ボクはある自然科学系の研究会にも属している。そこで時々、歴史修正主義的な言辞を書き連ねる方がいる。歴史修正主義を「信奉」される方は、自分にとって都合の良い「史実」(「」つきの史実とするのは、彼らが持ち出してくる「史実」は史実としての資格をもたないものが多いからだ)ばかりを「思い込み」によってもってきて、それでもって恥ずかしげもなく主張するのだ。
最近その方は、南京虐殺事件を否定するものを書き連ねている。
ボクはそういう方と論争をすることは好まない。学問的な論争ができないからだ。そういう方は、「思い込み」が先にあって「思い込み」と矛盾する史実を提示しても認めようとしないから、多くは徒労に終わる。最近のメディアをはじめとして、雑誌や本でも、人びとの歴史意識を安倍首相並みのレベルに引き下げようとしているため、そうしたプロパガンダにより、世界的な史実とされている南京虐殺に疑問を持たされる人びとも多くなっている。しかしへんな「思い込み」をもたない人びとは、ボクが提示する史料を提示すると、やはり南京虐殺事件はあったんだと納得してくれる。
さてボクは、その方との論争には加わらないでいた。しかし、良識的な認識をもった方々が敢然と論争を挑んでいる姿をみて、ついに入り込んだ。
ボクはまずこう記した。
皆様 私は「南京事件 兵士の遺言」という番組は見なかったのですが、私は自治体史を引き受けているときに、南京虐殺に関わった兵士が郷里の友人に宛てた手紙を多数発見しました。それはたとえば、次の手紙です。
「去年の三十一日まで支那兵の捕(え)たのお、毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に、手おしばって落として置いて、上から銃で打(まま)ったり刀で首お切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるでにわ鳥(まま)でも殺す用(まま)な気がするよ。十二月二十七日の夜は、兵站部に食糧お盗(み)に来たので七人捕(まえ)て銃剣で突(き)殺したが、面白い物だったよ。全く内地にては見られない惨状だよ。」と記されていました。
これは一九三八年一月に投函された手紙で、歴史学上では「一級史料」といいます。私は歴史研究の最前線におりますが、歴史というのはこうした史料を積み上げていくなかでつくられるものであり、「南京虐殺」事件も同様です。私も、「南京虐殺」を否定される方がお書きになったものを読んでおりますが、最初に結論ありきであって、とても学問とは言えないものです。史料に虚心坦懐に向き合うなかでつくられたものが学問上の成果であって、自然科学が実験結果をもとに積み上げていくこととつながると思っております。
私はそうした史料群から築かれた史実については本来共有されるべきものと認識しております。そうした史実に関する解釈はいろいろあろうかと思いますが、歴史研究者らが永年に亘って築いてきた史実を前提に議論を進めるというかたちにしなければ、学問的な論争は成りたちません。
そしたら、昨日、その方は「それ単独では信じない」と書いてこられた。そこでボクはこう書き送った。
皆様 「それ単独では信じない」ということについて記しておきます。
私は、日本近現代史の研究をしておりますが、先に提示した手紙を発見するまでは、南京虐殺事件についての研究をしたことはありませんでした。
さて、私は一通の手紙の一部を紹介しました(全部で14通ありました)。もちろん、歴史学では、「一級史料」(一次史料ともいいます)と思われるものがでてきたからといってそれについてそのまま「信じる」のではなく、「史料批判」という手続きをとります。つまり「単独では信じない」のです。他の史料とつきあわせて、その史料が信に値するものであるかを立証しなければなりません。もちろん私は、その手続きをとりました。
まずその兵士が何年何月、どこから投函しているかをもとに、その兵士が何という部隊に属していたか(軍事郵便には正確な部隊名を書きません。たとえば「中支派遣軍○○部隊××隊」と書き、○○や××には隊長の苗字、ととえば鈴木とかが記されます)を、恵比寿にある防衛省図書館に行き、旧軍関係の史料(これもほとんどが、当事者がその時期に記した一級史料です)で調査しました。結論だけ申しますと、『支那事変第二軍兵站関係書類』、『中支派遣軍命令綴』を発見し読み込んでいくことにより、その兵士が属していた部隊が「第三師団第二陸上輸卒隊」であり、同部隊が展開した日時・場所と手紙が投函された日時・場所とが一致するなど、発見された手紙は「一級史料」としての資格十分ありと証明することができました。
ただ南京虐殺事件については、きちんと調べなければならないと思い、手紙が投函された場所についての現地調査も行いました。その結果、一例ですが、同部隊が南京のどこに駐屯していたかもつきとめました(5階建ての銀行でした)。手紙が説明している建物と同じものが現存し、その建物は1915年に建築されたものであることもわかりました。
歴史学には歴史学上の学問的な手続きがあります。その手続きをきちんと踏まえて確定された史実は、まさに史実として認定されるのです。「思い込み」などで史実はつくれないのです。
●●さんが「信じる」かどうかは●●さん次第ですが、学問的な手続きを踏まえて確定された史実については史実として認めるべきだというのが私の考えであり、歴史研究者のほとんどはそう考えております。
これ以上、私はこの問題に言及しませんが、冷静な判断を期待しております。
