四国最西端の佐田岬のある正野水尻地区は、直線距離で伊方町役場の西南西約30km、道路距離で約40km以上あります
伊方町三崎地区の伊方町役場三崎支所からでは、道路距離で15.4kmです



駐車場から遊歩道を1.8km歩いて四国最西端の佐田岬灯台です
ここからが続きです

北側に見えるのが愛媛県最西端の「御籠島(みかごじま)」です

今は繋がっていて展望台等がありますので行ってみましょう

灯台下を北側へ

トイレ前のここを下ります

手前の四角いプールは元畜養施設の池跡です

説明版です
御籠島案内図
御籠島展望所
佐田岬の先端に並ぶ小さな島が御籠島です。地元ではオシマ(大島・御島)という呼び名でも知られています。
面積約5300㎡、標高わずか36mの小さな島ですが、江戸時代、海上安全の神様として瀬戸内海一円から広く崇敬を集めた、野坂権現(現在の野坂神社)が、かつてはここに祀られていたという言い伝えがあり、現在も島は神社の所有となっている神聖な島です。
太平洋戦争末期には洞窟式の砲台が作られ、戦後は畜養池の建設によって半島と陸続きになりました。
畜養池(かん水畜養施設)跡
半島突端部と御籠島の間を堤防で仕切った四角いプールは、「畜養池」と呼ばれた漁業施設の跡です。
昭和42年(1967)3月、当時の三崎漁業協同組合が建設しました。
畜養池は自然の海水が流入する生簀となっているため、漁師が獲ってきたイセエビ・アワビ・サザエなどをここに畜養しておくことで、市場への出時期を調整したり、稚貝を育成したりして、安定的な漁業運営に大きく貢献しました。
平成22年(2010)を最後に、現在は使用されていませんが、海とつながった池の中では今も魚たちの群れを見ることができます。
伊方町

御籠島展望台へ向かいましょう

灯台下の岩盤です

御籠島側の岩盤です

振り返って灯台を見ました

展望台への上りから海を見ました

洞窟式砲台跡がありますので行ってみました

右に上って行くと洞窟入口です

説明版です
洞窟式砲台跡
洞窟式砲台
昭和20年(1945)、御籠島と佐田岬灯台下の崖に、洞窟式砲台が各2門ずつ、計4門が新たに建設されました。
この御籠島洞窟式砲台は、岩盤をくりぬいた素掘りの洞窟で、内部で二叉し、船舶が航行する水路側(海峡側)に向けて2カ所を開口しています。
開口部はアーチ型のモルタル塗装で固め、大砲を据えた砲座部には、砲床を中心に射程範囲にあわせた扇形の溝や排水路を作り込み、発砲時の衝撃に耐えられるように天井と側面をコンクリートで固めて、頑丈な抗木を幾重にも組んで補強されていました。
豊予要塞とは
豊予海峡を挟む愛媛・大分両県の沿岸には、戦時中に敵国艦隊の瀬戸内海侵入をふせぐために「豊予要塞」が建設されました。
愛媛県側の佐田岬には、大正15年(1926)に「佐田岬第二砲台」が完成します。しかし一度も実戦でしようされることなく、第一砲台は昭和19年(1944)、第二砲台は昭和9年に、火砲が撤去されました。
しかし本土決戦が現実味を帯びてきた昭和20年(1945)、再びこの洞窟式砲台が整備されたのです。
(第二砲台跡やそれに付随した「旧正野谷桟橋」(国登録有形文化財)は、現在も見学可能です)
伊方町では、本戦時遺産を保存し見学可能な状態で整備することで、地域の歴史をふりかえり、戦争の恐ろしさ平和の尊さを考え契機にしていただければと考えています。
そのため見学の安全上の配慮から、遺構の一部に補強や落盤防止上の設備を設置しております。
見学されるみなさまにおかれましても、歴史遺産を未来へ継承するために、傷つけたり汚したりすることのないようお願いいたします。
また周辺は佐田岬突端の厳しい自然環境の中にあります。突風や急な天候の変化、岩盤の崩落、すべりやすい箇所などもありますので、くれぐれもご注意ください。
伊方町

