昨日、デモクラシー/タイムズで、佐高信と辛淑玉のお二人が、「石原慎太郎の罪」を語っていた。辛淑玉さんのクリアな意見はなかなかよかった。
石原慎太郎については亡くなったときに新聞が報じていた。ほとんどが「石原節」を評価していた。しかし、政治家として彼がやったこと、許せないことが多い。東京都の学校における「君が代・日の丸」の強制は、彼が始めた。それ以外にも、ヘイトを公然と行っていた。東京オリンピックの招致も、彼が始めた。石原は右翼の政治家として、日本の民主主義を攻撃し続けた。
作家としての石原。一つしか読んだことはないが、まったく面白くなかった。何という作品を読んだのかも記憶にないほどだ。
さて、『東京新聞』の文化欄にある「大波小波」、3月1日は「石原慎太郎VS瀬戸内寂聴」が書かれていた。この二人が2003年、往復随筆『人生への恋文』を出版しているそうで、そこに記されていることを比較しているのだが、その文の末尾は、「この「対決」は瀬戸内の圧勝に見えるのは気のせいか。」である。私は、こうした書き方が大嫌いである。寂聴さんと石原を比較すれば、石原なんか足元にも及ばないことは、明々白々ではないか。「気のせい」であるわけがない。これを書いた「千路」は、寂聴さんの作品を読んでいないのではないか。あるいは批評する能力がないのではないか。
今日届いた『選択』にも「石原慎太郎なる「幻影」」という文がある。石原の特質を三つあげている。「カネに対する異常な執着」、「権力・出世への子供じみた執着」、「臆せず強い者になびけ」である。石原は、確かにそういう人物であった。末尾は「差別や右派言論の水ぶくれ現象を残した罪は小さくない」である。石原については、このことを必ず指摘しなければならないのである。