気ままな推理帳

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立川銅山(4) 大坂屋吉兵衛は 豪商大坂屋久左衛門の手代ではないか 

2022-03-13 08:31:07 | 趣味歴史推論
 切上り長兵衛が立川銅山で働いていた時期は、貞享~元禄初年と推定され、山師・支配人は時期的にみて、大坂屋吉兵衛である可能性が高い。大坂屋吉兵衛が大坂屋久左衛門と関係する人物と考えて、大坂屋の経歴を調べた。
大坂屋については、ホームぺージ「豪商大坂屋久左衛門」に詳しい。このホームページは、十四代にあたる官浪辰夫氏が管理されている。以下の『』の記述はそのホームぺージからの引用である。

『 豪商大坂屋久左衛門当主年表
                    当主在任期間
初代 大坂屋久左衛門(1576~1668)  1596~1661(21歳から85歳まで64年間)
②二代 大坂屋久左衛門(1641~1707)  1661~1682(21歳から42歳まで21年間)
   初名は久三郎
三代 大坂屋久左衛門清浚(1666~1715)1682~1715(17歳から50歳まで33年間)
   初名は長松
④四代 大坂屋甚之烝清胤(1697~1723) 1715~1723(19歳から27歳まで8年間)
   初名は甚之烝
⑤五代 大坂屋吉之助清達(1719~1724) 1723~1724(5歳から6歳まで1年間)
   初名は吉之助
六代 大坂屋久左衛門智清(1721~1770)1724~1770(4歳から50歳まで46年間)
   初名は永次郎
⑦七代 大坂屋久左衛門清富(1747~1784)1770~1784(24歳から38歳まで14年間)
   初名は長松
⑧八代 大坂屋久左衛門鰹清(1774~1850)1784~1833(11歳から60歳まで49年間)
   初名は永蔵
⑨九代 大坂屋駒太郎清憲(1816~1867)1833~1867(18歳から52歳まで34年間)
   初名は佐次郎  
大坂屋は徳川幕府瓦解と共に全ての業務から撤退した。
大坂屋の家系は初代久左衛門から数えて十四代目にあたる子孫の官浪辰夫に続く。

 初代大坂屋久左衛門は、天正4年(1576)摂津国西成郡に生まれる。慶長元年(1596)頃に創業。初期は備後福山大坂屋久十郎と連携して中国地方の鉱山開発により財を成す。創業期に佐竹氏家臣牛丸の要請を受け、慶長7年(1602)あるいは8年(1603)から秋田の同開発に着手した。佐竹氏の常陸から秋田への移封は慶長7年(1602)、徳川家康による江戸開幕は慶長8年である。慶長8年(1603)に大坂北炭屋町に住居を構え、銅吹を開始した。銅吹・南蛮吹は當時の世界最先端産業であった。寛永8年(1631)頃にはすでに海外貿易を行っていたと記録にある。銅山経営から銅吹、銅販売さらに海外輸出まで、開発・生産から流通・貿易に至る多角的な一貫掌握が莫大な利益を生み、久左衛門は、豪商大坂屋の初代となる。大阪屋久左衛門の名称は代々世襲され、当主九代に渡り、幕末まで270年間続いた。
 二代大坂屋久左衛門は、寛文10年(1670)に手代大坂屋七郎右衛門に秋田阿仁の三枚山の調査を命じた。同年、手代大坂屋彦兵衛が三枚山に銅鉱を発見し、秋田阿仁十一山における全山支配のきっかけになった。延宝6年(1678)二代大坂屋久左衛門に銅貿易株が認可され(十六人株仲間)、幕府御用商人として住友家に次ぐ地位を得た。
 三代大坂屋久左衛門清浚は、特に阿仁銅山の存在が大きかった。秋田藩各地の鉱山には、大坂屋をはじめ住友、鴻池、北国屋などにより経営されていたが、元禄10年(1697)には大坂屋が一手に独占して経営するようになった。享保元年(1716))には産銅日本一となり、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山のひとつに数えられた。
 六代大坂屋久左衛門智清(初名永次郎)は、享保12年(1727)立川銅山の経営を京都糸割符仲間から引き継ぎ、22年稼行し、寛延2年(1749)に泉屋に譲渡した。大坂屋は元文3年(1738)から秋田藩の要請により鋳銭のための鉱山経営を再開するものの、秋田藩から利益を得られず延享2年(1745)には累積2万両の赤字を計上した。立川銅山の売却代は、秋田での損失補填に充てられた。』

