歴史とドラマをめぐる冒険

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短編小説「九郎義経のハッピーエンド」・フィクションです

2022-05-24 | 鎌倉殿の13人
小説「九郎義経のハッピーエンド」 鎌倉殿の13人 「史実のネタバレ」を含みます。九郎義経と足利義氏のこと、鎌倉殿禅譲のこと、以外は「少しだけ史実に近い感じ」で書いていますが、完全なフィクションです。「承久の乱の大筋」を知らない方は、史実ネタバレするので読まないことをお勧めします。

健保6年、1219年、頼朝の挙兵から既に39年がたっていた。多くの人々が鬼籍に入った。名前を挙げればきりがないだろう。そして源頼朝も、もうこの世にない。頼家、実朝と「鎌倉殿」は移り変わった。

その実朝が甥の鎌倉八幡宮別当(長官)公暁によって殺された。公暁は頼家の忘れ形見である。ほんの二年前、京から鎌倉に舞い戻り、北条政子のはからいで別当職についた。政子にとっては公暁は孫であり、実朝は次男である。

その日、実朝の右大臣昇進を祝う鶴岡八幡宮拝賀の日、北条小四郎義時は、実朝に近侍していた。しかし本宮には近侍は連れていけない。実朝の死はあっけなかった。

実朝は義時にとって、決して好ましい「鎌倉殿」ではないと民は思っていた。資質は十分だった。しかしあまりに京に寄り過ぎた。和歌においては後鳥羽院の弟子というべき存在であった。そのため暗殺の背後に義時がいる、または三浦の義村がいる。うわさは色々だった。しかしつまるところ、公暁の単独犯行であった。その公暁もすぐに追手に誅せられた。

源頼朝の血統は絶えた。

鎌倉殿は源氏でなくともよい。実は実朝自身がこの考えを持っていた。実朝は鎌倉幕府の本質が坂東武者の連合政権であることをよく理解していた。無駄に源氏の血が流れてきた歴史に自分が終止符を打とうと思っていた。実朝は数回、鎌倉殿の地位を義時に禅譲したいと密かに申し出た。しかし義時は固辞した。御家人が納得しないというのがその理由だった。すでに多くの一族を北条氏は討ってきた。鎌倉には北条に対する不満が山積していた。とてものこと鎌倉殿になどなれない。
実朝は政子や義時と図って、京から摂家子息、できれば幼い親王を呼んで、鎌倉殿の地位につけたいと計画していた。「お飾り」で良かった。いや「お飾り」こそ必要だった。坂東武者の血縁がいない高貴な血筋。成長して政治力を持とうする前に京に送り返す。それを繰り返していけばいい。実朝はそう計画していた。政子も義時もそれを支持した。
「公暁とともに、頼朝殿の血を自ら絶とうとしたのかも知れない」と政子は泣きながら言った。新しい鎌倉殿には、かねてからの計画通り、京から摂家の子息が迎えられた。

小町亭の義時宅に、半ば公然と奈良の寺の一角で暮らしていた九郎判官義経が現れたのはその頃だった。義経が静と奈良で百姓暮らしをしていることは、御家人なら皆知っていた。むろん頼朝も知っていた。
「九郎は鎌倉第一の功労者ではないか」と頼朝は言った。
これは「平家打倒」を指すものではない。九郎が「逃げ回って」くれたおかげで、頼朝は朝廷から多くの権利を獲得した。九郎追討の名のもとに、税をとる権利、地頭を置く権利を獲得した。さらに奥州出兵の大義も得た。九郎の「功績」はむしろ「平家打倒」のあとの方が大きかった。
「それに免じて」と頼朝は言った。そもそも九郎への同情心が強い御家人たちに、反対するものはいなかった。あの梶原景時さえ一言も言わなかった。

