浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

芥川の随筆

2020-10-17 22:00:27 | 芥川

 芥川龍之介の「芝居漫談」。

 芥川は、「僕は芝居らしい芝居には、-所謂戯曲的興味の多い芝居には今はもう飽き飽きしている。僕は出来るだけ筋を省いた、空気のように自由な芝居を見たい」と書いている。

 現代では「筋を省いた」芝居はたくさんあると思う。私が学生時代、前衛劇という芝居があった。たとえば赤テントとか、早稲田小劇場とか。そういうところの芝居は筋はなかったような気がする。たとえあったとしても筋は重要ではなく、まさに芝居を瞬間芸術のように処理していたように思う。といっても最近そういう前衛劇と言われるものを見ていないので、いい加減なことを書いているのだが。

 真面目な話、私も筋がきっちんとしている、観客に親切なわかりやすい芝居は好きではない。というのも、感想がワンパターンになってしまうからだ。親切心のない芝居の方がよっぽどよい。個性をもった感想が飛び出てくる。

 『芥川龍之介全集』第八巻、「芝居漫談」の後は、筋のない短文が連なるものばかり。

 そして「今昔物語鑑賞」。「今昔」は高校の古典のなかに少しはあったように思うが、面白くないもの、当たり障りのないものだけが並んでいたように記憶する。しかし芥川龍之介がいうように、「今昔」は「野生の美しさに満ちている」はずだ。

 『韓国の民衆美術』を読んで、日本のなかの民衆的伝統を探ることも重要ではないかと思うようになった。この「今昔物語鑑賞」を読んで、「今昔」を読みたくなった。「当時の人々の泣き声や笑い声」が立ちのぼるのを感じたそうだ。私も感じたくなった。

成程、牛車の往来する朱雀大路は華やかだったであろう。しかしそこにも小路へ曲れば、道ばたの死骸に肉を争う野良犬の群れはあったのである。おまけに夜になったが最後、あらゆる超自然的存在は、ー大きい地蔵菩薩だの女の童になった狐だのは春の星の下にも歩いていたのである。修羅、餓鬼、地獄、畜生等の世界はいつも現世の外にあったのではない。・・・

 こういう世界を探ってみよう。

 

 

 

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