歴史とドラマをめぐる冒険

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「承久の乱」をゆっくりと考えてみる。北条政子の演説と大江広元の野望。「鎌倉殿の13人関連」

2022-01-13 | 鎌倉殿の13人
承久の乱における幕府の勝利、1221年をもって「鎌倉幕府の真の成立」とする。なかなかに魅力的な考えです。まあ「鎌倉幕府の成立」は、「こう考えるとこの年になる」というだけで、「正解を求める必要はない」命題でしょう。ただし、これは歴史学者さんが「説」を出すのを無駄だと言っているわけではありません。むしろ「何年と考えるか」によって、その人の史観や歴史の見方がはっきりするので、「静かに論争して」ほしいなと思います。今は1185年と教科書にあります。これは「諸国に守護、地頭を設置することを朝廷が認めた年」ですが、さっそく「そんなこと認めていない」「いや守護そのものがこの年にはいなかった」等の意見が出てきています。「静かに論争」するなら、どんどんやってほしいものです。

さて、承久の乱では有名な政子の演説が存在します。実際は御簾の内にいて代読とか吾妻鏡には書いてあります。でもドラマでは演説してくれないと絵になりません。
こんな感じですね。

最後の言葉だと思って聞いてください。御家人の皆さん。右大将軍頼朝が、幕府を開いていて以来、官位も俸禄もみーんな頼朝様のおかげでもらえたでしょ。その恩は山よりも高く、海よりも深いわよね。ところがね、京の後鳥羽院がね、三浦胤義とか藤原秀康にそそのかされて、とんでもない命令をくだしたの。名を惜しむ人はね、胤義たちを討ち取って、三代の将軍の遺業を全うしてね。もし京都に付きたいというのなら、ここで言ってね。

歴史学者さんの「一部は」いいます。「義時追討と後鳥羽は言っているが、幕府を倒せとは言っていない。政子は巧妙に後鳥羽が討幕を狙っているという風に読み替えをしている」と。

つまり討幕じゃない。あくまで義時追討だということですね。私はそうかなー、結局は幕府の解体になる、それは討幕だと思います。もちろん学者さんがほぼ共通していうように「武士の根絶を考えているわきゃない」わけで、要は後鳥羽上皇にとっては「武家がコントロール下」に入ればいいわけです。でも北条に代わって「上皇のお気に入り」が幕府の実権を握っても、また御家人抗争が始まるだけでしょう。それに「鎌倉」に幕府を置くとも思えない。上皇の武家機関は京に置こうとするでしょう。とりあえず鎌倉幕府は一旦解散、つまりは討幕状態です。(と素人の私は考えます。倒幕だと考える学者さんも結構いると思います。)ちなみに幕府側の意識は今の段階では私にはよく分かりません。幕府は「朝の大将軍」として、日本と朝廷の守護者を自負してきました。「朝廷を守る。その為に後鳥羽上皇を討つ」、この論理なのかも知れませんが、浅学にして今は分かりません。ゆっくり考えてみたいと思っています。

倒幕か。うーん。そもそも幕府という言葉が政権を指さない。倒幕なんて「文字」はたぶんない。だから後醍醐だって「幕府を倒せ」なんて言ってないそうです。あくまで「北条高時一派を排除せよ」。でも結局倒幕になってしまいます。(足利尊氏は自分が倒幕をしていると本当に気が付いていなかった。北条排除だと思っていたという説もあります)

話戻して、北条政子の凄いところはこっからあとです。義時たちは箱根あたりで迎え撃とうかと考えます。しかし大江広元一人が「それじゃあ、士気が緩んで負けますよ。すぐにでも京に向かいましょう」と主張するわけです。すげーな。大江広元。そして「大将軍である泰時殿一人でも出撃するのです」と言います。
やがて朝廷と幕府が戦いとなることは予想していた。その時「朝廷と戦え」というために、自分は鎌倉に来たのだと言いそうな感じです。(吾妻鏡では、そこまで言ってはいませんが)

二つの案がでたので、この二つの案を政子に持っていく。政子が最終決定権をもっていると吾妻鑑は記します。そして政子は言います。

「(馬鹿じゃないの)、京に行かないと、朝廷軍を破ることなんかできないじゃないの」(上洛せずんば、さらに官軍をやぶりがたからんか)

その通りです。もし本当にこれを政子が言ったなら、大江広元と示し合わせてのことかも知れません。さらに追討される本人である義時も、表面上は多少謹んで、迎撃戦に傾いたふりしてますが、政子にこれを言わせたかったのかも知れません。

政子や大江広元は全く朝廷や上皇や、上皇の恨み(怨霊)を恐れていないように私には読めるのですが、いかがでしょうか。

「当時の人は朝廷や上皇(やその怨霊)をこの上なく恐れていた」と「タイムスリップして鎌倉時代に行ってきたようなこと」をいう人がいます。あくまで方法的懐疑ですが、「本当かなー」と思います。本音が文字に残されることは少ないですからね。それに「頼朝時代からさんざん朝廷と渡り合ってきて、頼朝追討の宣旨なんか、鎌倉が勝ったらあっという間になかったことになっている」わけです。1180年から1221年の30年間は、武士の朝廷に対する意識を変えるには十分な時間です。「あれ、怖くないじゃん」と思う人間が出現しても、不自然ではないでしょう。

「当時の人はこうだった」と聞くと、「そうなのか、鎌倉時代に行ったのか。もしかして中世の人なの?」という疑問が、どうしても心に湧いてきてなりません(笑)。批判ではありません。どんな専門家のお言葉でも、納得できないものは納得しない。ただそれだけの話です。もちろんほぼすべての学者さんが「恐れていた」と言うのですから、この勝負は私の完敗です。でも完敗でも、自分で考えてみたいと思っています。「政子も広元も全く恐れていないじゃん」と最後に小声で言っておきます(笑)


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