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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「政治的中立性」をかなぐり捨てるNHK

2015-10-27 07:51:10 | メディア
 維新の党の分裂騒ぎには興味はない。しかし、橋下率いるグループの傍若無人のやり方には、驚き呆れる。そうした動きを大阪の市民らが一定程度支持しているという姿にこれまた驚き呆れる。大阪市民の思考には、「民主主義」的なものはないのだろうか。

 さて以下は『日刊ゲンダイ』記事。NHKの「右傾化」はとどまるところを知らない。

維新分裂 未結成の“造反組”を番組出演させるNHKの「怪」


 ガキのケンカより始末が悪い「維新の党」をめぐる分裂騒動。党を追い出された「造反組」は24日、「臨時党大会」と称した会合を開いたが、客観的にみて反党行為を理由に除籍された議員が開いた「党大会」に正当性があるとは到底思えない。どう見ても「残留組」に軍配が上がると思うのだが、ワケが分からないのは「造反組」をマトモな政党並みに扱うNHKだ。

 浮気で家を放り出されたカミさんがダンナに財産を要求した上、勝手にお家取り潰しを決める─―。維新の大阪系議員ら「造反組」がやっていることは、だいたいそんなところだ。政界引退を公言しながら、ウラでチョロチョロしている橋下徹大阪市長はツイッターで「解党し、残ったお金は国庫に返納する」と書き込み、“正当性”を主張しているが、「造反組」は松野代表を否定しながら、松野代表の「権限」を利用して政党交付金を要求。やっていることが支離滅裂だ。

 しかも、「臨時党大会」で提案されたのは「大阪都構想の活動に要した経費一切を本年度予算から支払うことを確認する決議案」。地方自治体の住民投票をめぐるPRや政治活動費になぜ、多額の国費が投じられなければならないのか全く分からない。「造反組」のデタラメぶりを挙げればキリがないが、そんなうさんくさい連中をなぜか、マトモな政党扱いしているのがNHKだ。

 25日の「NHK日曜討論」に出演した片山虎之助参院議員の肩書は「おおさか維新の会」。「結成予定」と小さく添えられていた通り、結成予定は31日だ。なぜ、立ち上がってもいない党の議員が公党の討論番組に出演できるのか。新党の政治姿勢について、片山議員は「政権に対して是々非々だが、国会運営については野党寄りだ。その方針は続ける」と威張っていたが、まるで宣伝のようだった。

「NHKはかつて日曜討論に『生活の党と山本太郎となかまたち』を出演させず、理由を尋ねた同党に対して『出演基準として公選法第86条の1、2の両項を満たす必要がある』と説明したといいます。つまり、所属国会議員が5人以上で、直近の国政選挙で2%以上の得票が条件ですが、おおさか維新は設立されてもいないし、もちろん、国政選挙の得票もない。これで出演できるのなら、どんな国会議員でも『新党つくります』と言えば出演できますよ」(政治ジャーナリスト)

 元NHK政治部記者で評論家の川崎泰資氏はこう言った。

「維新の解党届について総務省は『受け取らない』と報じられているわけですよ。つまり、『おおさか――』が結成されるのかも不透明です。それなのに、『おおさか――』を名乗る国会議員が出演している。どうみてもおかしい。(新党を呼びかけている)橋下市長と仲がいい安倍首相や菅官房長官サイドからの“出演要請”があったのではないか、応援ではないかと勘繰りたくなりますよ」

 NHKが“お墨付き”を与えるから「造反組」が調子に乗るのだ。

学び直し

2015-10-27 07:25:09 | 
 『高橋源一郎×SEALDs民主主義ってなんだ?』(河出書房新社)は、今を考えるときに読まないではいられない、そういう本だ。

 「参戦法案」反対のmovementのなかで、ひときわ目立っていたのは、SEALDsの動きだった。彼らは、この運動の先頭にいた。いつも「現場」(それは単なる現場ではなくて、「民主主義」の「現場」だ)にいる彼らは、行動する人びとであったように見えた。

 だが、この本を読んで、彼らが行動だけの人ではなく、思索の人であり、学ぶ人であり、討論する人であり、読む人である、そしてバイトに汗を流す働く人・・・であったこと、それを発見した。高橋源一郎という作家兼大学教授との討論内容が掲載されているのが本書であるが、その内容は思いの外深くまた実践的だ。

 彼らの行動の背景には、読書体験や思索体験などがある。それも単なる知識としてではなく、行動しながら思索し、学んでいくというものだ。

 こういう学生がたくさん出現したこと、いや出現させたことが安倍政権の功罪の「功」であることは重要だ。悪政は、それに対するmovementを引き起こすのだ。

 最近ボクは、「民主主義を生きる」という小文のなかに、このSEALDsについて言及した。


 彼らの行動の大きな特徴は、参加者一人一人が自分自身のことばでみずからの考えを綴っていることだ。iPhone(スマホ)を見ながら、用意してきた原稿を読み上げる姿を、私は何度か見ている。1970年頃までのデモは、組織や団体が用意したことばを唱和するだけだった。そうではなく、個人個人がみずからのことばで、なぜ「参戦法案」に反対するのかを綴り、訴えるのだ。その綴られたことばを、私はきわめて清新なものとして聞く。

 しかし、ことばを綴るというのは、そう簡単なことではない。多くの人々に訴えるためには、その綴られたことばの背後に知の集積や論理性がなければならない。それなしにことばは力を持たない。

SEALDsのホームページには、「本をもって路上に出よう」というPDFファイルがある。そこには高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)、西谷修『夜の鼓動にふれる-戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、小熊英二『社会を変えるには』(講談社現代新書)、中野晃一『右傾化する日本政治』(岩波新書)などの本が紹介されている。

 彼らは、学び、討論し、デモに参加し、そして自分の言葉で訴えるのだ。組織として参加してるのではない、誰かに指示されたからでもない。ひとりひとりが、みずからの意志で参加しているのだ。


 まさに彼らは、丸山真男がいう「永久革命」としての民主主義を生きているのである。果たして大人たちは、民主主義を生きているか。日常の惰性のなかにみずからを置いていないか、そういう問いが、本書を読んで感じられた。

 彼らは「民主主義ってなんだ」と問いながら、その問いの答えをさがしながら、その都度その都度、「これだ!」と確認しながら生きている。しかしそのときの「これだ!」は常に結論ではない。「これだ!」は常に追究される問いでもある

 そういう厳しさを、大人たちも学ぶべきではないか。本書を、とくに老いてきた人たちに勧める所以である。