気ままな推理帳

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山下吹(3) 生野銀山の「かたけ吹」とは?

2020-07-31 13:45:08 | 趣味歴史推論
 2020.7.26に投稿公開したが、かたけ吹の名称の由来で、間違いがあったので、その部分を訂正し、投稿し直す。なお名称の由来は、2020.8.2のブログ山下吹(4)を見てください。

 山下吹を解明するために、寛永9年(1632)生野銀山に伝えられた当時の「かたけ吹」の実態を知りたい。「かたけ吹」と思われる製錬方法を記している2,3の記述は既にある。そこで挙げられた史料を見直し、筆者なりに寛永9年当時を推測してみたい。
昭和29年に小葉田淳は「生野銀山史の研究」の中で、「「銀銅山覚書」の「吹屋之次第」に「かたげ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」と記してあること。また「生野銀山吹方入用」に「床 1挺前の入用を内訳して、以上の3床を含めている。かたげ吹の床は大床とよぶ。」その仕法は、「銀山秘録」中の製錬方法をかたけ吹として詳しく紹介している。1)
平成のブログ「冶金の曙」は、「このカタケ吹というのは、「銀山秘録」記述の製錬法から、粗銅に石銀(含銀硫化鉛;含銀方鉛鉱など)と留粕(酸化鉛;密陀僧)を加えて熔錬して銅-鉛合金とし、これを南蛮床で貴鉛(含銀鉛)を絞り出すという方法と見られている。合銅の工程が南蛮吹法と異なるが、生野銀山や、カタケ吹を伝えたという摂津の多田銀山では銅も産出しており、銅と銀の生産工程をひとまとめにした方法に発展させたものと思われる。」と要点をついている。2)

元になる3つの史料を成稿年代順に並べると以下のようになり、関連個所をほぼそのまま写した。()内は筆者の注
1. 銀山旧記(元禄3年(1690))3)
2. 銀銅山覚書(元禄9年(1696)頃)4)
3. 銀山秘録(天保14年(1843))5)
 
1. 銀山旧記には「かたけ吹」が3ヶ所出てくる。
① 前報で記した箇所「寛永9年(1632)津の国能瀬(摂津国能勢、多田銀山の地)より長兵衛・庄兵衛というもの来りて、かたけ吹きを致す、銀山の買吹これよりかたけ吹きをして石床止む、銅を主として銀をしぼり上げる故、昔の上灰吹よりこれ以後の上灰吹は位少し悪し、何ど吹き抜けても気つよきより銀かたし」 →図1.
② 大永元年(1521)に建立された山神の社に「此処大木共ありて深々として物さびたり、廿間四方はびこる樫木あり、本口にて五囲、昔此木の下にて狸腹鼓を打たりと言伝うる名木なり、近代かたけ吹出来して、この森絶えて今は浅々しく昔の跡形もなし、」とあり。(今は元禄3年頃)→図2
③ 元和2年(1616)家康公薨御にあたり、代官山川庄兵衛殿(在任期間1616~1620)が東照寺(御位牌堂)を立て銀山廻りの山畑を棹を入れ、高42石6斗8升2合と打出し、右の内にて10石3斗を東照寺扶持に遺した。残る処を御年貢として御帳面に記す。藤川甚左衛門殿(1623~1633)来たり。しかる処に、この畠 カタケ吹出来してより以来、金気当りて悉く荒地となる。されども銀山繁昌なれば納処に片時も隙不取に、杉田九郎兵衛殿代(1660~1668)に至りて、なんとも皆済成り難く難儀に及べば、九郎兵衛殿 免を出され5ツ5歩になる。よって東照寺領5石に減少す。何程免ありても皆無の山(畑)なれば納所難渋す。松波五郎左衛門殿(1668~1679)3ツ5分に成され、東照寺領高3石と成るなり。→図3

