KENさんのいつまでも青春!日記

2016年3月、慶応義塾大学通信教育課程法学部(甲類)を卒業しました。次は???(笑)

リーディング。。翻訳中!

2008年08月15日 | 慶応通信

今日は、久しぶりに高田馬場にあるLone Star Cafe に行きたかった。

昨日、予習をしてみて、完璧な予習をするには、金曜の夜も必要と諦めた。

遊べない~。

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明日の昼までには、100ページすべて翻訳せねば~!!

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初盆、シベリア抑留、 平和祈念展示資料館

2008年08月15日 | 慶応通信

今日は、終戦記念日だったのですね。

昨年12月に亡くなった僕の父は、終戦後、長くシベリヤに抑留されました。

父の妹の子(従兄弟)たちは僕より一回り近く年上。戦争がなければ、僕はもっと年上で生まれたでしょう。

戦闘の話を聞いたことは、ほとんどありません。

「ロシアの戦車に追われた時には何もかも捨てて逃げた。」

リュックか何かわかりませんが、「所持品を持って逃げようとした仲間は撃たれて死んだ。」

「近くで銃弾か大砲か(かなり口径の大きなものでしょう)に当たった人は、バラバラになり影も形もなくなった。」

そんなことを言っていました。

銃で戦車に立ち向かえるのは、映画の中だけの話です。とりあえず逃げて当然です。

神(天皇)が統治する国では、玉砕するのが兵士の役目だったかもしれませんが、

いやいや魚雷(回天)に閉じ込められて、もがき苦しみながら海底深く沈んでいかなければならないような境遇にいなくてよかったと思います。

シベリアでどんな苦労があったのか、想像すらできませんが、幼少のころ、そんな生活の中で見出した楽しかった思い出ばかりを語ってくれました。

木を切り出して製材するようなことをしていたようで、その時に見たロシアの女性の話とか、馬車でやってきたビール売りの話とか、

多くの人が抑留されていたので、いろんな分野のすぐれた人たちがいたことなど。

抑留の最後の1年は劇団に入っていたようです。シベリアから持ち帰った写真は1枚だけ。劇中で母親役をするために女装した写真。

大抜擢だったようで、亡くなるまで大切にしていました。

もともと旧制中学で音楽をしていたので楽譜は読めたし、オール木製の三味線をつくって弾いていたようです。帰国後、同じものを作って弾いていました。

いま母に電話をすると、今日は従兄弟や近所の方がたくさん参ってくれたそうで、有り難いことです。

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僕の働くビルに「平和祈念展示資料館」があります。

http://www.heiwa.go.jp/tenji/index.html

ここに展示されている写真の中に、シベリア鉄道で帰還する満員の列車を、楽器を演奏しながら見送る劇団の人たちの写真があります。

初めて資料館を訪れた時、写真の中にチェロを弾く父を見つけました。

撮影禁止なのですが、大きなパネルを写真にとって送ってやりましたら、たいへん喜んでいました。

月曜から夏期スクーリング。帰れないので、お盆には僕を除いた家族が帰省してくれました。

明日、平和祈念展示資料館へいって会ってきます。

コメント (2)
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リーディング

2008年08月15日 | 慶応通信

少し気持ちが緩んで、昨夜はぶらぶらと過ごしてしまった。

それでもと、22:00頃から英語リーディングのテキストを開いて読み始めた。

内容は易しい。

でも、確信がもてない単語や熟語をついつい調べてしまうと、アット言う間に時間が過ぎて、

えっ、たったこれだけ読むのに、こんなに時間がかかった?

look to see if there are words in english.

"look to see"って?同じ言葉が並んでいるんじゃあないの。 ”見て確認”か。。という具合。

『早めに予習に取り掛かりましょう。』

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