考察
 大坂屋吉兵衛は、大坂屋の手代ではなかろうか。吉兵衛は、請負願の単なる名義人か、現地の銅山支配人なのか。どちらにしても、大本は大坂屋久左衛門であろう。筆者は、立川村庄屋神野家が接触していたのが支配人の大坂屋吉兵衛だったので、伝承には、その名が残ったのではないかと推測する。
 官浪辰夫氏に、2022年2月に伺ったところ
「大坂屋四代大坂屋甚之烝清胤の系図に吉兵衛の名はなかった。本家家系図、過去帳もざっと調べたが、吉兵衛の名はなかった。手元にある史料などには記録がなかった。」
とのことであった。
大坂屋手代の名を当主年表から拾うと、大坂屋七郎右衛門、大坂屋彦兵衛、大坂屋善右衛門、大坂屋儀兵衛 がある。
大坂屋吉兵衛は、本家・分家筋の人ではなく、手代である可能性が高い。

 さて、切上り長兵衛が働いた時は、三代大坂屋の時であろうか。三代の経歴には以下の記述がある。
「貞享4年(1687)別子銅山の開発権をめぐり大坂屋と住友家の抗争が起きた。大阪屋稼業の四国の立川銅山の隣山の別子山に大坂屋は銅鉱脈を発見するが、大坂屋使用人切揚長兵衛が住友家に告げ、元禄4年(1691)幕府から別子の開坑許可は住友家に下りたと記録にある。」

この記述を検討してみる。筆者の疑問点と気ままな推理である。
 この記述の根拠になる大本の史料が、泉屋の史料でなく、大坂屋独自の史料であればよいのであるが、どうであろうか。
「大坂屋が銅鉱脈を発見するが、」とあるが、発見したのは大坂屋使用人の切上り長兵衛なのか、それとも切上り長兵衛とは無関係に大坂屋手代社員らが、発見したのか。発見当時の記録があるのか。大坂屋が発見したのであれば、なぜ開発申請書を幕府に提出しなかったのか。
また、別子銅山の鉱脈発見は、貞享4年(1687)宇摩郡三嶋村の祇太夫が見立て、新居郡金子村の源次郎が祇太夫に試掘を申し入れて試掘させたことと言われている。筆者が思うに、立川銅山山師の大坂屋が、別子の露頭を最も発見しやすいはずである。そばを掘っているわけであるから。大坂屋は、露頭を発見していたのか。発見したが有望性を見損なったのか。
伊藤玉男「あかがねの峰」は、露頭は比較的容易にわかる地形にあったと推定しているが、そうではなかったので大坂屋は発見できなかったのか。
 元禄4年頃、三代大坂屋久左衛門が立川銅山から手を引いたとすれば、その理由は阿仁銅山などの秋田藩鉱山の稼行に注力するためだったのではなかろうか。大坂屋吉兵衛も、もしかしたら秋田へ異動させられたのではないか。

 今後以下に記す事項がわかれば、立川銅山の初期の歴史がより詳しくわかると思う。
① 三代大坂屋久左衛門の時、貞享~元禄初期に大阪屋が立川銅山を稼行していたと思われるが、その証拠となる史料。請負開始年と終了年の記録。
② 上記の証拠は、西条藩の史料にないか。
③ 六代大坂屋久左衛門は、立川銅山を享保12年(1727)~寛延2年(1749)稼行していたが、その期間の記録のなかに、貞享~元禄初期の経営や、吉兵衛、切上り長兵衛の記録がないか。 
④ 大坂屋吉兵衛の手代としての記録。
⑤ 大坂屋吉兵衛(立川銅山)からの荒銅の受入記録
⑥ 切上り長兵衛に関する大坂屋での最初の記録

 官浪辰夫氏によれば、「切上り長兵衛が大坂屋の使用人であることを示した記録、古文書は、見つかっていない。上記の種々の記録については古文書を細かく当たればわかるかもしれない。」とのことであった。古文書の発見・解読が進む事を強く願っている。

まとめ
 大坂屋久左衛門家の史料を調べたら、貞享~元禄初期の立川銅山の状況がわかるかもしれない。

官浪辰夫様には、貴重な情報をいただきました。厚く御礼申し上げます。

注 引用文献
1. web. 「豪商大坂屋久左衛門」
2. 伊藤玉男「あかがねの峰」(発行責任者 山川静雄 初版1983 第2版1994)