「九郎か、久しぶりだ。死ぬ前に一度会いたいと思っていた」九郎殿とは言わなかった。義時は今は鎌倉の主とも言える執権である。武家の棟梁と並ぶ立場だった。そしていささかの「愛着」も込めていた。今でも義時は、三浦義村を「平六」と呼ぶ。そうした友情を込めて「九郎」と呼んだ。
その思いは義経にも伝わった。義経が激することはなかった。
「小四郎、偉くなった。よく頑張ったな。誉めてやる。」義経の態度は相変わらず尊大である。
「九郎、命が危ないと思わなかったのか」
「兄上の遺言があるだろう。奈良から出ない限り、九郎には手を出すな」
「奈良から出ているではないか」
「なにもかも昔のことだ。忘れろ。いまさら俺を殺してなんになる。それより実朝のことだ。兄上の血筋はこれで絶えた。他の源氏はどうしている。」
「今のところ動こうという一族はいないようだ」
「そりゃ、そうだな。鎌倉殿の地位なんぞ、呪われた地位だ。すこしも幸福じゃない。おれは頼まれてもお断りだ。」
「だれがお主に頼むか。それよりなぜ危険を冒して鎌倉に来た」
九郎は声を落とした。
「静が病だ。もういかん。もってひと月だろう。里が看病してくれている。息子に会いたいと言っている。」
「足利義氏殿か」
「そうだ。死んだことになっている俺と静の息子だ。義兼が兄上の命で養子にした。義氏は知っているのか」
「知っている。何もかも知っている。あの男はいいぞ。お前と違って身の程を知っている。控えめで真面目で、欲がない。清和源氏を鼻にかけることもない。いい武者に育った」
「それなら話は早い。静は動けない。奈良に来いと伝えてくれ」
「あい分かった。早く去れ。お前が鎌倉殿の地位を狙ってここに来たと思う輩が出てくる。おれにしても黒幕扱いされたのではたまらん」
「わかったよ。邪魔者は去るのみだ。小四郎、ありがたく思うぞ」
去り際
「小四郎、弁慶が京で妙なうわさを聞きつけてきた。後鳥羽の院が騒がしくなっているそうだ。気をつけろ」
「それは俺もつかんでいる。大丈夫だ。まさか院から戦を起こすことはあるまい」
「いや、わからんぞ。院はなんでもできるそうだ。和歌も蹴鞠も、刀まで自分で作る。腕っぷしも強いらしい。それに若い。昔の俺のように、自分を過信する男かも知れない」
「腕っぷしか。しかし坂東武者とは気持ちが違う。自分の死を考えたことはないだろう。いくら腕っぷしが強くても、刀が打てても、京の御所の中にいたのでは、武士とは何か。どういう人間か。そこが分からん」
「要するに武士とはちょっと頭がおかしいやつら、ということが分からないということか。分からないから余計に危うい。せいぜい気をつけることだ」
そう言って九郎は去った。足利義氏は奈良に出向いた。この義氏の子孫が足利尊氏であるが、彼が室町幕府を開くのは、100年以上後のことである。

