歴史とドラマをめぐる冒険

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「貴族から武士へ」と「公武政権?」の問題

2022-05-25 | 鎌倉殿の13人
貴族から武士の世へという構図は間違っている、という本が多くあります。ふと「そうかな」と思いかけたのですが、色々考えて「貴族から武士へ」は間違っていないと思うようになっています。

大河ドラマのOPでも「武士が貴族に挑んでいる兵馬俑」みたいのが描かれます。「日本史への間違ったイメージを増長する」という方もいるでしょうが、いや「合っている」と思うのです。個人的には。

どうして「貴族から武士の世へ」が「成立しない」可能性があるのか。もっとも重要なのは「荘園という同じシステムに乗っかった収奪者である」という点です。荘園には公家寺社本家とか下司とか武士地頭とか、複数の人が利権を持っていて年貢(コメとか労役とか)を「ぶったくって」います。だから「武士が新時代のヒーローなんて図式は成立しない。同じ穴のむじなだ。」というわけです。

「誰がヒーローだなんて言ったのだ」ということです。だから「ヒーロー、英雄視」を否定しても意味はない。ただ「政治というか、ぶったくりの実権が貴族から武家に移った」というお話です。価値判断はないわけです。「ぶったくり」は価値判断かも知れませんが、、、。

武士も貴族も権力者です。その点では同じです。だから貴族という権力者から武士という権力者に実権が移ったということになります。「虐げられてきた武士の怒りが爆発して貴族を倒した」なんて言ってないわけです。ただ「権力が移行」したというだけでしょう。変な「想定」をしてその「想定」を否定しても、そんな「想定」してないから、困ってしまうということになります。清盛が「王家の犬になりたくない」と叫ぶ。あれは物語の話です。

昨日吾妻鏡の1185年以降の部分を現代語訳で読んでいました。頼朝はもう後白河と和解してますから、非常に丁重です。いやその前から丁重です。で、後白河が「地頭が本家に年貢を上納しない、なんとかしてくれ」と言うわけです。すると頼朝は「ちっとも知らなかった。驚いた。よくよく叱ってなんとかします」と応じます。知らなかった?

「地頭を置けば、ちゃんと貴族にも分け前入れるって言ったよな。全然年貢上がってこないんですど。子分をちゃんと指導してんのか」という院の怒りに対して、「ごもっとも。院の意向に全面的に従います」と応じるのですが、その後も「同じことの繰り返し」です。ちっとも改善しない。その上、都の治安も良くない。すると「武士が守るって言ったじゃないか。もっとましな警備員を派遣しろ」となります。

頼朝、口だけなわけです。そりゃ、少しはやるだろうし、やったふりもするけど、本格的に地頭を取り締まろうとしていない。していたら「同じことの繰り返し」は起きません。ついには「本家だって地頭に恨みをもって、いい加減なこと言ってませんか」と少し逆切れしてみせます。また「都の治安なら貴族にも立派な検非違使がいるじゃないですか」とも言う。院側は「あれはさー。見てくれなんだよ。警備能力がないわけ。とりあえず検非違使という職を与えているだけ。わかってよ」と応じます。頼朝はやっと「じゃあ仕方ない。〇〇を派遣しますよ」となる。「京都のことぐらい自分たちでやれよ」という不満が見えるようです。でも結局は幕府が色々やるのです。

結び
武蔵野大学、桃崎有一郎教授の「武士の起源を解き明かす」という本があります。こう書いてある。

「ところで、四世紀近い中世の大部分で、京都の形式的な主人は天皇と朝廷だったが、日本の実質的な支配者は武士だった。京都で最も重要なこと、たとえば大規模なインフラ工事に(中略)決定権を持っていたのは間違いなく武士であって朝廷ではなかった。」

ならば

「中世京都を形成したのは、一般に漠然と信じられている天皇や朝廷や町人ではなく、武士ではないか、という疑いが生まれる」

桃崎氏は「京都の歴史の専門家」であり「礼思想の専門家」でもあります。

「京都は武士の都市である」「天皇は時々京都を破壊するが、そのたびに武士が京都を再生した」、、言われてみれば目からウロコ、その通りです。すでに平清盛の段階から、大きな事業は武家が行っています。昨日読んでいた「吾妻鏡」所収の「手紙」からも感じるのですが、公家側は基本的には「なんとかしてくれ」というだけです。実際に建物を修理したり、荘園から年貢をとったり、都市のインフラを整えたり、治安を守ったりするのは幕府です。

公家の都と思われていた京都さえ「武士の都なのではないか」、、、これがどれだけ検討されているかは、学会のことは全く知らない私には分かりません。ただ個人的には、考え、検討すべき重要な提言だと思います。

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