洞窟を進みます

大砲があります

12cm榴弾砲(レプリカ)です

説明版です
三八式十二糎榴弾砲
御籠島洞窟式砲台に配備されていたこの火砲(大砲)は、もともと日露戦争時に日本陸軍からドイツのクルップ社に発注したものですが、制式制定されたのは明治44年(1911)となってからでした。
豊予要塞には、昭和20年(1945)に作られたこの御籠島と佐田岬灯台下の断崖とに2門ずつ、計4門配備されましたが、ほとんど使用されることなく終戦を迎えたようです。
どこからきたのか
防衛省戦史研究センター所属「独立混成第百十八旅団関係資料」によると、この榴弾砲はもともと、豊予要塞の一部である鶴見崎丹賀砲台の腔発事故後の補填の一部として、昭和17年(1941)に小倉補給所から転用し装備されたものでした。
その後、19年の有明臨時要塞建設に伴って、それまで佐田岬の砲台にあった十五糎加農砲が転用されたため、20年に鶴見崎にあったこの砲台がさらに佐田岬へ転用され、あわせて洞窟式砲台へと改造強化されたものだそうです。
実物の一部を発見
平成28年5月、この洞窟入口部の掘削作業中にこの大砲の実物の一部が発見されました。
それまで地元では、大砲は戦後米軍か英軍が撤去したと伝えられていました。今回の発見は車輪等の一部とみられ、全国的にも珍しい発見でした。
傷みが甚大ですが貴重な戦時資料として町で保存が検討されています。(現在非公開)
伊方町

展望所から、レプカの砲台方向を見ました、コンクリートの角が見えましたが砲台口は見えませんね~

海の上にカモメが沢山集まっていました

戻って来ました

展望台へ行きましょう

右て上に救命地蔵の碑です

登とお地蔵様がいらっしゃいます

灯台をお地蔵様前から見ました

洞窟式砲台の砲口が見えます

灯台下にも

砲口が見えました

御籠島先端の説明版です
四国最西島 御籠島
ここは四国最西端、瀬戸内海国立公園に属し、日本一細長い佐田岬半島に最西端にある島です。
晴れた日には豊予海峡(ほうよかいきょう)を隔てて九州を遠望できます。
*左上に映っている島は、大分県大分市佐賀関の高島です

灯台透かしのモニュメントに下には、若い方がいらっしゃったので写真を撮ることが出来ませんでした(灯台からの写真です)
では、戻りましょう
帰りの遊歩道では土曜日と言うこともあって大勢の観光客とすれ違いました
では、次へ行きましょう

2025・4・12・08・
伊方町三崎地区の伊方町役場三崎支所からでは、道路距離で15.4kmです



駐車場から遊歩道を1.8km歩いて四国最西端の佐田岬灯台です

ここからが続きです

北側に見えるのが愛媛県最西端の「御籠島(みかごじま)」です


今は繋がっていて展望台等がありますので行ってみましょう


灯台下を北側へ


トイレ前のここを下ります


手前の四角いプールは元畜養施設の池跡です


説明版です
御籠島案内図
御籠島展望所
佐田岬の先端に並ぶ小さな島が御籠島です。地元ではオシマ(大島・御島)という呼び名でも知られています。
面積約5300㎡、標高わずか36mの小さな島ですが、江戸時代、海上安全の神様として瀬戸内海一円から広く崇敬を集めた、野坂権現(現在の野坂神社)が、かつてはここに祀られていたという言い伝えがあり、現在も島は神社の所有となっている神聖な島です。
太平洋戦争末期には洞窟式の砲台が作られ、戦後は畜養池の建設によって半島と陸続きになりました。
畜養池(かん水畜養施設)跡
半島突端部と御籠島の間を堤防で仕切った四角いプールは、「畜養池」と呼ばれた漁業施設の跡です。
昭和42年(1967)3月、当時の三崎漁業協同組合が建設しました。
畜養池は自然の海水が流入する生簀となっているため、漁師が獲ってきたイセエビ・アワビ・サザエなどをここに畜養しておくことで、市場への出時期を調整したり、稚貝を育成したりして、安定的な漁業運営に大きく貢献しました。
平成22年(2010)を最後に、現在は使用されていませんが、海とつながった池の中では今も魚たちの群れを見ることができます。
伊方町

