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「オリジナル権門体制論」と「象徴天皇制的権門体制論」

2022-11-26 | 権門体制論
黒田俊雄氏のオリジナル権門体制論はきわめてシンプルな考え方である。

中世(平安末期から室町中期まで)において国家を支配したのは公家・武家・寺家の3大勢力である。以上。

これで「終わり」である。つけ足すとすれば「天皇の位置」だが、「天皇の位置」まで言及するとなると「シンプル」にはいかなくなる。「天皇を中心としてゆるく結合」は実は間違っている。そんな粗雑な分析で「こと足れり」とはならない。黒田俊雄氏は1960年代、「天皇制の権力構造の解明」の為に「オリジナル権門体制論」を提唱した。そして天皇制の分析に多くの労力を費やした。それを「ゆるく統合」などという粗雑な言葉で表現することは不可能である。「ゆるく統合」は現代の「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」の産物である。

ちなみに黒田氏の難渋さの断片だけを紹介するなら、

天皇は「王家の一員ではない」、王家は「王=天皇を輩出する私的勢力」ではあるが、王=天皇は「王として公的に振る舞う」場合、王家の一員ではなく公的な存在である。しかし天皇が私的勢力(王家)の家長として振る舞う場合、彼は権門の長という私的存在である。公的存在である天皇が、私的存在である天皇に「公的承認」を与える場合がある。これは「同一人物」であっても成立する。しかし一般には中世において天皇が「公的存在」という「みかけ」を付与するのは、上皇に対してである。そのことは天皇権力が上皇の私的権力より大きいことは意味しない。天皇は極めて無力な形式的存在であり「公家、武家、寺家という私的勢力に対して公的なみかけ」を付与するための機関に過ぎない。ただし天皇親政の場合、天皇は私的存在である自分に、公的機関として「公的存在」であるという「みかけ」を付与することになる。

以上は黒田氏の著作の引用ではなく、「私のまとめ」であるが、我ながら難渋である。この「複雑さ、難渋さ」についていけないと、オリジナル権門体制論の「天皇」「国王」は理解できない。
もっとも理解することは必須ではない。中世は上記の3大(私的)勢力が社会を支配した、で十分とも言える。天皇や国王の説明は国家論的課題である。大切なのは公家、寺家、武家の「具体的統治機構の理解」であって、天皇の位置は副次的問題である。とはいうものの「私的」の意味を理解するためには、多少は国家論に踏み込まないと無理である。

もっとも黒田氏の「思いなら」、もっと「シンプルに言う」ことは可能である。

武家(幕府)だって支配者じゃないか。天皇制下における「権力者」ではないか。武士は貴族階級を打倒した「英雄」ではない。

これだけである。戦後、皇国史観(今も実は健在であるが)に代わってマルクス史観が隆盛を極めた。実は多くの学者は「マルクス主義者ではなく」、単に「非皇国史観を基調とし、学問的にできるだけ中立で科学的な」立場を「とろうとした」に過ぎない。その時、「階級闘争」と「下部構造の解明」を重視するマルクス史観は、歴史分析のツールとして「ある程度有効で」科学的に見えた。世界の基調もそうであった。いわゆるグランドセオリーである。この「ある程度有効」という事実は、実は今も変わっていない。「武士の家計簿」を分析したり、「信長の天才性より経済力の源泉」を解明しようという姿勢は、「下部構造の分析」である。しかしそれを行っている学者は、マルクス主義者ではない。それは1960年代も違わない。彼らにマルクスに関する著作はほぼなく、おそらく19世紀のドイツ語も理解できなかったであろう。唯物史観をツールとして使うことと「マルクス主義者であること」は全く別の問題である。「下部構造」の代表選手は、中世においては「荘園」であり、「荘園研究」が歴史学の王道であった。優れた成果が多く生み出されたが、「武家の荘園、武家の権力の下部構造」の分析に重きをおくものが多かった。

1960年代以降、「国家史、政治史」とはつまり「鎌倉・室町幕府の歴史」であった。

それに対し黒田は「天皇の歴史、公家の歴史、寺家の歴史」の解明も必要だと訴えた。理由はシンプルである。中世国家が存在したとすれば、それを支配しているのは公家、寺家、武家の3大勢力であるから、武家=幕府の分析だけでは「片手落ち」であり、「すべての権力の構造」を解明することはできないからである。京大出身の黒田氏にも多少の「京都愛」はあったが、現代の一部の学者のように、臆面もなくその「郷土愛」を表明することはなく、天皇に関しては一貫して「知的分析の対象」として「突き放して」いた。

「中世においても天皇に権威があった」などとは書かない。「天皇に権威があるように見えるのは、また実際権威が機能することもあるのは」どのような具体的機構(政治機関、武力機関、なかんずく仏教と儒教、寺家を代表とするイデオロギー機関)によるのか、それを黒田氏は「解明」したかったのである。

黒田氏は書く。

国家における全人民に対する「全支配階級」の「総体」を分析するためには、幕府の分析だけでは不十分である。

そして「全支配階級の総体」を分析するためには、それぞれの権門の持つ「機構」=役所、暴力機構=武力、経済機構(税の徴収の機構、流通への関与)、思想機構=正当化のイデオロギーを分析しないといけない。「機構分析」が歴史学の王道となるべきなのではないか。

マルクスは時代のイデオロギーを「経済構造が決定する上部構造とみなした」(私はマルクスを勉強していないので、おそらく)と思われるが、黒田はイデオロギー装置(寺家が代表であるが、儀礼や様々な行事を通じてなされる民衆の価値観の誘導)を「下部構造」とみなした。

蛇足であるが、私でも「史学」を志すなら、権門体制論にとびつくだろう。「公家の研究」にはまだ「はいりこむ余地」がいくらでもある。また「寺家の研究」に至っては「まだ始まったばかり」であるからである。

しかしここに一つの困った問題が生じる。それは黒田氏が「武家の権力の分析だけでは、皇国史観の真の克服にはならない」と主張したことである。黒田氏が政治信条としては「反権力思想に親和感を持っており、共産党の機関紙にも寄稿し、象徴天皇制を天皇制美化の洗練された形態として批判した」ことは、そしてその為に多くの論文を書いたことは、自明の事実であった。

あまりにイデオロギー色が強いのではないか。3大勢力の分析を行えという主張は「正しく、また研究者としてはありがたい」が、このままでは「使えない」。「政治的に中立な立場」を「仮装」しなくては使えない。歴史学は所詮はイデオロギーの産物であるが、それでもここまで「露骨」では困る。

そこで黒田以降の学者は、黒田の理論から、政治性や思想性を「抜いて」(抜くという行為自体が極めて政治的な行為なのだが)、難解さが一切ない「馬鹿らしい」とも評される単純な「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」を生み出した。現代われわれが目にする「現代権門体制論」はこれであり「象徴天皇制的権門体制論」と呼ぶべきものである。イデオロギーとしては全く別の方向を向いていると言ってもいい。

一方黒田氏はどうなったか。その著作のうち、現代でも比較的容易に手にはいるのは、「寺社勢力」「王法と仏法」の二冊である。黒田氏のよきライバルであった永原慶二氏らが編集した「黒田俊雄著作集」は絶版となり、今は受注生産でかろうじて入手できるだけである。私の自治体東京某区には20以上の図書館があり、かなりの専門書でも入手可能だが、黒田俊雄著作集はない。東京23区では「中野区」もしくは「千代田区」に存在している。「権門体制論を黒田氏の原著に遡って研究しようとする学者」もほとんどみたことはない。

オリジナル権門体制論の復元と、それに対する静かな批判(継承を含む)が必要である所以である。

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