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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

妻女山布陣の意味

2007年10月11日 | 雑記
松代にある海津城は山本勘助の手による城で、第4次川中島合戦の時(永禄4年・1561年)、春日弾正が城代を務めていました。上杉勢は同年3月に10万の兵をもって小田原攻めを行い、北条氏康と相対しますが、北条が決戦を避けたことにより、包囲を解き、越後に帰陣します。その間、北条と同盟を結んだ武田が越後に近い、松代に海津城を築いたことにより、武田との決戦を決意した上杉は8月15日、善光寺に着陣します。翌16日には、5千の兵を残し、1万3千の兵を率い、海津城の横を素通りし、妻女山に陣を置きます。この時信玄本体はまだ甲府にいましたので、海津城など、上杉の軍勢にかかれば、ひとたまりもなく落城させることができたのですが、あえて鋏打ちにされる恐れもある敵の懐に入り込んだ形をとります。川中島合戦については、明確な資料が乏しく、戦は偶発的な出会い頭の衝突がきっかけで大合戦になったという説も近年あるようですが、この上杉の妻女山布陣を見る限り、上杉が武田と決着を付けるべく戦に臨んだことが分かります。

上州に残された記録によると武田信玄の戦術は麦の刈り取りの頃攻め込み、食料はすべて略奪し、新苗は一つ残さず抜き取り、建物は焼き尽くし、捕らえた女性は売り、男は奴隷にして金山などで強制労働につかせていました。日本の歴史の中でも奴隷というものはあったのです。また征服した土地の民を疲弊させ、抵抗勢力を出させないようにしています。これだけ悪逆非道の限りを尽くした武将を現在英雄視しているのは、征服者の記録のみが記録として残されているからです。征服者は正しい記述はせず、自分の都合の良いことしか未来に残しません。

今から10年ほど前に、某宗教団体の教祖が大規模な無差別殺人を企て現在も容疑者の一部が捕まっていませんが、事件を起こす前にはその教祖を認め、持ち上げる業界関係者も多くいました。その教祖は空中浮遊という奇跡を起こすことができるという触れ込みで教団の信者獲得して行きますが、後でそれはうそであったことがバレてしまいます。さて、そういう悪人の教祖もいるのですが、実はまだ関係者がいるので多くは話せませんが、その教祖よりも十年以上前に、実際に空中浮遊ができる僧がいました。その僧を信望するある経営者がこの川中島合戦のあった地に建物を建設するにあたり、地鎮祭を依頼したところ、戦で亡くなった方の霊を鎮めるのに1ケ月以上かかったそうです。戦死者は上杉方が3000人、武田方が4000人とも言われていますが、それほど大量の戦死者を出した戦は戦国時代であってもあまり例がありません。

上杉謙信(当時は政虎)が妻女山に布陣したのが8月19日、その後八幡原一帯で大激突が起こる9月10日までの間に、どのような心理的、頭脳的戦いがあったかは、大変興味の湧くところです。


写真は松代の真田邸の塀(正面の屋根は文武学校)
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文武学校 真田十万石まつり

2007年10月11日 | 雑記

文武学校 弓道場

弓道場では弓の見本演技がありましたが、そこの床の間や、他の建物内には、いけばなの展示があり、なかなか見ごたえがあります。

 

 

 

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