かつて香月泰男と浜田知明の展覧会に行ったことがある。いずれも戦争の絵を描いている。戦争の絵と言っても、香月はみずからが体験したシベリア抑留、浜田は兵士として中国に連れて行かれた兵卒としての体験を描いている。戦争を賛美する絵は描いていない。彼らは、戦争を体験したあとに画家となり、戦争の負の側面を描いた。
戦時下、すでに画家となっていた者たちは、戦争讃美の絵を描いたし、描かされた。藤田嗣治、宮本三郎、向井潤吉など。横山大観は時流におもねる絵を描いた。
近代天皇制国家は、画家を戦争に駆り立て、画家になる者に絵筆ではなく銃剣をもたせた。そしてそのなかで、命をなくした画家もいた。亡くなった画家の多くは、その卵とも言うべき人たちだった。もし生きていれば、彼らはどんな絵を描いてくれたのだろうか。
私は、上田にある「無言館」に展示された絵を描いた画家たちについて書かれたものを読んだ。『芸術新潮』の1997年7月号、特集は「大いに語れ 戦没画学生、未完の夢」である。これは出版されたときに購入したものだ。
戦没画学生について、私はいま語ろうと思っている。そのために、戦没画学生について書かれた本を借りだした。今日は、木村亨が叔父である久保克彦について書いた『輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春』(国書刊行会)を借りてきた。久保の卒業制作の絵《図案対象》は、東京藝大にある。文部省買上となった作品である。才能ある画家のひとりが、戦死したのだ。
その本のあとがきを最初に読んだ。そこには、非戦の訴えが熱をおびて書かれていた。私も、その非戦の訴えをもとにしながら、「戦争と画家」を語ろうと思う。
いま政治は、戦争を知らない世代に移りました。政府を選ぶのも、メディアの姿勢を変えるのも、国民です。政治も、国民全員が責任を負っているはずです。メディアや時代のなりゆきに流されることなく、真実を見極め、自分で考えることが必要です。「歴史は繰り返す」と言いますが、そうではなく、「歴史忘れられる」のだと思います。忘れられるが故に、繰り返すのだと思います。歴史を直視し、歴史に学ばなくてはなりません。不幸な歴史を繰り返してはなりません。
戦争が終わったとき、誰もが戦争の無意味さを語り、平和を願ったはずでした。そしてそれは、「戦争の放棄、交戦権の否認」、「思想及び良心の自由」、「集会・結社・表現の自由」などを定めた日本国憲法に結実しました。いま、それらはともすると忘れられがちになっています。
平和をつづけるためには、一人ひとりの強い意志と覚悟が必要です。
(中略)
克彦を含め、あの時代の若者たちは、自分の信念や理想は胸の奥深くに押し込めて、国を守るために自己のすべてを投げ捨てたのでした。歴史の潮流に押し流される自らの運命を悲しみながらも、真剣に生き抜いたのでした。
全てを断たれて戦死した若者たちの、そして310万人の犠牲を、無駄にすることがあってはなりません。
戦争を直接知る最後の世代としての、切実な願いです。
2019年5月