歴史とドラマをめぐる冒険

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織田信長と武田信玄が直接対決していたら。三方ヶ原の戦いのことなど。

2020-06-15 | 織田信長
昨日、織田信長の大家である谷口克広さんの「信長と家康の軍事同盟」という本を読んでいたのです。当然、三方ヶ原の戦いが出てきます。良質な資料というのは皆無らしいですね。

「武田信玄が生きていたら、織田信長などつぶされていた」と言われることがあります。谷口さんの見解だと「そんなことはない」そうです。

三方ヶ原の戦いは新暦だと1573年の1月です。この時信長の敵というと

・浅井朝倉、しかし信長軍は小谷城を囲む勢いで優勢
・本願寺、一向一揆、長島など
・松永久秀など

そこに武田信玄が2万以上の兵力で西上してくるわけです。西上って日本語、あるのでしょうか。とにかく西上です。

で、まず三方ヶ原の戦いで徳川軍+少しの織田軍がぶつかります。ここで徳川織田軍がコテンパンにやられるので、その後、信玄が生きていたら、ずっとコテンパンだったという推測が成立することになります。

「そんなことはない」と谷口さんは書いています。正直、そんなに詳しく分析はしていないのですが「当時織田には5万の動員力」があった。とした上で。

・上洛しようとすれば武田の兵站は伸び切って破綻してしまう。上洛は翌年という史料もあり、ここでは美濃岐阜において信長と対決しようとしたのだろうと推論します。

・しかし、頼りにしていた朝倉軍が冬を口実にというか、まあ冬になったので帰ってしまった。信玄は怒りの書状を朝倉義景に送ります。

さっき私が書いた「5万」という数字が、他の敵への備えを「差し引いた数字」なのかは、谷口さんの著書では分かりません。でも当然「差し引いた数字」なのでしょう。

その後、槙島城の戦いで織田は7万を動員しています。朝倉が引いた以上、浅井には抑えの軍勢だけでいい。本願寺に1万、松永等に1万。そう考えると、4万ほどを武田信玄との決戦に回せることになります。ちなみに三方ヶ原の戦いの戦いにおける織田軍の「あまりに少ない3千」については「監視」のための人数だろうと、谷口さんは書いています。

私が谷口さんの考えをちゃんとまとめているかは分かりません。私の能力の限界があるからです。だから「引用」の形で、そのままを書きます。

「織田軍は当時五万余の動員が可能である。数か月の遠征を経てきた二万余の武田軍では勝負になるまい。信玄もそれを承知していたから、朝倉・浅井軍に近江で牽制させようとした。また美濃の国衆安藤・遠藤にも働きかけた」123頁

とのことです。

なるほどな、信玄は「とても勝てない」という考えも成立するのだな、となんというか「面白いな」と思いました。過去の大河ドラマ等においても「信玄がそのまま西上したら織田はつぶれる」は常識になっていました。私自身は恥ずかしながらあまり深く考えたこともなく、「そうなんだろうな」と思っていました。「信玄はとても勝てない」と思ったことは一度もありませんでした。

織田信長は大きなデフォルメを持って描かれてきました。それは「神君家康」も同じです。また「神君家康がコテンパンにされたのだから武田信玄はものすごい武将だ」というデフォルメは、江戸時代から始まっています。それをよく知っている私でも三方ヶ原の戦いの様子を知れば「その後信長も苦戦しただろう」と考えるわけです。でも専門家である谷口さんの意見は「信玄は勝負にならない形で負け」ということです。生きていたとしても、朝倉が引いた時点で、甲斐へ引き上げを考えた、ということになるのでしょう。

むろん違う専門家は違う意見を出しているのでしょう。「兵力をどう計算するか」「裏切りを考慮するか」が問題となるでしょうね。ただし朝倉が引き上げた以上、鎧袖一触で「織田が敗ける」なんてことにはなりそうもありません。美濃なら信長は何年も戦えますが、遠征軍である武田はそうは行きません。そもそも谷口さんの考えでは、勝負にならない、織田の勝ち、ということです。

ここで「武田信玄がもし生きていたら」で検索をしてみたのです。なんと「別に変らない」「織田が勝つ」「信長が岐阜城に籠城して信玄は引き上げ」がかなり多数派という状況でした。

私がずっと間違っていたようです。「思い込み」というのは怖いもんだなと思います。私にとって日本史は趣味なので、間違っていてもそんなに恥ずかしくはありません。むしろ間違っていたことに気が付いて「おもしろいな」と感じています。趣味でやっていない本物の学者さんとか研究者さんは「きつい作業をしているな」と感じます。

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