10日間没頭してしまっていた英語ブログ。 何について書いていたかというと・・・
ハチ 公! です。
ケイトーが虹の橋に旅立ってから来月で満6年になるんですが、ケイトーが逝ってしまう前の週、私はムスメとストラウドに、
映画 『HACHI 約束の犬』 (2009年)を見に行っていたんですよね・・・ まさかその翌週ケイトーとお別れすることになるなど
夢にも思わず・・・ そんな風に思いを巡らせていたらハチ公についてもっと知りたくなり、いろいろ調べてみたら
知らなかったことがたくさん出てきたので、そうだ、英語ブログを始めたんなら、世界に誇れるハチ公のことを
書こうじゃないか!と思い立ったんです。
せっかくなので今回から3回に分けて、こっちのブログでもハチ公について書きます。 (文中敬称略。)
皆さんもうご存知かもしれませんが、自分なりに新たに知ったことを(老後の楽しみに?)まとめておきたいので、お目汚しご容赦ください。
私の情報源はインターネットですから正しくないものも含まれているでしょうが、できるだけ信憑性の高そうな、複数の源から
得た情報を選んでいます。 それでも誤りがありましたら、・・・申し訳ありません。 と、先にお詫びしておきます。
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ハチは関東大震災からほんの2ヶ月後だった1923年11月10日に、大舘市(現在)で誕生。 東京大学(現在)の
上野英三郎博士(1872-1925)に飼われることになり、生後2ヶ月だった1924年1月14日、米俵に入れられて大舘を
出発。 20時間の列車の旅を経て上野駅に到着した。 博士の代理でハチを引き取りにきたのは、のちに博士の没後ハチの
飼主になる、上野邸の植木職人をしていた小林菊三郎。 大の犬好きの上野博士宅にはジョンとS(エス)という2頭の犬が
すでにおり、特にジョンが、幼いハチの面倒をよく見たという。
上野家の書生・尾関才助、ジョン、ハチ / 上野英三郎博士 / ハチとS
(書生の尾関才助は博士の没後郷里に帰り、その後若くして亡くなったそうだ。)
上野博士(左から3人目) / “新年宴で宮中に召された” ため正装した上野博士、1923年(大正12年)1月5日
(宮中に召されたって、まさか皇居・・・? )
博士はハチの前にも秋田犬を4頭飼ったが、いずれも生後1年に達する前に死んでしまったため、博士はハチの養育には
ことのほか気を遣った。 幼いハチはよくお腹をこわしたり熱を出したりしたが、すると博士はハチを自分の寝床に
運び込み、ときには寝ずの看病をしたという。 おかげでハチはすくすくと無事成長。
その頃の渋谷駅周辺
やがてハチはジョン、Sとともに博士の送り迎えをするようになる。 行先は東大の駒場キャンパスまで、あるいは渋谷駅まで。
農業工学の第一人者であった博士は農林省や関連施設に出向くことも多く、その際は自宅から最寄の渋谷駅を使ったのである。
上野邸は当時あった大向小学校に隣接しており、博士はジョン、S、ハチとともに渋谷駅まで歩くと、別れるとき
3頭に話しかけ、撫で、ビスケットを与え、服が汚れるのも構わず飛びつかせたという。 犬たちは朝博士を見送ると帰宅し、
夕方博士が戻る時間になるとまた駅まで歩いて博士を改札外で出迎えた。
大向小学校 / 博士の家から渋谷駅までのルート / 学校裏手の高台にあったという上野邸 (現在は跡形もなし)
しかしハチが上野邸に来てから1年4ヶ月後の1925年(大正14年)5月21日に、上野英三郎博士急逝。
(享年53歳、今の私よりお若かった。 上野博士は犬にだけでなく人に対しても思いやり深いすばらしい人格者だったそうである。
