浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】後藤正治『天人 深代惇郎と新聞の時代』(講談社文庫)

2019-05-19 22:43:10 | 
 電車に乗る時には、必ず新書か文庫を持参する。しかし、電車の揺れはなぜか眠りを誘う。本を開いても、いつのまにか目が閉じてしまう。しかしこの本の場合、私の眼は、眠気を吹き飛ばしながら活字を追い続けた。後藤の筆録と、深代惇郎という「天声人語」を書いていた人間の魅力、この二つが私を眠らせなかった。
それほどの内容をもつ。

 内容は多彩だ。もちろん深代が中心ではあるのだが、その周辺に配された人物も魅力溢れる者たちである。「新聞記者が好きです好きでたまらない」という共通意識がありながら、その現れ方はまったく個性的で、その個性と個性との接触が、この本の面白さでもある。本書に紹介されている記者たちに、今どきの記者に見られるヨコ並びの思考はない。
 したがって本書は、新聞記者論でもあり、同時にジャーナリズム論でもある。

 そして深代が朝日新聞を代表する文の書き手であるが故に、文章論にもなっている。深代のような文を書くために必要なことは、「人に会うこと、本を読むこと、深く考察すること」であり、またひとり旅も付け加えられる。

 この本を読んでいて、いま私が描こうとしている竹久夢二と深代とがつながるような気がしている。それは寂しい人であったということだ。本を読んでいる時、頭の中では、その人のイメージを思い浮かべる。深代の場合は、夜の街をコートを着てひとり歩いている、その背後から冷たい風がついて回る、というものだ。夢二も、同じように、絵かきの道具を持ってひとり静かに歩む姿だ。いろいろな交友関係はあったとしても、心はいつもひとり。そしてふたりとも余分なことをしゃべらない、どちらかというと寡黙な人だったようだ。

 昨日昼頃届けられた本であるが、一気に読んだ。約500頁の本である。読まなければならない竹久夢二関連の本は、この本に押しのけられてしまった。
 
 
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2019-05-19 10:57:01 | その他
 研究会終了後、台湾料理店で懇親会をもつ。なぜ台湾料理店かというと、そこは酒が安いからだ。安い酒、このことばを酒飲みはことのほか好むようだ。はじめて懇親会に参加した方に、酒豪のひとりがなぜこの店かを説明する時、必ずこのことばが発せられる。▲私は酒が飲めない。父方の系統が皆飲めない。むろん、飲もうと思えば飲めるが、しかしものすごく弱い。以前組合の仲間と宴席を持ったことがある。始まって1時間も経たないうちにトイレに行きたくなった。宴席を離れてトイレに向かったことまでは覚えているが、その後の記憶はない。気がついた時には、自宅の蒲団のなかにいた。その間、同僚が救急車かタクシーで夜間救急に運び、タクシーで自宅まで送ってくれたという。後日、夜間救急に支払いに行ったが、まったく覚えていない。私は頭を打ち、10針くらい縫われていた。▲酒を飲むということを知った学生時代から、私は、飲めば強くなるということばを信じてよく飲んだ。しかし少し飲むだけで顔は真っ赤となり、心臓の鼓動は激しく打つ。そして眠気に襲われる。そういうことをくり返していた。しかし、この事件を契機にして、酒に強くなろうという気持ちはなくなり、いつのまにか全く飲まなくなった。私の体質にはまったくあわないのだ。▲いま「天声人語」を書いていた深代惇郎の評伝を読んでいるが、深代はいろいろな人びとと酒席を共にしている。みずからの脳を活性化させるためには、外からの刺戟が必要だ。本を読むこともその一つであるが、他人の話を聞くことも刺戟となる。他人の話しを聞く際にその潤滑油となるのが酒である。▲酒を飲まないと、他人の話しを聞く機会が少なくなる。好きでない酒を無理して飲むのであるから、特定の人としか会わなくなる。かくて交遊関係は広がらない。▲酒は「百薬の長」と言われるが、酒自体ではなく、酒を介して他人との交友関係をつくりあげるに価値があるように思われる。昨日、私は酒を飲まずに、人びとの話に耳を傾けていた。酒を飲まずとも、酒席にいればよいのである。

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本を読めること

2019-05-19 07:49:00 | 
 私の知人、すでに80代に突入した歴史学者であるが、近年は本を読めないと言っている。本を読めなくなると、創造活動が停滞する。何ごとにつけてもだろうが、インプットにより知的な刺戟が入らないと、脳の活力が減退する。▲一昨日、YouTubeのデモクラTVで、佐高信ともと朝日記者の早野透の対談を見た。そのテーマは『天人 深代惇郎新聞の時代』(講談社文庫)をもとに、深代について語り合うというものだった。深代は朝日新聞の「天声人語」を書いていた。40代の頃だ。その文が光っていた。視野が広く、明晰であり、しかも柔軟な思考、そしてユーモアがあった。もちろんその時代のあり方にビシッと批判もしていた。言葉というものが力を持った時代であった。いや単なる言葉ではなく、そういう文が力を持っていた時代である。しかし深代は46歳で亡くなった。白血病がいのちを奪ったのだ。▲「天声人語」は、朝日新聞のなかでも、名文家といわれる者が書いているのだろう。しかし、とはいっても、書く人によって優劣は出て来る。朝日新聞を購読しているときは、「天声人語」を真っ先に読んでいたが、ある時期、筆力が落ちたなあと思うことがあり、それ以降は熱心な読者を卒業した。今は朝日を購読していない。毎月980円を払ってネットで記事を読むことが出来るようにしているが、「天声人語」は読んだり読まなかったりである。▲しかし深代の「天声人語」は、読まさずにはおかないという迫力があった。その迫力は自ずからにじみ出てくるものであって、努力して出て来るものではないだろうが、そうはいってもインプットがないとフレッシュな文は書けない。深代は若い時から、すごい読書家であったという。「天声人語」を書いている時も、おそらく厖大な書物に接していただろう。この『天人』にもそうした場面がでてくる。記者クラブで他の者が麻雀や花札をしている時も、ソファに横になって文庫本を読んでいたという。▲その深代を描いた『天人』、昨日届けられた。昨日は静岡市で研究会があり、電車の往復にこの本を読んだ。著者は後藤正治であるが、私は乗っている間、ひたすら読みふけった。それほど深代は魅力的な人物であり、またその周囲にいた者たちも個性豊かで秀逸であった。そのなかには本田靖春もいた。▲近年、私の身近には、そういう個性豊かで秀逸な人びととがいなくなっている。その分、私は本を読むことに傾注しているが、しかしいつ頃まで本を読むことが出来るだろうか。▲昨日研究会の帰途、途中まで一緒だった某氏が、「もう本を読めなくなった」と言っていた。佐々木実『資本主義と戦った男』(講談社)を数頁読んでその後読めなくなったという。私もその本を読みかけているが、佐々木の筆力はなかなかのもので、最初の章だけは読み終えている。▲私は出来るだけ長い間アウトプットをしていきたいと考えている。本が読めなくなったらどうしよう。最初に紹介した歴史学者は、今は文を書いていない。書けなくなるのだ。
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