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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

極寒の『時間』

2016-01-24 20:51:34 | 読書
 しんしんと夜は更けて行く。最大級の寒波が来ているせいか、ストーブをつけているのに、足元は冷たい。しかしその冷たさに気がつかないままに、堀田善衛の『時間』を読み終えた。

 1937年11月から翌年の10月まで、南京で生きた中国人となった堀田が、そこで見た、体験したであろう事態、それはもちろん限定された時空のなかでのものであるが、その事態のなかで考え、思ったことを叙述するという小説だ。それはもちろん、過去から未来へと一方通行で過ぎていく時間の流れに沿って記されていくのだが、その思考や思惟は、時空を超えることができるが故に普遍性をもったものとなる。

 そしてこの本は、歴史の本ではない。特定のきわめて世界的に有名な実在した事件の渦中を「舞台」として書かれたものではあるが、その「舞台」を描こうとしたものではなく、その「舞台」の上でいかなる思考や思惟が為されたか、その可能性について書かれたものではないかと思うのだ。極限状態の中での思考や思惟の可能性、その意味で、この本はまさしく文学である。

 その「舞台」で、無数の人びとが虫けらのように殺された。主人公も、妻と子ども、そして嬰児を殺された。そして従妹が日本軍の暴虐により瀕死の状態に追い込まれる。そのような現場(「舞台」)で、どのような普遍的な思考や思惟がなされるのか。

 いうまでもなく、ボクはいつものように赤線を引きながら読んでいった。その赤線を引いたところにボクは立ちどまり、たちすくみ、その思考や思惟に揺り動かされながら、読み進めた。

 最後のことばは、

 人生は何度でも発見される。

 であった。まさに人生の可能性、未来という時間に開かれて終わっているのだが、しかしボクは、このことばに、実は圧倒された。

 人生は、この時間は、われわれが普通想っているように、生から死へと向かうだけのものではなくて、死の方からもひたひたとやって来ている

 南京で起きたことは、南京にいた中国人の生から死へという、ある意味順当な時間の流れを断ち切り、彼らの生に向けて死を差し向けたのである。その主体は、日本(軍)である。

 戦争(戦闘)というものの本質は、ここにあると思う。

 堀田が、極限の時空に置かれた主人公として生み出した思考や思惟は、まさに普遍性をもったものとしてある。そうしたところに赤線を引いてあるのだが、そのすべてを紹介するわけにはいかないので、ぜひ読んで欲しいと想う。辺見庸の「解説」もよい。



チラシ広告

2016-01-24 14:51:33 | 日記
 新聞に折り込まれていたチラシの中に、中部電力のそれがあった。なかなかよい紙でもちろんカラー印刷。これも電気料金で作製されたのだろう。「日本の問題です」という大きな字。そして日本のエネルギー自給率は6%で、「エネルギー資源のほとんどを輸入に頼る現状では、国際情勢の変化等により供給に支障が生じた場合、私たちの暮らしにも様々な影響が懸念され」るとあり、裏には石油、石炭、天然ガスそれぞれを原料とした場合の問題点が列挙されている。
 もちろん、原発の問題は一切記されていない。たとえば、放射性廃棄物の処理の問題など、原発が抱えている問題には一切触れない。
 要するに、原発の再開へ世論をもっていこうというチラシである。

 もうじき家庭でもどこの会社から電気を購入するかが自由となる。そうしたら、もちろんボクは、原発を再開しようとしている中部電力との契約はやめる。高くなろうとも、自然エネルギーで発電する会社から受電しようと決意している。

 福島であのような事故が起きたのに、今なお再開しようという中部電力の姿勢に怒りをもちながら、断固として中電からの受電はやめるのだ。 

 福島の事故があり、あんなに大きな被害を生み出し、いくつかの自治体を破壊したにもかかわらず、政府も電力会社も、そして財界も、反省することなく原発依存へ邁進しようとしているが、ボクはそれに抗する「ことば」、すなわち反原発であるが、そしてそれはきわめて正当な主張なのだが、それが大きな力となって政治を動かすまでにいっていないという事態に、日本の頽廃を感じる。

 その頽廃した現在の日本の時空のなかで、いかにそうした反正義の輩に、彼らのほうが圧倒的に力をもっているが、抗していくかを考えなければならぬ。

少数者

2016-01-24 10:54:30 | 日記
 昨日ボクは近藤真柄『わたしの回想(上)ー父堺利彦と同時代の人びと』(ドメス出版)を読み終えた。いろいろな本を、並行しながら読み進めているのだが、一つの流れとして、明治大正昭和戦前期の社会主義者についてがある。

 なぜそういう本を読む気になっているのかをみずからの胸に手を当てて考えるのだが、そのなかにある種の恐れというものがあることに気付いた。それはボクたちが少数者になるのではないか、それも圧倒的な少数者に。

 1945年以前の社会主義者たちは、それこそ筆舌に尽くしがたい苦難の人生を歩んだ。国家権力から激しく弾圧され、社会からは孤絶を強いられ、しかしそれでもみずからの思想を貫く。暴力に屈することなく生き続けたその強靭な意志。そうしたある種孤高の姿を学んでおかなければならないのではないかという気持ちである。

 著者の近藤真柄さんは、堺利彦の娘である。しかしもうこの世にはいない。
 父である堺利彦は、現在の社会主義者が陥っている狭量なセクト主義とは無縁な、誰にでも、誰とでもつながるという気風をもっていた。だから、堺の周辺には、幸徳や大杉、その他雑多な志向をもつ社会主義者が集った。真柄さんも、そのなかにいた。したがって、そうした人びととの交流をみずから体験され、それぞれの社会主義者の人生の断片を知り、そして書くことができた。
 
 もう全員が鬼籍に入っている社会主義者たちの生の一断面を知ることができる、というのが本書を読む動機である。そしてもうひとつ、真柄さんは戦後も生き、名古屋にある橘宗一少年の墓について、そして静岡にある大杉・野枝の墓について言及もしている。静岡のそれについては、墓守のひとりとなったボクにとっては、貴重な記録でもある。

 杉山金夫さん、海野福寿さん、市原正恵さん・・こういう人たちが、静岡の大杉・野枝・宗一の墓の中心的な墓守であったのだが、今では皆さん鬼籍に入ってしまった。
 本書には、その墓にまつわることが記されている。それを読むと、墓をめぐって無数の人びとのつながりがあったこと、そして自分自身もその人たちとつながっていることを実感するのである。墓をめぐる諸々のことは、先人たちがやってきた、ボクはまさに記録を頼りに何人かの人びとと墓守だけをする。墓誌を建設したり、墓前祭を盛大に行っていた時代が去り、ある意味小規模になった墓前祭を維持するだけの毎年の9月。

 しかしそうであっても、そこに葬られている人の意味というものを、ボクは考え続けなければならない。
 ボクの机の下には、大きな袋の中に、大杉や野枝に関わる本や資料がある。そしてその傍らには、大杉の全集がある。
 21世紀のこの日本という時空のなかで、彼らをどう意味づけるのか。ボクの仕事の一つである。

 さて並行して、堀田善衛の『時間』(岩波現代文庫)を読んでいる。南京虐殺事件が行われているその渦中に生きた中国人の目を通して、その事件を捉えようという堀田の小説である。

 現在という時空が、少数者であった社会主義者たちを、そして堀田の『時間』を無視して通り過ぎていかないように、何とかしなければならない、そういう思いが、ボクにはある。