将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

名刺代わりのブログデビュー

2006年12月29日 | 想い

 
通学路を秩父鉄道ルートに変えてから、他の父兄と接する機会がめっきり減り、1~2ヶ月に一回程度ある、学校行事のある時だけが他のご父兄とお会いする機会となってしまった。今回の光の村マラソン大会もその一つだ。

大変申し訳ないものの、こっちはお名前も存じ上げないし、どのお子さんのご父兄かさえ知らない方からも、障害児の親同士と、長年の知己のように暖かく話しかけて下さる事が今回とても多かった。このブログのおかげとしか言いようがない。思わぬ効果で、本当にびっくりしている。

ただ、ブログであちらは小生の事をよく知っておいでのようだが、こっちはほとんど知らないので、とても変な感じだ。今まで経験した事のない、全く不思議な感覚・・・。

そうかと思えば、それを察して自らいろいろとパーソナルな事まで自己紹介しながら話しかけて下さる方もおられた。

こちらは極度の口べたで、だからこそ時間をかけて文章を書く癖がついた手前、とてもありがたいものである。ブログというのは名刺代わりになると思った。

親同士はお互いとても遠い所に住んでいるし、たまにお会いする時でも学校行事でかなり過密スケジュールだ。皆さんがブログを持って頂けると、コミニュケーションがとりやすいのではないかと思った。少し恥ずかしい気はするが・・・。

今年はおそらくこれが最後の書き込みになります。今年は本当にお世話になりました。新年も将人共々どうかよろしくお願い致します。

 

 

 

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光の村マラソン大会

2006年12月24日 | 体育

 
光の村マラソン大会に行って来た。

中学生は20㎞、高校生は42㎞走ると聞いて、将人たちは本当に大変だなとかわいそうなくらいに思って来てみたが、意外や意外、こっちが拍子抜けするくらい、みんな淡々とやっていた。

みんなが毎朝5㎞走っている学校裏の山道で、栃本の公衆トイレ横駐車場をスタート兼エイド地点とし、学校裏から少し登った所を折り返し点とする、1週2.5㎞のコースの往復だった。

長距離走の分、普段より遅めのペースで、ちょこちょこわさわさという感じではあるが、力強くかつ粘り強くみんな走っていた。もちろん、しかめっ面している子もいたし、時には泣き声のような叫び声を上げている子もいた。こづかれるように先生に押されてやっと足を進める、ほとんど競歩しているような子もいた。

ただ、将人も含め概してみんなポーカーフェースで、どの子も足を淡々と進めていたし、逃げだそうとしている子はいなかった。長く座り込んでいる子も見なかった。以前、将人がよくしていたような、道路に大の字に寝て、「嫌だ!」と抵抗している子もいなかった。

また、普通のマラソン会場でよく見る、立ち止まってげーげー吐いたり、脇腹を押さえながら苦しそうに走っている子は不思議なほど見なかった。いわゆる体調不良なら青白くなったり、吐いてもおかしくないのに、そういう子は一切おらず、時折騒いだり停まったりした時はこだわりなど他の要因で停まったという事なんだろうか。 それくらい周到にみんな準備して頂いているということなんだと思う。

かと言って、先生方が鞭を持って追い立てているかと思いきや、そんな事はない。男の先生も女の先生も自転車に乗って、時折「がんばれ!」「どうした!」と声かけしながら伴走しているだけだ。

敢えて言えば、普段は厳しい中にもやさしさを漂わせた光の村の先生方が、この時だけはそのかけ声に異常なほど気合がこもっていた。

まるで冬山登山で遭難し、極寒のテントの中で「今眠ったらもう終わりだぞ。目ん玉をおっ広げてもう少し頑張れ!もう一度家族の所に一緒に帰ろう!!」と仲間に活を入れている人のようだ。

あるいは、猛火に包まれたビル火災で退路を断たれ、10階の窓から救助用ネットを張った下の駐車場まで、生き延びるために何とかダイブさせようと仲間に必死に気合いをかけている人みたいだ。

今思えば、あれは生徒たちに対する叱咤激励であると同時に、もしかしたら先生方自身もキツイから両者を奮い立たせていらっしゃったのではないかとも思う。もちろん、第一義的には「諦めるな。障害をぶっ飛ばせ!」という気合であることは明白だが・・。

それくらい、このマラソン大会にはさまざまな人の、複雑かつ単純、そして限りなく純な思いが込められているのだ。

早朝5時半からのマラソン、続いて保護者会という過密日程で、先生方もおそらくほとんど寝ていらっしゃらないのだろうに、勾配のある山道を42㎞も、しかも生徒に合わせて敢えてゆっくり伴走するのはたとえ自転車でもとてもしんどいはずだ。最長老(?)の校長先生に到っては、自転車にもお乗りにならず、始めから終わりまで遅い子に付き添っておられた・・・・。

考えてみれば、28才以降今まで42㎞も自分は歩いた事さえあっただろうか。本当にご苦労な事である。

一人も脱落する事なく、そんなご苦労を生徒も先生もしたのに、だれ一人「どんなもんだい!」(ボクシングの亀田風に言えば、どんなもんじゃい!)と威張ろうとしない事がむしろ不思議だった。

昔、私も体育会系のクラブに属し、頑張っていた時代があったが、所詮は自分のためにやっていたはずなのに、いつしか部のため皆のためみたいになって、トレーニングを終えて帰る時には心の中で「どんなもんだい。」といつも肩をいからせていた・・・。