どうしてそんな方に限って、若くして亡くなられるのだろう・・・。)
その後のハチについてはこちら ↓ に詳しいです。
最愛の御主人様・上野博士に逝かれたハチは、3日間何も食べず、上野博士の寝具がしまわれた物置に入り込み、どうしても出て
来なかったそうだ。 さらに初七日の夜、御通夜を営んでいたときのこと。 悲しげに庭を歩いていたハチは突然縁側のガラス戸を
押し開け、座敷に上がって棺を安置した台の下にもぐり込んで腹ばいになり、一晩そこから動かなかった。
上野博士と妻の八重子は、上野の本家に反対されたものか正式に結婚はしておらず、事実婚関係だった。
二人の間に実子はなく、養女のつる子、その夫、男子の赤ん坊は上野邸で同居していた。
博士の死後、八重子もつる子一家も上野邸を出ねばならず、犬達は親類に託された。 しかし若く元気なハチは
先々でトラブルとなり、日本橋の親類宅から浅草の親類宅に移るようだった。 借家暮らしを経て世田谷に自宅を構えた八重子に
引き取られたあとも5km離れた渋谷駅に通うことをやめなかったため、八重子はハチを、渋谷駅近くに住む上野邸の植木職人だった
小林菊三郎に託した。 上野博士の死から約2年が経っていた頃のことだった。
小林菊三郎とハチ
小林は職人として駆け出しの頃上野博士に世話になった恩を忘れず、ハチを大切に世話したという。
ある情報源によると、8人の子供を抱える小林一家がコロッケを食べているとき、ハチには牛肉が与えられたそうだ。 また同居していた
菊次郎の弟の友吉が、忙しい菊三郎に代わってハチを散歩に連れ出すなどよく面倒をみた。 小林家の裏手には子供のない夫婦が
肉屋を営んでおり、その夫婦もハチを我が子のようにかわいがってくれたという。 近所の子供のお供をして銭湯に通う
ハチの姿がよく見られるようになった。
それでもハチの渋谷駅行脚は止まらず、途上で元上野邸をのぞいたハチは、上野博士を待ちかねるかのように渋谷駅に
日参するのだった。 そうして年月が過ぎていったが、のっそりと大きなハチは事情を知らない人々には疎まれ邪険に扱われた。
駅の小荷物室に入り込んで駅員に叩かれ、子供には顔にいたずら描きをされ、夜になると近くの商店主に商売の邪魔になると
追い払われ、野犬狩りに捕まったこともあった。 野犬狩りに捕まったときは、顔見知りの巡査がハチの身元を確認してくれて
事なきを得た。 ハチはちゃんと登録された飼犬だったにもかかわらず、おとなしいから新しい首輪やハーネスを不届者に
盗まれてしまい、野犬と誤解されてしまうのだ。 それでもハチは、誰に対しても一度も害をなさなかったという。
そんなハチを哀れんだ、日本犬保存会創設者の斎藤 弘吉(1899-1964)。 ハチの背景を知って感動し、小林にハチの
世話をさせてくれるよう頼んだが、小林は 「亡き博士はことのほかハチをかわいがり、ハチの亡骸は自分と同じ墓にとの遺言を
残されるほどでしたから、とてもお渡しするわけには参りません」 とお断り。 そこで斎藤は日本犬保存会の会報にハチについての
文章を二度ほど掲載したが、もっと多くの人にハチの悲しい状況を知ってハチをいたわるようになって欲しいと願い、朝日新聞にも
投稿した。 それが1932年(昭和7年)10月4日付の 『いとしや老犬物語』。 これによりハチの知名度が一気に高まり、
ハチは一躍国民的ヒーローに。 ハチの満9歳の誕生日が翌月に迫っていたときのことだった。 ハチ人気に押されて
ハチには世話係の駅員があてがわれ、老いたハチは夜は駅舎で眠らせてもらえるようになった。
