ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

徳島県美馬市、美馬町八幡「美馬町八幡神社のクスノキ2本」です!!

2024-08-23 06:33:26 | 巨樹・大木
 美馬町八幡地区は、美馬市役所の西約14kmのところ
 
 美馬市役所を南側の国道192・193号重複線に出て北西へ進みますが、直ぐに国道193号線を右(北)に分けて北西へ進みます
 約14kmの「美馬・県道127号線⇒」の標識に従って信号を右(北)へ、吉野川を「青石橋」で渡ります

 約700mで「⇐三好市・池田・三野・県道12号線」の標識に従って、信号を左(西南西)へ

 約300mで斜め右への道路に入ります、ドラッグストアの北側です

 約200mで一時停止を左(西)へ、また次の交差点を右(北西)へ

 約200mで右手に美馬八幡神社が南向きに鎮座します

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 説明版です
   歴史のあんない
     八幡古墳群
 八幡1号墳、八幡2号墳、八幡3号墳と大国魂古墳(3基・開口しているのは1基)の6古墳群である。
 太鼓状に胴の張った形と穹窿式(アーチ型)の天井構造をもつ、段の塚穴型石室分布の西端にあたる。
 6世紀後半の比較的小規模な円墳で、八幡1号墳と大国魂古墳は石棚をもっている。
 大国魂古墳は石室が正方形で石棚をもち、段の塚穴型石室をもつ古墳の中で最古のものでないかといわれている。
     倭大国魂神社・八幡神社社叢
 倭大国魂神社は、延喜式式内の倭大国玉玉神・大国敷神(二座1社)にも比定されている古代からの神社であり、中世には重清城主の小笠原氏に崇敬された。
 八幡神社は、鎌倉時代末期に小笠原長親が重清城を築いた時に、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、源氏であった小笠原氏の守護神、武神として祭られ、明治には郷社となり、現在も重清の村人たちの氏神・鎮守の神様として崇敬されている。
 八幡神社と109段の石段で結ばれる大国魂神社の境内は昼なおくらき、うっそとした森(社叢)である。
 樹齢数百年、太さ5~6mのクスの巨樹をはじめ、ムク、エノキ、カヤ、ケンポナシ、ナギ、ウラジロガシ、コルククヌギ、ヤブツバメ、アカメガシワ、ヒサカキ、シイカシなどの常緑広葉樹と落葉広葉樹が混生し、中間温帯林と暖温帯林の接点をなす樹相をみせていて、樹林の美しさだけでなく学術的にも貴重である。
     重清城跡
 承久の乱後、阿波に入部した小笠原氏の2代守護長房の孫長親が鎌倉時代末期にこの地にやって来て築いたのが重清城である。
 前に断崖、背後に讃岐山脈をひかえた大地の上に、北と西を城ヶ谷川でさえぎり、東と南を土堀とその外側に二重堀に守られた30㌃ほどの本丸があり、井戸や土塀、二重堀が遺構として残っている。
 吉野川上流から下流への交通の要衝にあたる難攻不落の大城で、戦国時代、土佐の長宗我部元親の阿波侵攻の時は、2度にわたる攻防があり、天正6年、当時の城主小笠原豊後守長政とその長子を謀略にかけ暗殺した。
 その後一旦は阿波方に戻ったものの再び落城、廃墟の道をたどった。


 鳥居です

 「猿田彦大神」の大きな石碑です

 参道左手にナギの木です、注連縄が巻かれていますのでご神木ですね

 その直ぐ後ろに目的のクスノキです

 南側から、細い注連縄が巻かれています

 クスノキの札が掛けられています

 東側から、目通り幹囲5.2mの巨木です

 北側から

 もう一本は、境内南東側に立っています

 南側から、細い注連縄が巻かれています

 東側から、目通り幹囲5.4mの巨木です

 北側から

 西側拝殿脇から見上げました

 手水舎です

 更に参道を進むと拝殿です


 本殿です


 本殿西側の広い石段は「倭大國魂神社」の参道に成っています

 参道石段を進むと鳥居です 

 右側(東)に「大国魂古墳」です、凹みは石室が潰れているようです

 南西側から、他の古墳です

 北西側からも、地表の膨らみが分かります

 参道を進みます

 倭大國魂神社境内です

 拝殿です


 本殿です

 説明版です
   倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)
     場所ーー美馬市美馬町字東宮ノ上3
     主祭神ー大国魂命、大己貴命
     例祭ーー10月14日
 由緒は不詳だが、平安時代の「延喜式」神名帳の美馬郡丈にある「倭大国玉神大国敷神社二座」に比定される古社で、大国魂命、大己貴命を主祭神とする。
 その御神像は、高さ1尺ほどの剣を杖きて立つ神人の像で、厨子の背後には、「大島郷倭大国魂神社」の墨書があるという。
 小笠原氏が崇敬した神社でもあった。
 「日本書紀」の第10代祟神天皇記6年に「天照大神・倭大国魂、2神を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が、「延喜式」で[倭大国魂]を冠する神社は他になく、[倭大国魂]との強い関係性が窺える。
 境内には、古墳時代後期(6世紀)の3基からなる大国魂古墳群が築かれ、開口する横穴式石室(全長4.6m、高さ2.2m)をもつ1基が「大国魂古墳」で、段の塚穴型石室の中でも最も古い特徴をもつと考えられている。
 神社北側の吉水には[吉水遺跡]があり、弥生後期の住居7軒と東西9間・南北3間の掘立柱建物跡等が発掘されている。
 今後の周辺域の発掘によって、「倭大国魂神社」を成立させた集団の様子が明らかになってくるであろう。
     脇町ロータリークラブ

 
 では、次へ行きましょう

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