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書評・呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」

2022-01-29 | 権門体制論
呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」

数年前に呉座氏の本は4冊ほど読んだ。逆に言えば4年ほど前に4冊読んだだけで、読み返しはしていない。「陰謀否定論」は二回読んだかも知れない。最新刊「頼朝と義時ー武家政権の誕生」は二度ほど読んだが、まだ熟読というほどは読みこなせていない。しかしこの先読み返すか分からないので、記憶のあるうちに書評を書いてみる。なお私は呉座氏のことはほとんど知らない。「騒動」は知っているが、触れる気もない。今回読んでみたのは「13人」関連であるし、「どんな歴史家か」確かめてみたいという気持ちもあったためである。

1,思考のベースには「権門体制論仮説」の「武家」「公家」「寺家」の相互補完仮説があるように読める。ただし「見える」だけでおそらく批判的である。「武家政権」の成立を明確に認めている。公武対立史観は明確に否定しているが、「公武政権」とは書かない。したがって権門体制論のキーワードである「相互補完」という言葉は、たぶん一回も使用していない。「王家」は使用しているが、権門体制論的王家かは分からない。東国独立論は淡々と否定しているように見えるが、裏読みは可能かも知れない。

2,そうした理論的仮説よりも、「通説」(その時の多数派説)を重視し、肯定する傾向が強い。「定説」は否定したりしなかったりする。佐藤進一さんが源流となった「定説=古典的学説」には基本的に反対する。「通俗説」には基本反対だが、たまに取り入れる。一次史料は重視するが、原理主義的に重視はしていない。「通説」「自説」の補強となるならば、軍記物も肯定する。ただし「平家物語史観」は否定している。だから義経に対して厳しい。

4、頼朝の敵は平家でもあったが、同時に敵は有力源氏であることを「強調」している。頼朝は源氏の棟梁ではなく、したがって「源氏の棟梁となる」ことが悲願であり、そのためには平家と共存しても仕方ないと考えていたとしている。頼朝を「現実的でしたたかな政治家」として評価している。義経の壇ノ浦での勝利は頼朝にとって誤算である。東国武士中心の軍団である範頼軍が勝つことが重要であった。さらに三種の神器を手にいれて「朝廷と有利に交渉する」ことが目的であったとしている。西国武士中心の義経軍の勝利は頼朝にとって好ましくない。三種の神器のうちの「剣」を失ったことは、朝廷との有利な交渉カードを失ったことであり、むろん好ましくない、としている。

4,鎌倉幕府は基本朝廷との共存姿勢を持っていたとする。(呉座氏の論調からすれば、現実的にみてその方が有利だから共存したということか)。幕府自体は御家人の利益団体だから、あくまで幕府の利益を優先する。幕府は朝廷の権威の庇護を必要としていたが、摂家将軍(やがて親王将軍)を迎えたことによりその必要はなくなった。もはや「譲歩」の必要はなくなり、「武家優先の公武体制」が構築されたとしている。承久の乱は「革命ではなく」、荘園制も院政も残った。ただし現実としては幕府が圧倒的に有利であり、それは「武家政治」と呼べるものとしている。

5,「武家政治」は幕府にとっては困った問題でもあった。「朝廷の上に立った」(形式上は朝廷が上)ことによって、幕府は公儀的責任を帯び、東国武士の利益のみを考えているわけにはいかなくなった。幕府は変革を迫られた。具体的には「撫民政治」「公家、寺社、西国武士等との利害調整」を行う必要がでてきた。そうした中で「武家政治」は成熟していった、としている。つまり「武家政権」の成立を明確に認めている。(何を当たり前な、、、とはならない。ここは注目すべき点だと思う。)

感想
本を読んで全面賛成することなどありえないので、「そうかな?」と思う部分は多々ありました。しかしそれが「本を読む」ということなので、別に批判してるわけじゃありません。むしろ多くの「論点」を提供していただいてありがたいと思うほどです。落ち着いた書きぶりで、これなら呉座氏の説を批判しても「落ち着いた論議ができるかも」と思いました。あっ、論議するのは私ではなく、学者さんですよ。
野口実さん、元木泰雄さんの説を遡上に挙げることが「突出して」多いように感じました。「批判的引用」「肯定的引用」、半々ぐらいでしょうか。結構批判もしています。ちなみに北条氏家格高かった説は、明確に否定しています。

歴史家が記述をする時「定説である」「通説である」「俗説である」「通説であるが疑わしい」などという言葉が頻出します。呉座さんの本を読むのは久しぶりですが、ネットでコラムなどを読んだ時、「今の通説である」と書く傾向が強いことが気になっていました。「通説」とは「定説ではないが今の多数派の説、将来定説になる可能性がある説」です。ただ可能性であって、定説にならない通説(一時の流行)も多くあります。それは十分ご理解しているはずなのに、「通説である」をちょっと強く言いすぎではないかと思っていたのです。その傾向はこの本でも感じました。しかし「通説らしきもの」を強く批判している文章もあり、そういう私の誤解は修正しないといけないかも知れません。

後鳥羽蜂起の際の「大内裏焼失事件」に言及していて、ここは面白いと思いました。というのも桃崎有一郎さんという通説(多数派説)批判をする傾向が強い武蔵野大学の教授さんがいて、この焼失事件に関していろいろと興味深い説を展開しているからです。明らかに意識していると思いますが、参考文献にはありませんでした。桃崎説への評価も聞いてみたいと思います。以上です。


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