ハチは平和主義の犬でもあったようで、二頭の犬が喧嘩を始めると、その大きな体で割って入って仲裁した。 一方が
しつこく戦いをやめようとしない場合は、自分が喧嘩を肩代わりしてでも引き分けに持ち込む。 そんな男気のある犬だった。
三角形にピンと立った両耳が秋田犬の特徴だが、晩年のハチの左耳は立っていない。 これは野良犬に襲われて噛まれ、
左耳の付け根の軟骨を損傷したためだった。
当時の渋谷駅長・吉川忠一と(下中)
映画 『あるぷす大将』 (1934年) に “出演” (下右)
ハチの銅像の建立については、海外でも報道されたらしい。 右側に立つ女性が上野八重子(下右)。
斎藤はもともとは画家を志し、美術学校に通っていたこともあった。 同じ学校の先輩だったのが、彫刻家の安藤照(1892-1945)。
1933年(昭和8年)6月、立派な日本犬の彫像を作りたいと考えた安藤は、知り合いだった斎藤に相談しハチを推薦された。
ハチを気に入った安藤は同年夏、小林に伴われたハチにアトリエに通ってもらってハチの石膏像を作り、
10月に帝展に出品、好評を得た。 高まる一方のハチ人気に、やがて渋谷駅長の吉川が 「ハチを永遠に覚えていて
もらえるよう、銅像を建てたらどうか」 と提案。 その案は斎藤と日本犬保存会の賛同を得、そうして渋谷駅にハチの銅像が
建立されることになり、計画が発表され、募金活動が始まった。
アトリエに日参していたハチを懐かしむ、安藤照の息子の士(たけし)
寄る年波と夏の蒸し暑さにバテて横になっていることが多かったハチだったが、あるとき来客があり、その
静かな足音が近づいてくるとハチは突然むっくりと起き上がり、両前脚をすくっと伸ばしてきりりと強い、生気に満ちた表情になった。
来客は上野八重子で、大喜びで彼女を迎えたハチは側を離れず、八重子が辞去する際はついて行こうとしたという。
突然別人別犬のように生気溢れる強さを見せたハチに強い感銘を受けた安藤照は、そのイメージを念頭に
ハチの彫像を作り上げた。
上野八重子は 「ハチを棄てて野良犬にした張本人」 などと誤解されることが多い。 ハチを有名にした斎藤弘吉でさえ
上野夫人を犬嫌いと思い込んでいたようだが、実は彼女はハチを手放したくなかった。 でも渋谷駅から離れたがらないハチを見て、
5kmも離れた世田谷の自分の家から渋谷駅に通わせるよりは小林宅に飼われたほうが近いからと、辛くとも
ハチのためを考えてハチを手放したのである。 (という情報を、私は信じます。)
(ハチの別の面が見られて嬉しい上野夫人の回想はこちら: 『上野八重子 - 帝國ノ犬達』)
1934年(昭和9年)2月6日、当時10歳になっていたハチがフィラリア症と腹膜炎の併発により危険な状態に陥る。
ハチの重体を知った国民はハチの回復を祈り、子供たちは 「ハチに薬を買ってやってください」 とお小遣いを送ってきた。
一時は命が危ぶまれたが、幸い奇跡的に持ち直して快方に向かった。
回復したハチと、ハチを診た獣医師の大浦豊(右に立つ男性)
元気になったハチは3月10日、銅像建立の資金集めを目的とする 『ハチ公の夕』 に斎藤、上野未亡人などと共に出席。
3000人が集まる大盛況となった。
1934年(昭和9年)4月21日、渋谷駅でハチの銅像が除幕された。 ハチが生きているうちに公開されたのには理由があった。
「上野家からハチに関するすべてを委託された」 という老人が出現し、 「ハチの木像建立に向けて資金を集めるため」 渋谷駅長に
署名させた絵葉書を売り始めたのである。 斎藤は老人に接触して銅像計画に合流するよう持ち掛けたが老人が拒否したため
銅像の除幕を急ぎ、それゆえハチの存命中に銅像公開の運びとなった。
