浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

男の自信

2019-05-29 18:34:39 | 社会
 高齢者の事故が増えている。自宅の裏にアパートの駐車場があり、そこの一台分を近所の高齢者が借りていた。高齢者は車とともに、一昨年の11月、わが家に飛び込んできた。ブレーキとアクセルを踏み間違えたという。彼は謝罪にも来ず、道でであったら保険会社に任せていると言われた。昨年の12月、また同じことをした。ただこの時は、わが家にまで達することはなかった。私は彼に、もう一度やったら刑事告訴だ、と話したら、駐車場を変えた。わが家の近くである。その駐車場の隣の家が、今怯えている。▲彼はすでにこうした事故を三度やっている。しかし免許証を返上する気配はまったくない。最近はそうでもないようだが、彼は浜松市の私鉄に就職して、最後は系列のホテルのエラいさんになっていたようだ。そのことを近所の人に誇っていたそうだ。現役で働いていた時の地位について吹聴する男性は多い。男というのは、自分自身を働いていた時の地位で自己評価しているのかもしれない。▲私のように、ずっとヒラで生きてきた者は、そういう社会的地位について誇るものはない。言いたいことを言い、自己の権利はきちんと主張し、おかしいことはおかしいと言い続けてきたし、また「御用組合」ではない労働組合に入っていたから、いわゆる「出世」とは無縁であった。▲退職して社会から離れて家庭に生きる男性は、働いていた時の社会的評価なしに生きていかなければならない。その時、そうした男性は、これは聞いた話しだが、妻に対してきわめて強情に振る舞うのだという。「オレは偉かったのだ、だから言うことを聞け」ということになる。過去のみずからの「栄光」しかすがるものがない、「オレが偉かった」ことを知っているのは妻だけだ、妻に対して強情をはることによって自己確認をするのである。▲退職したら、タダの人なのである。一定の高い地位に就いていた人は、それに耐えられない。だから新しく知り合った人に、「私は・・・・だったんです」などと過去の「栄光」を語る。しかしそれはもはや実体がないから、それだけで終わってしまう。▲男性は、会社人間以外の人間像をつくりだすことが下手である。もちろん退職と同時に新たな生き方をして、それとともに新たなつながりを持つ人々もいる。そうでない男性は、過去の「栄光」に縛られ、昔のままの自尊心を維持し続ける。それが干からびたものであることを認めたくないから、よけいにすがりつくのだ。悲しい人生ではある。そういう人々が、私の近所にいる。
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「金子文子と朴烈」は、「反日国策映画」か?

2019-05-29 13:43:41 | 映画
 今日、「金子文子と朴烈」という映画を見た。実際にあった話であるということが字幕にあったが、全体としての事件はあったが、細かいところについてはどうかなと思えるような箇所がたくさんあった。とりわけこの事件に関わる日本政府の動きが細かく映像化されていたが、それが果たして事実であるのかどうか。おそらく脚色したのだろう。判決後、水野錬太郎が朴烈に刑務所で会う場面があったがこれなどはまったくフィクションであろう。

 映画は、おおまかな歴史的事実を示していた。三・一独立運動に於ける日本の官憲による残虐な弾圧、関東大震災のさなかでの朝鮮人虐殺は事実であり、また朴烈や金子文子らが不逞社に集っていたこと、朴烈等が漠然と下テロ計画を持っていたことなどである。

 印象としては、全体として軽薄な感じがしたことは否定できない。朴烈、政治家や官僚たちなど多くの登場人物も薄っぺらな描かれ方をしていた。金子文子は過酷な人生を送ってきたはずで、その点では私の文子のイメージとは大きく異なっていた。一般的に歴史的な事件を映画化すると、その多くは軽薄になりがちである。何としてでも多くの人に観てもらわなければならないから、でもある。