承久3年、1221年になった。後鳥羽院による「北条義時追討の宣旨」が下った。承久の乱の始まりである。
義時の子、金剛は見事な武者に育っていた。はじめ「頼時」と名乗った。頼朝の一字をもらったのである。実朝がそれを嫌った。「父のようになってほしくない」というのがその理由だった。天下の安泰を願って「泰時」と名乗るよう言われた。後世、鎌倉随一の政治家と言われた北条泰時である。
政子や義時、義時の弟の時房、大江広元、三善康信、泰時、三浦義村といった幕府首脳は、「義時追討の宣旨」を幕府つまり関東追討の宣旨と捉えた。京では鎌倉政権を関東と呼んだ。当時、「追討宣旨」を幕府のような「機関」に出す先例はない。「追討宣旨」には朝敵の個人名が必要だった。そして義時が名指しされた。北条義時が倒れれば、幕府が鎌倉という場所に残るはずもない。新たな坂東武者の主(三浦が最有力だが)は京に召されるだろう。地頭職は残っても、鎌倉に幕府は残らない。有力御家人もみなそう受け取った。
しかし宣旨の力は大きかった。頭では、みな分かっていた。頼朝追討の宣旨など数回出された。朝令暮改のようにそれが義経追討の宣旨に変わった。宣旨は坂東武者にとってそういうものだった。
しかし中世は宗教と迷信の時代だった。宣旨は軽くとも、後鳥羽院には何か人を呪い殺すような特殊な力があるようにも思った。それも迷信だと頭では分かっていた。しかし心のどこかに恐怖があった。
そんな義時たちの前に、九郎がふらりと現れた。
「私が呼んだのです」と泰時が言った。
「これで勝てる」、義時たちは瞬時にそう思った。しかし心が華やぐということはない。上皇に勝つということが何をもたらすか分からなかった。
「何を暗い顔をしている。小四郎、いろんな借りを返してやる。」
九郎は会議の主役となった。
「大江広元、京都育ちだったよな。宣旨が恐いか。どうだ」
「宣旨などというものは、勝てばたちどころに撤回されるもの。上皇も人の子。人を呪い殺す力などありません。しかし御家人にそれが分かるか。ともかくも、すぐに動くことです。でなければ御家人たちに動揺が広がります」
「よく言った。そうだすぐに動くことだ。ああ、そこで寝ている三善の爺さん。病なのにご苦労だな。どうだ」
「大江殿と同じ意見です。そもそも我らが京を捨てたのは、こうなることを見通してのこと。すでに今日があることは分かっておりました。戦のことはともかく、京のことは我々がよーく知っています」
「そうだ、いずれこうなったのよ。金剛、いや泰時だっけ。金剛の方が強そうでいいと思うけどな。これは金剛推しだぜ。お前どう思う。」
「少し様子を見て」
「バーカ、慎重もいい加減にしろ。様子なんて見てたら、どんどんどんどん相手が有利になるのさ。御家人に考える時間を与えないことだ。やつらは動き出したら止まらない。動いているうちに、上皇への恐怖などなくなって、死に物狂いになるもんさ。泰時、お前は大将だってな。一人でいけ。これが終わったらすぐ馬に乗って京へ走れ。どうせお前は慎重居士なんだろ。そのお前が飛び出せば、御家人たちは我先へと追いかけるさ」
「相分かった」泰時の顔が紅潮した。
「さて、姉上、姉上は御家人に話かけるのです。やつらは恩義に弱い。恩とはつまりは利。やつらは利にさとい。恩という言葉で、利を刺激するのです。」
「わかりました。すぐに盛時と文章を考えます」
「思いっきり感動的なので頼みますよ。さて最後、小四郎お前だ」
「俺は何をすればいい」
「何もするな。話すな。動くな。山のようにどんと構えてろ。間違っても心配事や弱気を口にするな。お前が動揺すれば、みなが動揺する。」
「よし分かった。で九郎はどうする」
「馬鹿だな。金剛が飛び出せば、そこで勝負ありだよ。まあ大体の作戦はここに書いてきた。この通りやれば勝つ。俺は金剛の勝利の舞を見に行く。金剛、面白く踊ってくれよ。」
「分かりました。出ます。しかし上皇様ご自身が先頭にたって向かってこられたらどうすれば」
「来ないけどね。まあ来たら、一旦は馬を降りて、礼をしろ。丁重に礼をしろ。そして丁重にとっつかまえろ。それで勝負ありじゃねえか。来てくれたらありがたいな。ありがたく、捕まえて差し上げろ」
「おい、平六(三浦義村)、これでいいか。大丈夫か。弟は京都側の大将なんだろ。馬鹿な弟を持つと苦労するよな」
「ああ、馬鹿な弟ほど始末におえないものはない。武衛(頼朝)の気持ちがよく分かったよ。小四郎、俺も京に行くぜ。せめて胤義を俺の手で立派に死なせてやりてえじゃねえか」
九郎はつぶやいた。
「後鳥羽の院もかわいそうな男だ。年は30の半ばか。才能があったのがいけなかった。凡庸なら、可もなく不可もなくで生きていられただろう。小四郎、殺すな。殺せばのちが怖い。お前の名が悪名として残る。これだけのことをやったのだ。これで本当の武士の世がくる。歴史に美名を残せ。まあ美名は無理でも、極悪人扱いはお前も嫌だろう。まあ朝廷をなくしてしまうというなら、そこまで徹底してやる気なら、話は違うけどな」
「そこまでやる気はないし、できはしないさ。分かっている。院は丁重に扱うよ。ただし遠流だ。あの才気は、正直怖い。」
「怖いと言うなと言っただろう。雷が鳴っても、大風か吹いても、何も恐れるな。祟りなんてものはない。小四郎、お前は怯えてはならんのだ。死ぬのなんて怖くないだろう。どうせお前の地獄行きは決まっているのだ。死んだら地獄で会おう。兄上も地獄で待っていることだろうよ。」
九郎は微笑んだ。
「そうだ、泰時。お前が次の執権だ。俺は今百姓だ。だから言うが、民を思え。まあ飢えないほどコメか粟があればそれでいい。それと頭が悪いくせに威張っている、残忍な地頭を取り締まれ。あんな奴らをのさばらせたのでは、滅ぼした平家に申し訳がたたん。しっかりやれよ。」
泰時は頷いた。これで会議は終わった。泰時は発った。結果は九郎の言う通り、幕府側の勝利に終わった。

九郎は御家人になる誘いを断り、多くの金銀を貰って西へ去った。非御家人ながら奈良に豊かな荘園を一つ手に入れた。九郎は里や子供たちとともに畑仕事をして暮らした。時々、京に出向いては白拍子を呼んで遊んだ。鎌倉の御家人たちの子弟は、九郎のもとに出向いて合戦の話を聞くことをせがんだ。九郎は喜々として手柄話を話した。義経は余生を「おもしろく」生きた。 了。

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