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「青天を衝け」・井伊直弼が結んだ条約は「なぜ違勅なんだろう」という素朴な疑問

2021-04-09 | 青天を衝け
井伊直弼が結んだ条約というのは1858年7月の「日米修好通商条約」です。
「青天を衝け」ではナレーションで「天皇や朝廷の意見に背いた明らかな罪、違勅でした」と表現されました。
そうかな?と思いました。勅許なし、であることは知っています。しかしそれが「違勅」でありしかも「罪」とはどういうことなんだろうと考えこんだわけです。

・そもそも「条約を結んではいけない」という勅命があるのか。あるとしたら1854年の「日米和親条約」はどうして結ばれたのか。
・「天皇や朝廷の意見」なのか。天皇と朝廷の意見は一致していたのか。
・外交における決定権は幕府にあったのか。天皇・朝廷にあったのか。

まず朝廷の様子なのですが、近世の朝廷は「合議制」だったそうです。天皇の意志がストレートに「勅」にはなりませんでした。むしろ関白・太閤の決定権の方が強く、天皇は合議の結果を決裁するという形で意思決定がなされました。ところが時の孝明天皇は26歳ぐらいで、その後の活動を見ても分かる通り、活動的でした。

幕府で、条約の推進に当たったのは老中堀田、それに岩瀬忠震、川路聖謨といった能吏です。堀田たちは朝廷にも説明し、関白九条、太閤鷹司とは承認の方向で話あっていました。この二人が承認の方向なら、朝廷の意見が「承認」となるのは間違いないと思っていたようです。しかし孝明天皇は反対しました。そして攘夷系の公家とも図って、この条約への勅許を拒絶しました。「神州のけがれ」とか「議論不足」いった考えが強かったようです。

条約に勅許が必要という「ルール」は明文法としては存在しません。しかしこの頃の幕府はいわば「挙国一致」を目指していました。条約を結んだ後に朝廷に反対されては具合が悪いわけです。そこで老中堀田は「朝廷の許しを得ておくべき」と考えました。ただし孝明天皇自身は早い段階で条約反対の姿勢を明らかにしていました。しかし九条関白は、それを堀田にきちんと伝えていなかった。もしくは天皇の反対があっても関白の自分が承認なら承認と考えていたようです。(ここはもう少し調べてみます)

「勅許を受けようとしたため」に、反対されて違勅となってしまったとも解釈できます。「勅許」は明治期以降の日本人が考えるものとは当時は違います。井伊直弼も勅許があった方がいいとは考えていましたが、「勅許がないことは重罪」という意識はなかったようです。井伊の考えでは外交のおける決定権はあくまで「大政委任された」幕府にあるというものであったと思われます。ちなみに法制の学者さんによれば、「平安期」の違勅罪は従(ず)肉体労役1年半から二年で、貴族なら「罰金刑」ぐらいのものだったそうです。

井伊直弼はこの時「勅許を待たざる重罪は、甘んじてわれ一人で受ける」と言ったという話が「公用方秘録」という書にあるそうです。しかし学者さんの意見では、これは明治になって井伊家が作った創作です。「公用方秘録」の原本にはないとのことです。(佐々木克、幕末史)

水戸斉昭らは、現実を知っていましたから、条約締結自体に反対ではありませんでしたが、政敵井伊直弼を排斥する意図もあって、ことさらに違勅を強調しました。しかし作戦ミスでした。騒いだことで、逆に「一橋派」の岩瀬や川路が処分されます。そして自分たちも処分されてしまいます。

天皇と攘夷系の公家は、これに怒り、幕政改革の勅書を水戸に送ります。戊午の密勅といいます。「ぼご」です。なんで密勅かというと九条関白を通していないからです。既に書いたように、この問題に関する九条関白と天皇の意志はかなり違ったものでした。しかしこれも水戸の力を過大評価した行動で、「大政委任」の原則に沿わないこの密勅は水戸で「返納」ということにされてしまい、関わった公家、活動家も処分されます。これが「安政の大獄」の原因でした。(勅書返納をめぐり、水戸藩は分裂します。激派と鎮派。激派といわれた集団の一部が水戸を脱出し、桜田門外の変を起こします。なお孝明天皇は亡くなるまで基本は大政委任派です。)

孝明天皇は大老井伊直弼から「説得」を受けます。そして「心中氷解」と述べ、攘夷が実際には難しいことも理解します。しかし攘夷という姿勢はあくまで崩さず「条約破棄の猶予」という形で応じます。「基本的には攘夷だが、やみくもに外国を打ち払うという攘夷は望まない」。孝明天皇は亡くなるまでこの姿勢だったと思われます。

堀田も井伊も、「大政委任」である以上、勅許は必須とは考えておらず、不文律としてもそのようなルールは存在しないと考えていたようです。しかしいわゆる「尊皇攘夷派」は、そのような考えを許しませんでした。流れをみると、老中堀田は朝廷に対してきちんと順序を踏んでいます。岩瀬が締結を急いだのは、アロー号事件に見られるイギリスの脅威への対応からでした。現場の外交官としては現実的な対応だったわけですが、そうした現実を知るものは多くはなかった。もう少し時間があれば、天皇の意志を「攘夷開国」、つまり開国による富国強兵、それをもとにした外交による攘夷に変えられたのではないかと思います。天皇の「心中氷解」という言葉は天皇がこの条約を「やむなし」と考えたことを意味すると思いますが、それは天皇の意志が多少軟化した、現実的になったというだけのことであり、攘夷系の公家やいわゆる尊王攘夷派の工作もあり、実際にこの条約に勅許が下ったのは7年後の1865年11月です。ただし書いてきたように、朝廷の意志は「承諾である」と堀田が感じたのは正しい感覚でしょう。関白や太閤の出した意見が、天皇や攘夷系の一部の公家の意志によって覆るという事態は、当時の朝廷の「あり方、伝統」からみて想定し得なかったと思います。この孝明天皇の活動力、そして一橋慶喜の才気、岩倉具視の智謀、薩摩の実力、長州の熱気、会津の軍事力が幕末動乱期を実に複雑なものにしていきます。

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