 さて、四方田犬彦氏は、『週刊金曜日』誌上で、この映画を「反日国策映画」だとしていた。まだ観ていなかった私は、「反日国策映画」という規定の仕方に疑問を持ち、同編集部に問い合わせをした。そのメールをここに公開しよう。編集部としてこういう返信をしたのであるから、公開しても問題はなかろう。
 私はこの編集部の意見に納得しているわけではない。「反日」は、日朝に関わる歴史的事実を示すなら、日本のあり方を批判せざるを得ない内容になること、したがってネトウヨが使って手垢にまみれた「反日」ということばの使用は慎重であらねばならないこと、そしてこの映画が、韓国の文政権との関係が証明されない限り、「国策映画」とはいえないのではないかと思う。


 映画をまずご覧になってみてください。

編集部の定まった見解はありません。韓国に住み、韓国の国内事情や映画にも
造詣が深い四方田さんのひとつの「この映画の見方」を提示したまでです。

私自身は観ており、このような見方も出来ると思っております。
映画表現の解釈に「正解」はありません。

誌面化のまえに編集部(どい)と四方田さんの意見交換も行なっております。

映画を観た上で、下記の四方田さんの視点をお読みくださると
この映画の見方が、見るものの視点で大きく変わることがすこし理解出来るかもしれません。

そしてそういう議論こそ映画が望んでいた1つでもあるように思います。



 わたしは1980年から数回、韓国映画祭の中心となって韓国映画を日本に紹介してきました。

 その一方で、1930年代~45年までの皇民化政策期の朝鮮映画について論文を執筆し発表してき
ました。国家と映像とイデオロギーの密接な関係について、無自覚なわけではありません。
 またネトウヨ的な意味でこのフィルムを非難しているわけでもありません。

 今回の監督の前作(詩人ユンドンジュの評伝)についても、いかに事実を隠蔽し根拠のない
風評をそのまま映画化しているかについて、映画公開時に評論を執筆しております。
あきれかえるくらい無知をさらけ出した作品でした。

 韓国では『軍艦島』以降のこうした反日「歴史」映画を、ククポン・ヨンファといいます。
国家主義のヒロポンの映画という、意味です。それが現在の文政権のイデオロギーを反映し、
歴史と称して商品化していることは、いうまでもありません。
 
 今回のフィルムが稚拙な国策映画であるのは、以下の理由からです。
 
1> 同時代の日本についての時代考証がほとんどなされていない。官憲の科白は稚拙さはど
うでしたか?

2> テロリズムとは何かという倫理的問題の掘り下げがまったくない。昨年の瀬瀬の女相撲
のフィルムと比較してみてください。

3> 金子文子を、その著作からもうかがえるような知性のある女性として、充分描いていな
い。たんにコミックなおてんば娘の域を出ていない。歴史的な人物を描くときに、これはきわ
めて残念なことです。ちなみに原題は単に『朴烈』だけです。金子の存在は韓国では前面に出
されていません。

4> もっとも興味深いのは、この監督が前作に続き、英雄的な韓国男に純情な日本娘が付き
従うという物語を描いていることです。これは韓国映画しか存在しないステレオタイプで、
1960年の『玄界灘は知っている』の時点からそうでした。韓国男性の集合的オブセッションで
ある、日本女性の神話化という観点では、面白いかもしれません。日本映画でも一時期、日本
人男性と白人女性という物語が流行しました。この点はポスト植民地主義の観点から論じるこ
とができるでしょう(一部の韓国人は嫌がるでしょうが)。
以上のことは、試写会で観たときに、配給会社太秦の方々にも申し上げました。

『週刊金曜日』でこのフィルムを論じた人たちは、金子文子を論じるだけで、フィルムそのも
ののズサンさには言及していません。また金子がテロリストであった事実を正面から論じてい
ないという印象を受けました。金子を支持するということは、テロリズムを支持することだと
いうことを、論者たちはどこまで認識していたのでしょうか。しかし稚拙な映画はやはりだめ
なのです。とりわけ朴烈のような重要な人物を描くときには、もっと時間をかけて、綿密な時
代考証をし、日本人スタッフを組み込んで制作しなければだめでしょう。フランスとエジプト
はかつて『さよなら、ボナパルト』で、ナポレオンのエジプト侵略を主題に、みごとな芸術映
画を共同制作しました。
もし読者から反論の投書がきたとしたら、できれば見開き頁で書かせていただきたいものです。


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