気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

からみ・鍰の由来(12) 尾去沢銅山「御銅山伝書」(1849)は大半が「鍰」である

2021-04-25 08:43:52 | 趣味歴史推論
 尾去沢銅山は明和2年(1765)南部藩の御手山(直営)となり、それ以降の銅山に関連する稼行仕法の秘伝、定法、定目をとりまとめた筆写本が「御銅山傳書」である。1)これを筆写したのは、嘉永2年(1849.3.10)で、南部藩御銅山廻銅支配人で尾去沢銅山の稼行の責任者であった内田家の内田周治である。
明和2年(1765)鉑方役所掟書、床屋役所御控をはじめとして中には、その文書が書かれた年月が記載されているが、この伝書は、その筆写であるので、「からみ」「鍰」がその年月にその通り書かれていたかはわからない。しかし少なくとも嘉永2年(1849)には「からみ」「鍰」が以下に示すように書かれていたということになる。(筆者の読み下し文は読み誤りがあるでしょう)

「御銅山傳書」(1849)
床屋御役所相勤候者平自心得方凡そ左の通り →図1
・鉑吹口明きの節、卸し切り白く成るほど卸しきらせ其の上にを盛り申すべし、左様無く候えば、歩合定まらず鈹も悪きとの御座候。卸し切らみと申すは粉救い(こすくい)を以て数度返し候えば、炭ばかりに相成り、粉燃無くからみ白く相成り候。是をよしと申し候。右の通りおろし切り第一急入申すべき事。
・鉑吹口明き候節立ち合い候はば、盛り候節、鈹も上がる事間々有之もの也。早く見付け撰り取り申すべき関のくぼみへ鈹溜まるもの也。早く折らせ、右折り目より毒いかりよく去り保ち候えば、鈹ほき改もの也。又鈹いかり毒いかりよく砕き尻銅付けおり候はば、からミ分け御役所へ持参、右鉑吹大工の名面附置仕廻に尻銅御蔵処持参の節、尻子入りの小銅へ入れ御蔵処へ納め申すべき候。又床の内にいかり有無に拘わらず、炭を床に入れ羽口を付け、焼懸け火の上に廻り候まで、初て口、二番口の立ち合い引き取り申すまじく候事。右両口とも火廻り候処にて引き取りそれより代わり々に見廻り申すべき事。心得違いの者は、床亦肩杯へいかり立無く立合の引き取り候処にていかりを取り上げ銅取り候ものに御座候間、よくよく気を付け申すべき事。

 嘉永2巳酉年(1849)3月10日拵之  内田周治  此主也  →図2

「床屋御役所相勤候者平自心得方」の節には、鍰5ヶ所 からみ1ヶ所 からミ1ヶ所あり。
御銅山伝書の他の部分には、鍰2ヶ所 からみ2ヶ所 鍰板2ヶ所 鍰鎚3ヶ所 鍰竿1ヶ所あり。
「御銅山伝書」全体では 鍰13ヶ所 からみ3ヶ所 からミ1ヶ所あり。

考察
1. 「御銅山伝書」の各項目が、定められた年代を探ると、
①御手山御取付明和2年(1765)酉11月鉑方御役所掟書之写
②安永5年(1776)申8月改
③天明3年(1783)卯年御普給所に慮の割突込を以て鉄渡方御改左の通り
と明和~天明である。内田周治が筆写したのは、嘉永2年(1849)である。筆写通りに、明和~天明の原本古文書が「からみ」「鍰」と書かれていたかどうかは分からない。
ここでは、嘉永2年では、ほとんどが「鍰」であると言える。

まとめ
 御銅山伝書(1849)では、大半が「鍰」である

注 引用文献
1.「御銅山傳書」 内田周治 嘉永2年(1849.3.10)写 日本鉱業史料集第10期近世編上/下」(白亜書房 1988))九州大学工学部資源工学科所蔵の内田家文書
 上p99~101 →図1 下p107→図2
解説 葉賀七三男
「裏表紙には内田周治が嘉永2年3月に松舘村の大炭中積みの勤務中にこの写本を書きあげた旨を明記している」 

図1. 御銅山伝書 床屋御役所勤心得の一部分


図2. 御銅山伝書 巻末の筆写名と年月日の部分



最新の画像もっと見る

コメントを投稿