2. 銀銅山覚書には、「かたけ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」と記された。4)
3. 銀山秘録に、「かたけ吹」と記されているかどうかを筆者は確認できていない。生野史には、「以下「銀山秘録」中に記す製錬方法を述べる。」として「1. 灰吹銀吹方 2. 上銀吹方 3. 留粕(るかす)流し」とある。この文中、及び前後に、「かたけ吹」とは書かれていない。
1. 灰吹銀吹方
A 素吹
1. 銀山内、所々より掘出し候鉑石、買吹共買取
2. 上中下鉑石取交え、右鉑石荒砕仕り
3. 粉に成候て砕候鏈、升目およそ6斗4,5升の分、3つに分け
4. 床と申候て、口差渡し1尺2,3寸深さ1尺ばかりなる湯坪を堀り、炭火を入れ、その上に右鉑石を置き
5. フイゴ2挺にて強く為吹候。これを素吹と唱来候。
6. 右の通り吹かせ候えば自然と鉑石吹熔けし候。炭の儀も段々入れ次ぎ吹かせ熔し候
7. よく吹熔候時分、吹大工の者相考、火を除き候えば火の上に「皮」と申す物出来申候。これは銀気等無之物にて流し捨て申候。からみと名付け候。
8. 如此段々石の鉑石を吹き次ぎ、荒吹仕候。
B 真吹
からみを取候て湯壺に残り候湯を、真吹と申吹方に仕候。
1. この仕方は熔け候湯の上へ炭火をかけ
2. その上に「にやし」と申すものを置き、廻りには小蓋と申すものをたて
3. フイゴ1挺にて吹立候えば、「どぶ」と申すもの出来候
4. これを取上げ、そのあと「はがし」と申すものに相成候。これは則ち、銅鉛(鉛は間違いでは?)湯にてこの内に銀あり
5. それより塗込と申すものに仕掛け候。この塗込と申すは、吹熔候かね湯の中へ、およそ石銀(いしがね 鉛鉱)1貫目、留粕と申すもの2貫目火の上に置
6. フイゴ1挺にて吹候えば「合がね」(合銅)と申すものに相成候
C 南蛮床
1. この「合かね」はまた南蛮床と申してフイゴ1挺にて吹分候えば
2. 銀鉛は一所に成り、床前の灰吹壺と申す所へ垂り落
3. 銅の分はその床の内に残り候
D 灰吹床
右銀鉛を吹分け候儀は
1. 灰吹床と申して、灰にて鉢なりの炉形を拵え、その内に吹立候えば
2. 鉛の分は灰の内へ引かせ、銀之分は灰の上に残る
3. その節「かぶり候」と申して、銀湯色に成り候を合図に致しそのまま水打かけ冷やし候て取上申候。これを灰吹銀と申候。
2. 上銀吹方
右灰吹銀を上銀に吹立候儀は
1. 4升入位なる鍋の内に炉を作りて
2. 小さきフイゴにて吹立申候。風をうけ候えば吹損じ之有るのにて、大切に仕上げ上銀に吹立
3. それより生野御陣屋御運上蔵に上納致し、丁銀に御引替下せられ候。
3. 留粕(るかす)流し
灰と一所に成り候鉛を留粕と唱申候。これを正味鉛に致し候儀は「留粕流し」と申し
1. 一と流14貫目、右の留粕大床に入れ
2. フイゴ1挺にて熔かし候て
3. 上に浮候灰あか残らず取り捨て候えば
4. その床底鉛湯に成り候を、水にて冷やし候ては鉛の湯飛散候に付き、常の湯を掛け
5. 固まり候を少々ずつ剥ぎ取り候後、残らず砕て
6. また「絞り分け床」にて吹熔かし候えば
7. 床前の灰吹壺へ流し出し、溜り申候節、「竿鉛」に仕候儀は、銅にて拵候竿形と申すものに汲込申候。もっとも留粕14貫目流し、8貫400目程に成申候。 

