手成甲地区は、大洲市役所の北約8kmの山の中です
地区の北側を走る県道330号線を下って来ましたが、西禅寺寺の標高は約130m付近ですので、大洲市役所からのルートで説明します
大洲市役所東側の国道56号線を北から北東へ進みます
約3.2kmの「⇐長浜・県道24号線」の標識に従って左(北)へ、肱川右岸沿いを下って行くように進みます
約4.3kmの「大洲ホーム⇨」の案内板を右(北東)へ、約300mで予讃線の踏切を渡ります
約1.2kmの「柳沢・手成・宇山⇗」の標識を右(北)へ、先の橋のところに西禅寺の案内板があります

約2.2kmで西禅寺参道入口です

約200mで西禅寺
駐車場に入りました

「準別格地 横松山 西禅寺」寺号標です

境内にビャクシンの樹冠が見えます

六地蔵堂です

山門です

手水鉢です

本堂です



境内左手(南側)に目的のビャクシンです



西側から

「西禅寺のビャクシン」の標柱です

説明版です
愛媛県指定天然記念物
西禅寺のビャクシン
根回り5.6m、幹周4m、樹高約13m、枝張り東西に14m、南北に12m、推定樹齢600年
本樹のある西禅寺は、康永2年(1343)下野国(栃木県)の真空妙応を開山として建立された寺院で、中世の頃に当地域を治めた瀧之城の城主津々喜谷氏の菩提寺であった。
本樹の根回りと幹周がほぼ同じ大きさであるのは、後世に庭を現在の高さに埋め立てた際、本来の根元を埋め立てたためで、元々は約1.5m低い場所に根元があったとされている。
市内の中でも長命樹の一つである本樹は、地上約4mの場所で2分し、一方の幹の先端は枯死しているが、長年の風雨に耐えてきた樹の姿は、古刹にふさわしい銘木と言える。
指定年月日 昭和44年2月18日 指定 愛媛県教育委員会
*住職さんが本堂のお掃除に出てこられました、挨拶してお話を伺うことが出来ました、開山の方がお父さんの出身地の栃木県出身者だったことを御存じで、南北朝時代に四国の山奥まで来ていた事に驚いてしまいました




南西側から



南側から


南西側境内端から見ました
では、次へ行きましょう

2025・4・12・14・45
地区の北側を走る県道330号線を下って来ましたが、西禅寺寺の標高は約130m付近ですので、大洲市役所からのルートで説明します
大洲市役所東側の国道56号線を北から北東へ進みます
約3.2kmの「⇐長浜・県道24号線」の標識に従って左(北)へ、肱川右岸沿いを下って行くように進みます
約4.3kmの「大洲ホーム⇨」の案内板を右(北東)へ、約300mで予讃線の踏切を渡ります
約1.2kmの「柳沢・手成・宇山⇗」の標識を右(北)へ、先の橋のところに西禅寺の案内板があります

約2.2kmで西禅寺参道入口です


約200mで西禅寺


「準別格地 横松山 西禅寺」寺号標です


境内にビャクシンの樹冠が見えます


六地蔵堂です


山門です


手水鉢です


本堂です




境内左手(南側)に目的のビャクシンです




西側から


「西禅寺のビャクシン」の標柱です


説明版です
愛媛県指定天然記念物
西禅寺のビャクシン
根回り5.6m、幹周4m、樹高約13m、枝張り東西に14m、南北に12m、推定樹齢600年
本樹のある西禅寺は、康永2年(1343)下野国(栃木県)の真空妙応を開山として建立された寺院で、中世の頃に当地域を治めた瀧之城の城主津々喜谷氏の菩提寺であった。
本樹の根回りと幹周がほぼ同じ大きさであるのは、後世に庭を現在の高さに埋め立てた際、本来の根元を埋め立てたためで、元々は約1.5m低い場所に根元があったとされている。
市内の中でも長命樹の一つである本樹は、地上約4mの場所で2分し、一方の幹の先端は枯死しているが、長年の風雨に耐えてきた樹の姿は、古刹にふさわしい銘木と言える。
指定年月日 昭和44年2月18日 指定 愛媛県教育委員会
*住職さんが本堂のお掃除に出てこられました、挨拶してお話を伺うことが出来ました、開山の方がお父さんの出身地の栃木県出身者だったことを御存じで、南北朝時代に四国の山奥まで来ていた事に驚いてしまいました





南西側から




南側から



南西側境内端から見ました

では、次へ行きましょう


2025・4・12・14・45
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