今年1月に出版された本である。H氏に勧められて読んだ。確かに読むべき本である。
昨年1月に、フランスの『シャルリ・エブド』が襲撃された。この事件のあと、「私はシャルリ」を掲げた大規模なデモがあった。確かにテロは否定されるべきであるが、ムハンマドをからかうような絵を何度も何度も描くことは、ムスリムの人々をからかうことでもあり、私はそうした行為は「表現の自由」の行使といえるか疑問である。フランスがいくら世俗化が進んだとしても、キリストを揶揄するような絵は、信仰者に不快な念を抱かせるのではないだろうか、と思っていた。「フランス人であるとは、冒涜を権利として持つだけでなく、義務として負うことなのだ」とヴォルテールが言っていたそうだ。ふーん、そうなのか。
本書の副題は、「人種差別と没落する西欧」である。
トッドは、「自分自身の宗教に対する冒涜の権利は、とりわけ今日のフランス社会のように困難な社会経済的文脈に於いては、他者の宗教に対する冒涜の権利と混同されてはならないはずだった。差別されている弱者グループの宗教の中心的人物であるムハンマドを毎度繰り返して冒涜することは、裁判所が何と言おうと、宗教的・民族的・人種的憎悪の教唆と見做されなければなるまい」と書く。トッドがまともな考えを持っている人物であることが判明する。
「冒涜」と「批判」とは異なり、宗教を「批判」することはあり得る、それは「批判」により何ものかを創造する可能性があるが、「冒涜」というのは、そうしたものを生み出さない。「冒涜」は、「上から目線」であり、「差別」である。
そうした「冒涜」が、フランスでは広がっているようなのだ。「レイシズム(人種差別)は社会構造の上の方へ、また下の方へ、同時に拡散している」(32)と、トッドは記す。
あのデモに、中産階級(この中産階級というのは、日本での「中流」ではなく、社会的なエリート層のすぐ下に存在する富裕層である)がたくさん参加したそうで、「今日、フランスの中産階級は「ネイションのポジティブな諸価値」を担うというにはほど遠く、基本的にエゴイスティックで、他者の意見に耳を貸さず、高圧的な態度を取りがちだ。平等の原理を捨て去ったとさえいえる」(35)。しかし、これはフランスだけではなく、日本でも同様な事態が起きている。日本の「中産階級」もみずからの資産の増加を画策し、平等というポジティブな価値観を捨て去っている、それがよく見えるようになっている。
フランスはカトリックの国であるが、しかしそれはほとんど、地域的なアンバランスはあるが、崩壊しているという。その崩壊の間隙を縫って、外国人恐怖症が急増しているのだそうだ(49)。
トッドは、フランスの宗教の現状をもとに分析を加えるのだが、日本人として学ぶという観点から見れば、ほとんど無宗教の日本において、その分析は効用がないと思われるので割愛する。
さて、「私はシャルリ」のデモには、労働者たちではなく、中産階級によるものであったそうだ。そしてその後に記述されているが、国民戦線への投票が労働者の中で増えているそうなのだ。逆に社会党は、そうした中産階級によって支持されているという。
「極右が労働者層を支持基盤にしたのは、フランス史上新しい現象である。この現象が確認できるようになったのはかなり早く1980年代末のことだった。」(189)
極右の国民戦線の得票率は、平等主義の土地柄の地域で高いのだという。
そして、イスラム恐怖症について語るのだが、ムスリムはきわめて多様であり、「フランスのイスラム教徒たち」という十把一絡げの認識は間違いであり、多様な人々にそういう「レッテル貼り」することは間違いであることを指摘する。
その他にもいくつかの論点が記されているが、フランスの現況から、私たちが学ぶことは多い。
今後も何度か、この著書に言及することがあるだろう。
昨年1月に、フランスの『シャルリ・エブド』が襲撃された。この事件のあと、「私はシャルリ」を掲げた大規模なデモがあった。確かにテロは否定されるべきであるが、ムハンマドをからかうような絵を何度も何度も描くことは、ムスリムの人々をからかうことでもあり、私はそうした行為は「表現の自由」の行使といえるか疑問である。フランスがいくら世俗化が進んだとしても、キリストを揶揄するような絵は、信仰者に不快な念を抱かせるのではないだろうか、と思っていた。「フランス人であるとは、冒涜を権利として持つだけでなく、義務として負うことなのだ」とヴォルテールが言っていたそうだ。ふーん、そうなのか。
本書の副題は、「人種差別と没落する西欧」である。
トッドは、「自分自身の宗教に対する冒涜の権利は、とりわけ今日のフランス社会のように困難な社会経済的文脈に於いては、他者の宗教に対する冒涜の権利と混同されてはならないはずだった。差別されている弱者グループの宗教の中心的人物であるムハンマドを毎度繰り返して冒涜することは、裁判所が何と言おうと、宗教的・民族的・人種的憎悪の教唆と見做されなければなるまい」と書く。トッドがまともな考えを持っている人物であることが判明する。
「冒涜」と「批判」とは異なり、宗教を「批判」することはあり得る、それは「批判」により何ものかを創造する可能性があるが、「冒涜」というのは、そうしたものを生み出さない。「冒涜」は、「上から目線」であり、「差別」である。
そうした「冒涜」が、フランスでは広がっているようなのだ。「レイシズム(人種差別)は社会構造の上の方へ、また下の方へ、同時に拡散している」(32)と、トッドは記す。
あのデモに、中産階級(この中産階級というのは、日本での「中流」ではなく、社会的なエリート層のすぐ下に存在する富裕層である)がたくさん参加したそうで、「今日、フランスの中産階級は「ネイションのポジティブな諸価値」を担うというにはほど遠く、基本的にエゴイスティックで、他者の意見に耳を貸さず、高圧的な態度を取りがちだ。平等の原理を捨て去ったとさえいえる」(35)。しかし、これはフランスだけではなく、日本でも同様な事態が起きている。日本の「中産階級」もみずからの資産の増加を画策し、平等というポジティブな価値観を捨て去っている、それがよく見えるようになっている。
フランスはカトリックの国であるが、しかしそれはほとんど、地域的なアンバランスはあるが、崩壊しているという。その崩壊の間隙を縫って、外国人恐怖症が急増しているのだそうだ(49)。
トッドは、フランスの宗教の現状をもとに分析を加えるのだが、日本人として学ぶという観点から見れば、ほとんど無宗教の日本において、その分析は効用がないと思われるので割愛する。
さて、「私はシャルリ」のデモには、労働者たちではなく、中産階級によるものであったそうだ。そしてその後に記述されているが、国民戦線への投票が労働者の中で増えているそうなのだ。逆に社会党は、そうした中産階級によって支持されているという。
「極右が労働者層を支持基盤にしたのは、フランス史上新しい現象である。この現象が確認できるようになったのはかなり早く1980年代末のことだった。」(189)
極右の国民戦線の得票率は、平等主義の土地柄の地域で高いのだという。
そして、イスラム恐怖症について語るのだが、ムスリムはきわめて多様であり、「フランスのイスラム教徒たち」という十把一絡げの認識は間違いであり、多様な人々にそういう「レッテル貼り」することは間違いであることを指摘する。
その他にもいくつかの論点が記されているが、フランスの現況から、私たちが学ぶことは多い。
今後も何度か、この著書に言及することがあるだろう。