解釈と考察
 銀山秘録に記された製錬方法は、天保時代の吹方あろう。伝えられてから210年余り経っているので、改良されて、伝えられた当時の吹方と違っている可能性がある。銀山秘録に「これがかたけ吹である」と記されているかどうかを筆者は確認できていない。しかしこれしか、寛永9年の吹方を推定する根拠が見当たらないのでかたけ吹として論を進める。
銅山秘録の「かたけ吹」は、「A素吹+B真吹」を一つの床(大床)で行い、更に合銅まで造ってしまうところが特徴的である。すなわち、通常の真吹に加え「塗込(ぬりこみ)」の工程が追加されていることである。通常の真吹が終わった後、銅は取り出さずに、熔けたままのなかに鉛の原料である石銀(PbS)と留粕(PbO)を火の上に置き、吹いて、鉛とし、その鉛が銅と合わされ、合銅(Cu-Pb)となるのである。黄銅鉱の中の銀と方鉛鉱の中の銀を一つの床を使って合銅の中に凝縮できるのであるから大きな発明といえる。
前報で「宝の山」の岩屋鉛山で 鉛鉱石(方鉛鉱)から山下吹により鉛(Pb)を得ていたこと記した。生野銀山では、これと同じ原理を使って、鉛にし、合銅にしていたのである。この塗込は伝わった寛永9年当時にすでに組み込まれていたのであろうか。その当時は、真吹で一旦銅をとりだし、鉛と合吹をして、合銅(Cu-Pb)にしていた可能性もある。
多田銀銅山の吹き方は、6)「吹屋之図」「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」で知られ、「吹屋之図」は、井澤英二、青木美香によれば17世紀初頭に描かれた可能性も指摘されている。(筆者はこの時期の根拠は原典を見ていないので不明である。もしかしたらこのかたけ吹として生野銀山に伝わったことを根拠にしているのか。)まさに寛永の頃である。この図のうち、「「鉛吹の図」で石かね(含銀方鉛鉱)を吹き、鉛と成し、「合せ吹の図」で、銅と鉛を吹交ぜ熔かし、合銅と成す」ことが描かれている。これによれば、多田銀山では、銅鉱石と鉛鉱石は別々に吹き、銅、鉛を得た後、それらを合わせ、合銅にしていた。一旦各金属にして取り出しているので、合銅の品質は高いであろう。しかしこの方法でも「塗込」方式程ではないが、灰吹で得られた銀は銅がかなり含まれ硬かったので「堅げ物」と言われたと推定する。
伝えられた「寛永9年頃のかたけ吹」が「塗込」を組み込んでいたかどうかははっきりしない。が元禄9年頃成稿の銀銅山覚書に「かたけ吹・なんば吹・灰吹、此3ヶ所床一挺前也」とあり、かたけ吹となんば吹の間に、「合吹」がないことから、「塗込」が組み込まれていたとも考えられる。いずれにせよ、黄銅鉱を一つの床で素吹真吹をし、銅にしていたことは間違いない。
元禄3年頃(1690)に「山神の社の森が、かたけ吹出来してから(1632~)、この森絶えて今は浅々しく昔の跡形もなし」と書かれていることから、鬱蒼とした森が 約60年後に薄っすらとした森になったことが分かる。かたけ吹で発生する亜硫酸ガス(SO2)によるものであろう。家康公を祀った東照寺の畠がかたけ吹が出来してより以来、金気当りて悉く荒地となる。かたけ吹伝わってから約30年後の杉田九郎兵衛殿代(1660~1668)には年貢を減らし扶持を10石3斗から5石に下げられた。荒地となったのは、黄銅鉱に係る鉱毒水のためか。
以上のことから、寛永9年頃の「かたけ吹」は、「黄銅鉱を炭火助けに空気で酸化する素吹と真吹を一つの炉で連続して行い銅を得る工程」を含んでいると推定した。

「かたけ吹」の名称の由来を推定する。
前報でも述べたように、かたけ=かたげ=堅気 であろう。発音は「かたけ」が多いのであろう。7)得られた銀が硬い(銅の含有率が高いので)のである。

まとめ
1. 寛永9年の「かたけ吹」は、「黄銅鉱を炭火助けに空気で酸化する素吹と真吹を一つの炉で連続して行い銅を得る工程」を含んでいると推定した。
2. 寛永9年から210年後の天保時代の「かたけ吹」と思われる製錬法の特徴は、「塗込」である。「塗込」とは、通常の真吹が終わった後、銅は取り出さずに、熔けたままのなかに鉛の原料である石銀(PbS)と留粕(PbO)を火の上に置き、吹いて、鉛とし、その鉛が銅と合わされ、合銅(Cu-Pb)となるのである。黄銅鉱、方鉛鉱を原料にして合銅までを一つの炉で造る方法であった。「塗込」が寛永9年当時に組み込まれていた可能性はある。
3. 「かたけ吹」の基は、多田銀銅山の後に山下吹と称される吹き方であろう。
4. 「銀山秘録」では、「かたけ吹」と書かれているか、また「かたけ吹」と書かれている全箇所を調べる必要がある。天保14年は、成稿年か、写した年かも確認したい。

