎌倉武士には珍しく歌の教養などがあります。北条宗時は彼を味方に引き入れようとしていました。しかし梶原は大庭景親とは親戚だったため、平家軍に加わります。ヤマキを襲った後、頼朝は「石橋山の戦い」で、大庭景親、伊東祐親など平家軍にコテンパンにやられます。山中に潜んだ頼朝に追手が迫ります。ここで梶原景時は頼朝を発見しました。しかし北条宗時の言葉を思い出し、彼は頼朝を見逃します。梶原はやがて鎌倉幕府の重臣となっていきます。梶原は頼朝を知っていました。おかしな男だと思っていたものの「弓の技能」を見て「ひとかどの武士かも」と思ってもいたのです。

頼朝は千葉に逃げます。この間、北条では宗時が討たれてしまいます。しかし義時は江間小四郎のままでした。父の北条時政は、貴族の出の「牧の方」がいずれ男子を産めば、その子を北条の嫡男にしようとしていたのです。義時は優しいだけが取り柄のような男で、期待できないと思っていたのです。義時はその方が楽だとも考えます。

千葉では千葉常胤や上総広常(佐藤浩市)が加わります。特に上総広常らの軍団は公称2万騎(実際は千騎ぐらい)と言われる大軍団でした。自然、上総広常が事実上の大将のような位置につきます。頼朝は血筋などを強調して威を張り、上総広常に対向しようとしますが、全く通じません。自分を見直すかと思って「帰れ!」というと「では帰ります」となってしまいます。頼朝は足にすがるようにして上総広常を引き留めます。とにかくその「圧」の前に頭が上がりません。北条などは50騎程度の伊豆の小者で、もちろん軽く見られていました。時政は悔しがりますが、義時は何も感じません。権力欲とは無縁の男でした。

義時は上総広常に興味を持ちます。広常は義時に言います。「お前の親父は政子殿を大将に嫁がせ、その子を大将にしようとしているのだろう。だが間違ってはいけないぜ。坂東は坂東武者のものだ。武家の棟梁なんていらねえのよ。坂東を治めるのはおれたちだ。おれたちの中で一番強いやつが大将になればいいのさ」。義時は「ふーん」と思って聞いていました。その言葉の意味が分かるのは、はるか先の話でした。「ところでお前の家はなんだい?平氏だったな」「いや、よく分からないんですよ。一応桓武平氏になってるみたいですが、系図もないし」「なんだい、偽平氏かい」と言って上総広常は笑いました。

さて源頼朝ですが、この後鎌倉に拠点を定めます。富士川の戦いで平氏の追討軍を破った頼朝は、このまま「都に攻め込む」と宣言します。しかし上総広常に「ふざけたこと言ってんじゃねえ。坂東の地固めが優先だろ」と一喝されてしぼみます。広常の言い分は正しいものでしたが、御家人たちの間には、その不遜な態度に不満が高まります。北条時政と梶原景時はその不満を背景に、上総広常の排除を考えるようになっていました。(以上)

「黄金の日日」「羅針盤」感想・「史実の宝石箱や」「信長とは何か」

2021-04-18 | 黄金の日日
次回以降のネタバレはありません。

今回は助左衛門が念願の水夫となりました。信長は京を離れてしまい、そのすきをついて三好三人衆(テロップで名前入り)の逆襲が始まります。「本圀寺の戦い」です。三好方は敗退します。堺は三好に協力した(史実です)ために、2万貫の戦費を徴収され、代官として松井有閑がやってきます。この頃は堺政所という名だったようですが、これも史実でしょう。さらに驚くべきは、尼崎焼き討ちが描かれたことです。全く知りませんでしたが、これも史実です。今井の美緒さんが公家の娘で、奴隷船で売られるところだったことも明らかにされます。灯台守のお仙ちゃんが出てきます。
織田信長とは何かが語られます。「合戦を経済戦争に転換させ、鉄砲を中心とした集団戦術を用いた男」です。

調べてみたいなということが山ほどあります。まさに「史実の宝石箱状態や」というところです。
・この時代の貿易、国内貿易の姿、船の水準
・三好三人衆の一人一人のこと。トリオ扱いではなく。
・奴隷貿易のこと。
・公家の本当の姿
・経済戦争への転換という視点

永原慶二 さんの「戦国時代」を読んでいた時、「信長は堺を抑えるのを主な目的として上洛したのではないか」という視点があって、「なるほどな」と思いました。京都を抑えてそれを足利義昭に任せたり、地元の有力者(松永久秀)などに統治を認めたりしています。でもそれでは信長の「分国」事態は増えません。全く増えないわけではなく、近江の一部と伊勢の一部は手に入りました。主に京都への道にある土地です。

しかし堺へ代官を置くことは成功します。これにより税収が増えたことも重要ですが、何より「弾丸のもとである鉛と玉薬」が手に入ります。これらは貿易以外の方法では入手が難しかったものです。鉄砲は国産化されますが、鉛と硝石は入手しにくかったようです。ただし硝石はその後古土法なる作り方で国産化されたとありました。「鉛」が例えば東南アジア製であることは、最近のNHKの「戦国」でも成分分析で実証されていました。

信長の狙いが「鉄砲と鉛と火薬」だっとすると、信長が京都という土地そのものへは冷淡だった、執着がなかったことがよく理解できます。

「信長の鉄砲戦術なんてたいしたことない」という意見が昔からあります。しかし「大量に鉄砲を使用できたこと自体」を否定できる論者はいません。せいぜい「三千丁三段撃ちじゃなかった」とか「長篠の戦いでは防御陣形を組んでいたら、勝手に武田が突進してきただけ」という類のものです。「大量鉄砲の使用」を可能にした、経済的背景に目を向けた永原さんに比べると、〇〇じゃなかったという論じ方の非生産性を感じざるを得ません。

今日の放送では、「本圀寺の戦い」は「信長の罠」とされました。三好を討つ罠というより、堺を討つための罠です。信長は足利義昭を残して京を去ります。堺は三好三人衆に味方し、結局信長の介入を招きます。この時、信長の本拠地である尾張や美濃が脅かされていたということはないと思います。すると何で京を去ったのか。京都という土地そのものへの執着はなかったとも考えられます。もし三好が足利義昭を殺したなら、それを大義に京都に攻め込めばいい。結果として堺が手に入ればいい。逆に言うとどうしても堺を抑えたい。こういう視点も可能だと思います。

鉄砲も撃つためには鍛錬を必要としたでしょうが、弓を射るための鍛錬と比べれば、習得は難しくない。弓というのは、非常に難しい武具です。