自分の銅像を見上げるハチ(下中)
正装したある一家と写真に収まる1934年(昭和9年)のハチ / 1934年12月30日撮影の、ハチの生前最後の写真と思われるもの
(上右写真は写真に写っている赤ん坊だった遠藤トヨ子が、渋谷区の白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に寄贈したもの。
知り合いの外国人宣教師が撮ったものだそうだ。 なるほど、だから昭和でなく西暦で撮影年が書き込まれているのか。)
ハチは1934年12月から1935年1月にかけて目に見えて弱まり衰えていった。 2月に入ると食欲が戻り体重も増えてきたので周囲は
安堵した。 が3月に入ると、普段通りに動き食べるものの、嘔吐が激しくなり体調が悪化。 3月3日か4日からほとんど何も食べなくなり、
一方で嘔吐は激しさを増した。 腹に水が溜まって膨れ、いかにも苦しげな様子だった。 5日には立つのもやっとという状態に。
ハチの死期が迫っていることを悟りつつも、銅像除幕一周年までは何とか・・・と人々は祈った。
3月7日の晩のハチの不思議な行動を、当時渋谷駅長だった吉川忠一はよく覚えている。 よろよろと立ち上がると、ハチは駅の
各部屋を順にまわり始めた。 さらには外に出、今度は駅前に並ぶ十軒余りの商店を、一軒ずつ巡りはじめた。 それだけなら
不思議な光景ではなかったが、最後にハチは、過去に一度も足を踏み入れたことのなかった 『甘栗太郎』 の店に入っていって店の主人を
驚かせた。 午後11時頃のことだった。 駅に戻ったハチは休んだが、深夜になってそれまで入ったことのなかった出札部屋にも
入って皆を驚かせた。 やがて横たわって休んだハチは、午前2時頃までは確かに同じ場所にいた。 すべての駅員が就寝したあと、
ハチは独りで外に出たものと思われる。
ハチのまだ温もりの残る亡骸は、1935年(昭和10年)3月8日午前5時頃に八幡通りで発見された。 そこは線路を渡った駅の
反対側で普段ハチが行かない場所だったので、吉川駅長はハチが 『犬は死ぬとき親しんだ場所を自分の遺骸で汚したがらない』
という言い伝えに従ったのかとの思いに打たれたという。 ハチの最愛の飼主・上野博士の10年目の命日が2ヶ月後に迫り、
ハチ(1923年11月10日-1935年3月8日)自身は11歳と4ヶ月になろうとしていたときだった。
渋谷駅に運び込まれたハチの亡骸に手を合わせる人々 (右から2人目がタクシーで駆けつけた上野八重子)
4日後の1935年(昭和10年)3月12日、渋谷駅でのハチの葬儀
ハチの毛皮は剥製にされ、国立科学博物館に保存されている。
剥製になったハチ (下右の左から4人目がハチを有名にした斎藤弘吉)
ハチの臓器はホルマリン漬けにされて保存され、現在も東京大学農学資料館の上野博士の胸像の背後に展示されている。 ハチの死因は
フィラリア症と長年考えられていたが、近年精密検査され、その結果 「ハチは重度の癌も患っていた」 と2011年に発表された。
上野博士が遺言で希望していたように、火葬にされたハチの遺灰は青山霊園にある博士の墓の傍らにある祠に埋葬され、
その隣には 『忠犬ハチ公の碑』 が立っている。
(上野博士の墓とハチ公の碑への散策ガイドはこちら。)
ハチの一周忌。 悪天候にもかかわらず、多くの人々が渋谷駅に集ってハチを悼んだ。
《 中編につづく 》
昔から不思議に思っていたので、偶然このページに出会えてよかったです!
待ち合わせ場所といえば、渋谷のハチ公前ですよね。
本当に素敵な待ち合わせ場所。
後世にも長く、ハチ公と上野博士の物語が伝えられ続けることを祈ります