注 引用文献
1. 小葉田 淳「生野銀山史の研究」 京都大學文學部研究紀要 第3巻p1-70(昭和29年1954) web.京都大学学術情報リポジトリ「紅」
2. ブログ冶金の曙>番外編>南蛮吹>南蛮吹の成立諸説
 引用文献は、「生野史 (1)」校補鉱業編 太田虎一著 生野町役場 1977(1962復刻版) p.193-198
  「「かたけ」と「かたけ吹き」について」 植田晃一 『資源・素材学会 1993(春季大会)予稿集』 p.217-218 この予稿集を筆者は確認できていない。
3. 「銀山旧記」:天文11年(1542)より天和 3年(1683)までの生野銀山史。原本は元禄3年(1690)生野奉行所附役人寺田十郎左衛門豊章が著したとされ、享和3年(1803)勝岡同好が原本の写本を筆写し、銀山旧記という表題を付けたとみられる。
「読み下し「銀山旧記」」①p56 ②p24 ③p38(生野古文書教室 平成30.3 2018)
4. 1のp36 「銀銅山覚書」を筆者はみていない。1.の中で引用される事例は、寛文3年(1663)~元禄9年(1696)のものである事、及び1.のp4に「銀銅山覚書に収めた諸稼山の記録は、元禄8年までの稼山を列挙し、当時の記録を伝えたものと思われる」と書かれていることから、この文書の成稿は、元禄9年以降であるが、筆者は成稿年を元禄9年(1696)頃とした。  
5. 「銀山秘録」:生野銀山の初期の様子を記した書物で、採掘. や製錬の方法、操業規則などが 詳細に書かれている(web. /www.city.asago.hyogo.jp の中、生野まちづくり工房「井筒屋」、吉川家寄贈の史料として展示)。生野史(1)p185によれば、「天保14年(1843)山留姫路屋幸兵エ(保月)が50年の苦心経験に基づき記した「銀山秘録」とある。但し1.の中で引用された事例は、延宝~明和4年(特に享保、宝暦)のものである事から、この文書の成稿は、明和4年(1767)以降である。明和と天保の隔たりが76年と大きすぎる。筆者は、原典を見ていない。
製錬方法は、 生野史.第1(校補鉱業編)太田虎一原著 p193~198(生野町 昭和37 1962)に、「以下「銀山秘録」中に記す製煉方法を述べる」とある記述を用いた。 国立国会図書館デジタルコレクション
6.  井澤英二、青木美香は、「吹屋之図」が多田銀銅山の技術書であることを明らかにした。描かれた年は、17世紀初頭の可能性があるとしている。この図を基にして、銀山役人の秋山良之助が安政4年(1857)以降に製錬工程を編纂したのが「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増(はくせきふきたてしだいあらまし)」である。井澤英二 青木美香「多田銀銅山の採鉱・選鉱・製錬技術-『摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増』と『吹屋之図』の考察を中心として-」 猪名川町文化財調査報告書5「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書 第1節p171(猪名川町教育委員会 2014.3)より
「気ままな推理帳」2020.4.5 に既出
7. 1の銅銀山覚書の引用文では「かたげ吹」と書かれていたが、小葉田淳「生野銀山」日本鉱山史の研究 p223(岩波 昭和43 1968)では「かたけ吹」に直されていた。他の箇所でも、生野の古文書の引用では、「かたけ吹」に直されていた。著者が論じる場合は「かたげ吹」であった。
図1. 「銀山旧記」の「かたけ吹」①部分 「読み下し「銀山旧記」」(生野古文書教室)より

図2. 「銀山旧記」の「かたけ吹」②部分 「読み下し「銀山旧記」」(生野古文書教室)より

図3. 「銀山旧記」の「かたけ吹」③部分 「読み下し「銀山旧記」」(生野古文書教室)より