しんしんと夜は更けて行く。最大級の寒波が来ているせいか、ストーブをつけているのに、足元は冷たい。しかしその冷たさに気がつかないままに、堀田善衛の『時間』を読み終えた。
1937年11月から翌年の10月まで、南京で生きた中国人となった堀田が、そこで見た、体験したであろう事態、それはもちろん限定された時空のなかでのものであるが、その事態のなかで考え、思ったことを叙述するという小説だ。それはもちろん、過去から未来へと一方通行で過ぎていく時間の流れに沿って記されていくのだが、その思考や思惟は、時空を超えることができるが故に普遍性をもったものとなる。
そしてこの本は、歴史の本ではない。特定のきわめて世界的に有名な実在した事件の渦中を「舞台」として書かれたものではあるが、その「舞台」を描こうとしたものではなく、その「舞台」の上でいかなる思考や思惟が為されたか、その可能性について書かれたものではないかと思うのだ。極限状態の中での思考や思惟の可能性、その意味で、この本はまさしく文学である。
その「舞台」で、無数の人びとが虫けらのように殺された。主人公も、妻と子ども、そして嬰児を殺された。そして従妹が日本軍の暴虐により瀕死の状態に追い込まれる。そのような現場(「舞台」)で、どのような普遍的な思考や思惟がなされるのか。
いうまでもなく、ボクはいつものように赤線を引きながら読んでいった。その赤線を引いたところにボクは立ちどまり、たちすくみ、その思考や思惟に揺り動かされながら、読み進めた。
最後のことばは、
人生は何度でも発見される。
であった。まさに人生の可能性、未来という時間に開かれて終わっているのだが、しかしボクは、このことばに、実は圧倒された。
人生は、この時間は、われわれが普通想っているように、生から死へと向かうだけのものではなくて、死の方からもひたひたとやって来ている
南京で起きたことは、南京にいた中国人の生から死へという、ある意味順当な時間の流れを断ち切り、彼らの生に向けて死を差し向けたのである。その主体は、日本(軍)である。
戦争(戦闘)というものの本質は、ここにあると思う。
堀田が、極限の時空に置かれた主人公として生み出した思考や思惟は、まさに普遍性をもったものとしてある。そうしたところに赤線を引いてあるのだが、そのすべてを紹介するわけにはいかないので、ぜひ読んで欲しいと想う。辺見庸の「解説」もよい。
1937年11月から翌年の10月まで、南京で生きた中国人となった堀田が、そこで見た、体験したであろう事態、それはもちろん限定された時空のなかでのものであるが、その事態のなかで考え、思ったことを叙述するという小説だ。それはもちろん、過去から未来へと一方通行で過ぎていく時間の流れに沿って記されていくのだが、その思考や思惟は、時空を超えることができるが故に普遍性をもったものとなる。
そしてこの本は、歴史の本ではない。特定のきわめて世界的に有名な実在した事件の渦中を「舞台」として書かれたものではあるが、その「舞台」を描こうとしたものではなく、その「舞台」の上でいかなる思考や思惟が為されたか、その可能性について書かれたものではないかと思うのだ。極限状態の中での思考や思惟の可能性、その意味で、この本はまさしく文学である。
その「舞台」で、無数の人びとが虫けらのように殺された。主人公も、妻と子ども、そして嬰児を殺された。そして従妹が日本軍の暴虐により瀕死の状態に追い込まれる。そのような現場(「舞台」)で、どのような普遍的な思考や思惟がなされるのか。
いうまでもなく、ボクはいつものように赤線を引きながら読んでいった。その赤線を引いたところにボクは立ちどまり、たちすくみ、その思考や思惟に揺り動かされながら、読み進めた。
最後のことばは、
人生は何度でも発見される。
であった。まさに人生の可能性、未来という時間に開かれて終わっているのだが、しかしボクは、このことばに、実は圧倒された。
人生は、この時間は、われわれが普通想っているように、生から死へと向かうだけのものではなくて、死の方からもひたひたとやって来ている
南京で起きたことは、南京にいた中国人の生から死へという、ある意味順当な時間の流れを断ち切り、彼らの生に向けて死を差し向けたのである。その主体は、日本(軍)である。
戦争(戦闘)というものの本質は、ここにあると思う。
堀田が、極限の時空に置かれた主人公として生み出した思考や思惟は、まさに普遍性をもったものとしてある。そうしたところに赤線を引いてあるのだが、そのすべてを紹介するわけにはいかないので、ぜひ読んで欲しいと想う。辺見庸の「解説」もよい。