歴史とドラマをめぐる冒険

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「青天を衝け」と「安政の大獄」

2021-04-04 | 青天を衝け
安政の大獄というのは、最初は一橋慶喜派の弾圧から始まりました。でもそうすると一橋慶喜なんて関係ない「吉田松陰」がどうして殺されたのかということになります。徳川家定が死んだ後に弾圧は厳しくなります。新将軍は13歳ぐらいですから、これらは全て井伊直弼の命令です。

時の天皇は孝明天皇でして、かなり「活動的」な天皇でした。この後、手紙で会津を動かし、長州の追い出しなどにも成功します。

黒船以降、幕政改革を求める声は各所から上がってきます。井伊の考える本来の幕政のあり方からすれば、全く伝統無視の「異常事態」に見えたわけです。

慶喜擁立問題は、家茂の擁立で一応の決着をみます。にもかかわらず、井伊はその後、弾圧を強めていきます。

もっとも問題であったのは、朝廷が水戸藩に詔勅という形で「幕政改革」を命じ、それを各藩に回すように迫ったことです。これが安政の大獄における本質的な問題です。

朝廷を動かしたのは、公家や、尊王派だったと考えられますが、孝明天皇自身も「かいらい」などではありません。天皇主導だという説もあります。水戸藩としてはことが幕府政治の根幹にかかわる重大なものであるため、対応に苦慮します。結局、御三家、御三卿には回したものの(朝廷からも直接送付されていた)、井伊直弼の命令によって「秘匿」します。つまりは断りました。

朝廷の幕政への「直接的な」口出し。しかも幕府にではなく、水戸藩に伝えてきた。(幕府には二日遅れて知らせた)。これを許せば古くからの幕府体制は根幹からゆらぎます。井伊が「止めよう」としたのは「朝廷が形式的な立場」を超えて「リアルな政治」に直接的な形で口を出すことでした。「朝廷が」というより、その背後にいる雄藩やいわゆる「尊王の志士が」かも知れませんが、孝明天皇自身も「この段階では」強い攘夷派だったようです。

幕府は幕末、外交問題を朝廷に相談して勅許を都合よく使っていたふしがあります。幕府と朝廷が相談する、ならいいわけです。しかし水戸藩は親戚といえど、そもそも幕政に参加できません。斉昭の幕政参加は例外中の例外です。朝廷としても「相談されてきた」という事実があるため、「意見は言えるもの」と考えたのでしょう。しかし幕府を飛び越して水戸藩に直接にそれをやってしまった。

「こうした形の」朝廷の幕政介入を防ぐため、井伊直弼は公家や親王を処分し、「過剰な尊王思想」を広めたとされた「吉田松陰」など思想家、水戸学派などを弾圧しました。
これが安政の大獄の本質のように思います。

偉そうに書いてますが、読んでみるとすべてウィキペディアに書いてあるなと思います。

かなり強硬的な「政治弾圧」「思想弾圧」事件でした。しかし井伊直弼にとっては「古き本来のご政道」に戻す道だったのでしょう。しかしこの強硬策がかえって幕府への反発をあおってしまいます。

この時期、朝廷を「説得」して協力し、朝廷の同意を得た上で政治を行うことが「うまいやり方」でした。孝明天皇自身にも、倒幕の考えはなく、「大政委任」派で、佐幕的でした。井伊直弼、天皇、どちらの側にも「思い違い」があったように思えます。