御籠島展望台へ向かいましょう


灯台下の岩盤です


御籠島側の岩盤です


振り返って灯台を見ました


展望台への上りから海を見ました


洞窟式砲台跡がありますので行ってみました


右に上って行くと洞窟入口です


説明版です
洞窟式砲台跡
洞窟式砲台
昭和20年(1945)、御籠島と佐田岬灯台下の崖に、洞窟式砲台が各2門ずつ、計4門が新たに建設されました。
この御籠島洞窟式砲台は、岩盤をくりぬいた素掘りの洞窟で、内部で二叉し、船舶が航行する水路側(海峡側)に向けて2カ所を開口しています。
開口部はアーチ型のモルタル塗装で固め、大砲を据えた砲座部には、砲床を中心に射程範囲にあわせた扇形の溝や排水路を作り込み、発砲時の衝撃に耐えられるように天井と側面をコンクリートで固めて、頑丈な抗木を幾重にも組んで補強されていました。
豊予要塞とは
豊予海峡を挟む愛媛・大分両県の沿岸には、戦時中に敵国艦隊の瀬戸内海侵入をふせぐために「豊予要塞」が建設されました。
愛媛県側の佐田岬には、大正15年(1926)に「佐田岬第二砲台」が完成します。しかし一度も実戦でしようされることなく、第一砲台は昭和19年(1944)、第二砲台は昭和9年に、火砲が撤去されました。
しかし本土決戦が現実味を帯びてきた昭和20年(1945)、再びこの洞窟式砲台が整備されたのです。
(第二砲台跡やそれに付随した「旧正野谷桟橋」(国登録有形文化財)は、現在も見学可能です)
伊方町では、本戦時遺産を保存し見学可能な状態で整備することで、地域の歴史をふりかえり、戦争の恐ろしさ平和の尊さを考え契機にしていただければと考えています。
そのため見学の安全上の配慮から、遺構の一部に補強や落盤防止上の設備を設置しております。
見学されるみなさまにおかれましても、歴史遺産を未来へ継承するために、傷つけたり汚したりすることのないようお願いいたします。
また周辺は佐田岬突端の厳しい自然環境の中にあります。突風や急な天候の変化、岩盤の崩落、すべりやすい箇所などもありますので、くれぐれもご注意ください。
伊方町

洞窟を進みます


大砲があります


12cm榴弾砲(レプリカ)です


説明版です
三八式十二糎榴弾砲
御籠島洞窟式砲台に配備されていたこの火砲(大砲)は、もともと日露戦争時に日本陸軍からドイツのクルップ社に発注したものですが、制式制定されたのは明治44年(1911)となってからでした。
豊予要塞には、昭和20年(1945)に作られたこの御籠島と佐田岬灯台下の断崖とに2門ずつ、計4門配備されましたが、ほとんど使用されることなく終戦を迎えたようです。
どこからきたのか
防衛省戦史研究センター所属「独立混成第百十八旅団関係資料」によると、この榴弾砲はもともと、豊予要塞の一部である鶴見崎丹賀砲台の腔発事故後の補填の一部として、昭和17年(1941)に小倉補給所から転用し装備されたものでした。
その後、19年の有明臨時要塞建設に伴って、それまで佐田岬の砲台にあった十五糎加農砲が転用されたため、20年に鶴見崎にあったこの砲台がさらに佐田岬へ転用され、あわせて洞窟式砲台へと改造強化されたものだそうです。
実物の一部を発見
平成28年5月、この洞窟入口部の掘削作業中にこの大砲の実物の一部が発見されました。
それまで地元では、大砲は戦後米軍か英軍が撤去したと伝えられていました。今回の発見は車輪等の一部とみられ、全国的にも珍しい発見でした。
傷みが甚大ですが貴重な戦時資料として町で保存が検討されています。(現在非公開)
伊方町

展望所から、レプカの砲台方向を見ました、コンクリートの角が見えましたが砲台口は見えませんね~


海の上にカモメが沢山集まっていました


戻って来ました


展望台へ行きましょう


右て上に救命地蔵の碑です


登とお地蔵様がいらっしゃいます


灯台をお地蔵様前から見ました


洞窟式砲台の砲口が見えます

灯台下にも


砲口が見えました


御籠島先端の説明版です
四国最西島 御籠島
ここは四国最西端、瀬戸内海国立公園に属し、日本一細長い佐田岬半島に最西端にある島です。
晴れた日には豊予海峡(ほうよかいきょう)を隔てて九州を遠望できます。
*左上に映っている島は、大分県大分市佐賀関の高島です

灯台透かしのモニュメントに下には、若い方がいらっしゃったので写真を撮ることが出来ませんでした(灯台からの写真です)

では、戻りましょう

帰りの遊歩道では土曜日と言うこともあって大勢の観光客とすれ違いました

では、次へ行きましょう


2025・4・12・08・
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