この方が、「思い込み」を優先させるのか、それとも史実を前にして謙虚になるのか、それはわからない。この方は自然科学系統の人。学問的な方であるかどうか、ボクの書き込みに対する対応で明確になる。論争の相手となる資格ありやなしや。
最近その方は、南京虐殺事件を否定するものを書き連ねている。
ボクはそういう方と論争をすることは好まない。学問的な論争ができないからだ。そういう方は、「思い込み」が先にあって「思い込み」と矛盾する史実を提示しても認めようとしないから、多くは徒労に終わる。最近のメディアをはじめとして、雑誌や本でも、人びとの歴史意識を安倍首相並みのレベルに引き下げようとしているため、そうしたプロパガンダにより、世界的な史実とされている南京虐殺に疑問を持たされる人びとも多くなっている。しかしへんな「思い込み」をもたない人びとは、ボクが提示する史料を提示すると、やはり南京虐殺事件はあったんだと納得してくれる。
さてボクは、その方との論争には加わらないでいた。しかし、良識的な認識をもった方々が敢然と論争を挑んでいる姿をみて、ついに入り込んだ。
ボクはまずこう記した。
皆様 私は「南京事件 兵士の遺言」という番組は見なかったのですが、私は自治体史を引き受けているときに、南京虐殺に関わった兵士が郷里の友人に宛てた手紙を多数発見しました。それはたとえば、次の手紙です。
「去年の三十一日まで支那兵の捕(え)たのお、毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に、手おしばって落として置いて、上から銃で打(まま)ったり刀で首お切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるでにわ鳥(まま)でも殺す用(まま)な気がするよ。十二月二十七日の夜は、兵站部に食糧お盗(み)に来たので七人捕(まえ)て銃剣で突(き)殺したが、面白い物だったよ。全く内地にては見られない惨状だよ。」と記されていました。
これは一九三八年一月に投函された手紙で、歴史学上では「一級史料」といいます。私は歴史研究の最前線におりますが、歴史というのはこうした史料を積み上げていくなかでつくられるものであり、「南京虐殺」事件も同様です。私も、「南京虐殺」を否定される方がお書きになったものを読んでおりますが、最初に結論ありきであって、とても学問とは言えないものです。史料に虚心坦懐に向き合うなかでつくられたものが学問上の成果であって、自然科学が実験結果をもとに積み上げていくこととつながると思っております。
私はそうした史料群から築かれた史実については本来共有されるべきものと認識しております。そうした史実に関する解釈はいろいろあろうかと思いますが、歴史研究者らが永年に亘って築いてきた史実を前提に議論を進めるというかたちにしなければ、学問的な論争は成りたちません。
そしたら、昨日、その方は「それ単独では信じない」と書いてこられた。そこでボクはこう書き送った。
皆様 「それ単独では信じない」ということについて記しておきます。
私は、日本近現代史の研究をしておりますが、先に提示した手紙を発見するまでは、南京虐殺事件についての研究をしたことはありませんでした。
さて、私は一通の手紙の一部を紹介しました(全部で14通ありました)。もちろん、歴史学では、「一級史料」(一次史料ともいいます)と思われるものがでてきたからといってそれについてそのまま「信じる」のではなく、「史料批判」という手続きをとります。つまり「単独では信じない」のです。他の史料とつきあわせて、その史料が信に値するものであるかを立証しなければなりません。もちろん私は、その手続きをとりました。
まずその兵士が何年何月、どこから投函しているかをもとに、その兵士が何という部隊に属していたか(軍事郵便には正確な部隊名を書きません。たとえば「中支派遣軍○○部隊××隊」と書き、○○や××には隊長の苗字、ととえば鈴木とかが記されます)を、恵比寿にある防衛省図書館に行き、旧軍関係の史料(これもほとんどが、当事者がその時期に記した一級史料です)で調査しました。結論だけ申しますと、『支那事変第二軍兵站関係書類』、『中支派遣軍命令綴』を発見し読み込んでいくことにより、その兵士が属していた部隊が「第三師団第二陸上輸卒隊」であり、同部隊が展開した日時・場所と手紙が投函された日時・場所とが一致するなど、発見された手紙は「一級史料」としての資格十分ありと証明することができました。
ただ南京虐殺事件については、きちんと調べなければならないと思い、手紙が投函された場所についての現地調査も行いました。その結果、一例ですが、同部隊が南京のどこに駐屯していたかもつきとめました(5階建ての銀行でした)。手紙が説明している建物と同じものが現存し、その建物は1915年に建築されたものであることもわかりました。
歴史学には歴史学上の学問的な手続きがあります。その手続きをきちんと踏まえて確定された史実は、まさに史実として認定されるのです。「思い込み」などで史実はつくれないのです。
●●さんが「信じる」かどうかは●●さん次第ですが、学問的な手続きを踏まえて確定された史実については史実として認めるべきだというのが私の考えであり、歴史研究者のほとんどはそう考えております。
これ以上、私はこの問題に言及しませんが、冷静な判断を期待しております。
この方が、「思い込み」を優先させるのか、それとも史実を前にして謙虚になるのか、それはわからない。この方は自然科学系統の人。学問的な方であるかどうか、ボクの書き込みに対する対応で明確になる。論争の相手となる資格ありやなしや。