涼風野外文学堂

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少年たちは王子様になれるか?

2009年04月10日 | 読書
 昨年テレビを買い換えて、デジタル対応になって以来、TOKYO MXとBS11が見られるようになったので、我が家のお茶の間のオタク度が上昇中です。現在も「エウレカセブン」をBGM代わりにだらだら流しながらパソコンいじってます。こういう世界からはもう長年遠ざかっていたのである意味新鮮です。ああ、エヴァンゲリオン後の世界ってこんな感じなのね、って。

 さて、「エウレカセブン」の前は「地獄少女 三鼎」を、これはBGM代わりではなく、ソファに腰を落ち着けてじっくり見ていたのですが、正直「地獄少女」は、涼風的にここ数年の中でもっとも「気になった」少女漫画です。何が気になるって、漫画の内容よりも、掲載誌がKissとかデザートじゃなくて「なかよし」って辺りが。今日びの小学生女子はこんなもの読んでるのか、って思うと、娘を持つ父親としては複雑な心境です(気が早すぎ)。「おはよう!スパンク」や「あおいちゃんパニック!」で育った世代としては、隔世の感です(ああ歳がバレる)。
 気になった、と言いつつ、コミックス1巻買ったきり続きを買うのを躊躇っています。だって、怖いんですもの。
 いや、一般的な意味での「怖い」雰囲気の漫画は、涼風が「なかよし」読んでたン十年前にだってありましたよ。高階良子とか、松本洋子とか、なんかおっかない漫画描いてる漫画家が、当時の「なかよし」にもいたような記憶はあります。
 しかし「地獄少女」の怖さは、一般的なミステリ漫画の怖さとは、方向性が違います。涼風がこの漫画を「怖い」と感じるのは、この漫画に通底する救いの無さや、未来への希望の無さであって、そしてそれが「なかよし」という、小学生をメインターゲットとする漫画誌で受け入れられている、という事実なのです。

 涼風の世代は、大きく捉えれば、ガン黒茶髪ルーズソックスの女子高生ブームの走りとも言うべき世代であって、同世代あるいはそれより年少の少女たちが、セクシュアルな記号として市場経済に溶け込まされ、濫費されていくのを、ずっと見てきた世代でもあります。
 そのような、ほとんど人身売買のような市場の暴力に対し、疎外されて、ただ「見てただけ」の立場にあった少年たちのやるせなさ、世界への不信といったところについては、過去に「ラブやん」を絡めて触れたことがあるのですが(2007年8月26日付け「ロス・ジェネ文学としての『ラブやん』。」)、同じ頃、こうした市場の暴力に直接にさらされ、その中に自ら溶け込み、自らを濫費させていくことでしか世界に承認されることのなかった、理不尽な圧力と救いのない孤独の下にあった、同世代の少女たちのやるせなさ、世界への不信の深さは、いかほどだったでしょうか。
 「地獄少女」が怖いのは、こうした「少女たちの抱く、世界への不信」が、ますます悪化していることの、一端を示しているからに他なりません。少女たちはいつも非力で、しかもたった一人で、彼女らを利用し、傷つけ、貶めようとする、途方もない害意と、戦わなければなりません。それは苦しい戦いで、しかもどうにか戦い抜いて生き延びたところで、その先に展望が開けているわけではありません。

 このような、少女たちの抱える闇の深さについては、別段「地獄少女」を見たり読んだりしたから考えたわけではなく、むしろ椎名林檎の楽曲あたりをきっかけに、もう何年もずっと考えていたところです。
 しかし涼風は少女ではなく、もはや少年ですらなくなっているわけで、自身がこうした少女たちに何か道を指し示すことができるとは、あまり思っていません。それよりは、少しでも可能性があるとするならば、少年たちに、人生の先達として、自ら果たせなかった希望を預けること、深い深い闇の奥で息を潜めている少女たちの、腕を引っつかんで光の当たる場所に無理やり引っ張り出してくる、そんな荊姫の童話にあるような「王子様」になるための道を指し示すことの方ではないかな、と思っているのです。

 以前BUMP OF CHICKENの音楽に乗じて、少年たちが「孤独の先の世界」を見ることの可能性に触れたこともありますが(2007年12月25日付け「痛み、孤独、その一歩先に。」)、音楽だけでなく漫画の世界でも、少年たちにそうしたメッセージを届ける可能性があるものがないだろうか、と思って、「BAKUMAN」の1巻を買ってきたのが、2、3ヶ月前のことです。正直、期待以上でした。
 まあ、「DEATH NOTE」のガモウ×小畑(ガモウって言うな)コンビですから、一筋縄ではいかないだろうと読む前から思ってはいましたが、これだけ斜に構えてるくせに、ちゃんとジャンプの伝統である「努力・友情・勝利」のスローガンに真正面から立ち向かっている辺りがスゴいです。「DEATH NOTE」のときは、「すげーおもしれー」と思いつつ「こういうものを読まざるを得ない今時の小学生は大変だナァ」とも思っていたのですが、「BAKUMAN」はもう少し素直に(あるいは気楽に)「面白いナァ」と言って読むことができます。相変わらず、世の中を見透かして軽く失望して、あくまでもクールにドライに物事を進めようとしていながら、「BAKUMAN」には「DEATH NOTE」にはない、若気の至りとでも言うべき熱気があって、ああ、こういうのも悪くないじゃん、と素直に思わせてくれます。やればできるじゃんガモウひろし(だからガモウって言うな)。

 少年たちは、少年であるがゆえに、夢を抱き、希望を(あるいは野望を)持つべきなのです。私の母校にずっと昔いた先生も「小僧ども、野心を持て」って言ってました(涼風訳では)。
 そして、われわれ「大人たち」が、少年たちのために何かできることがあるとするならば、無責任に無謀な挑戦を焚き付けることではなく、この時代において、夢や希望を持ち続けることがいかに困難であるかを承知した上で、それでもなお、夢や希望を持ち続けることの可能性を示すことではないのかな、と思うのです。
 その意味において、「地獄少女」の怖さを打ち破ることができるのは「BAKUMAN」の若すぎるくらいの情熱なのではないか、と、最近本気で思い始めています。涼風自身も、ラノベ書きたい、とか、たまにはハッピーエンドの話書きたいとか考えるようになってきましたが、そうした欲求の背景には、こうした「少年たちに伝えたいメッセージ」が感じられるようになってきたことがあるのです。

 ……しかし、とはいえ、「BAKUMAN」はギャグがいちいち古いかマニアックすぎで、やはり小学生男子には難しいような気もします。単行本1巻170ページの「伝説の編集」なんて、絶対マシリトでしょ(マシリトって言うな)。

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