知り合いがパラシュート降下にチャレンジした事があった。テレビでも時々芸人さんがやっている、インストラクターにぶら下がる形のタンデム降下ではない。バンジージャンプのような、11メートル飛び出し塔からの飛び出し訓練。それが躊躇なくできるようになると、数本の細いロープで空中に吊り下げられた、開傘状態からの80メートル落下訓練。もちろん、着地までパラシュートを操縦するための懸垂、着地のための受け身練習など、やる事は山ほどある。以上、さまざまな地道な訓練を数週間かけて行い、初降下となる。たとえ好きで始めた訓練とはいえ、最後の最後まで逃げ出したくなる気持ちが見え隠れする。だが、いったん降下したら、それまでの恐怖、不安がすっかり晴れて、まさに「天下を取った。」かのような自信と変わり、精神的にも雲上の人と化す。下じもの、娑婆の人間とは自分は違うのだ、と。

人間には一皮むける時がある。パラシュートの初降下しかり、マラソンしかり。それは人様々だろう。

だが、少なくとも将人たちにとっては、今回のハーフ、あるいはフルマラソンは十分それに値するはずだ。何十㎞も走ったのだ。威張り散らしたり、「お父さん、こんなに走ったんだから絶対○○買ってよね。」くらい言っても良さそうなものだ。

あるいは、光の村の子は自分から進んでここに入学したり、自ら好んでマラソンしている子はおそらくいない。それなら、こんなにきつい事をさせられたら怒り出して、先生にくってかかってもおかしくないはずだ。それが、先生方の並はずれたご苦労は当然あったにしても、結局すんなりマラソンに応じて、しかもできてしまう・・・。

基本的に自閉症は素直な障害なんだという事だろう。あるいは、これが若いという事なんだと思う。

これがまだできる時に、できるだけ多くの事を体験し、多くの世界に目を向けさせたい。

限られた能力の、将人の鍵穴に何とかして何かの鍵がささらないか、可能性をまだ探りたい。 諦めるのはまだまだ早い、と本当に思った。

今回は、忍耐力という点で完全に父を追い抜いた。これまで、子供子供して、障害児の幼子だった将人がひと皮もふた皮もむけて青年となり、我が子に「尊敬」の念を初めて感じた歴史的な一日となった。 光の村に感謝!

 

 

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将人のハーフマラソン

2006年12月21日 | 体育

 

あさっては光の村マラソン大会だ。高校生はフルマラソン、中学生はハーフをそれぞれに応じた速度で走りきる。

中休みが高校生は40分、中学生は10分あるとはいっても、それぞれを4~6時間、2~4時間で走るのは並大抵の事ではない。午後は学期末の保護者会がある事もあって、高校生は朝5時半スタートだという。この時期の5時半といえば、まだまだ真っ暗だ。山あいの光の村ではなおの事だろう。

ここまで行くと、ついこの前まで手を焼いていた自分の子供に尊敬の念まで抱いてしまうくらい、神々しいものがある。その応援のため明日には秩父入りして、あさっての早朝に備える事にした。

単に体と精神力を鍛えるジョギングの域を超えてここまで来ると、昨年見た韓国映画「マラソン」の世界とオーバーラップする。その主人公は実在する韓国の自閉症青年で、19歳の時にフルマラソンをサブスリー(42.195㎞を3時間以内で走りきる、アマチュアランナーの夢を表現した言葉)で走りきり、健常者も含めた韓国史上最年少記録を打ち立てた人だそうで、翌年にはトライアスロンも15時間でやり遂げている。

以前見た時には「すごい」と思ったし、その余韻が残るままに光の村を知ったからか、光の村への入学をすんなり抵抗なく決めてしまった。 だが、あさって現実に目の前で将人がハーフマラソンという、親もできない、巨大で高い高い壁を乗り越えようとしているにあたり、改めてもう一度「マラソン」を見ないといけないと思い立ち、約1年ぶりに今日また見た。

今度で都合3回だと思うが、毎回感動する所が違ってくる。実に奥深い映画だ。光の村で、ランニング大会がある度に見返す事になりそうだが、おそらくその度に見方が変わってくると思う。

今回はまだ、「できない」と諦めていた将人が「できる」事を見て感動するだけに終わりそうだ。

そして、親の満足のためにさせているのも、この年齢だからこそまだ許されると信じたい。そして、それはとりも直さず、いろんな体験を通じて将人自身が自分の世界を作り上げていく糧(かて)となると確信したい。

この前の秩父宮ロードレースの時は苦しそうでもないが、かといって楽しそうでもない、息を乱さないポーカーフェースでのゴールだった。

願わくは今度は、解き放たれ、はじけ切ったような、すがすがしい笑顔で息を弾ませながらゴールしてくれる事を願う。

 

 

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少なくない交通費

2006年12月13日 | 登下校


学費、寮費などの費用に関しては入学願書を請求した時に学校から渡された資料に詳細に書いてあったが、果たしてそれだけで本当にいいのか、と昨年思った。

生徒の数は30人弱、先生方職員の人数は約10人。寮費を合わせると結構な学費にはなるが、これで本当に学校運営ができるのか、という疑問も感じた。寄付金等を入学時に請求されるのではないか、とも思った。

ところが、もうすぐ年が変わろうというのにいまだに言われないところを見ると、どうも寄付金等に学校運営は全く依存していないようだ。行政の補助金や、市や村の有形無形の援助が少なからずあるのだろう。(今は大滝村ではなく、秩父市に編入されています。)

入学してみて意外に思ったのは、交通費だ。よく考えれば当たり前の事だが、遠い所から通うのだ。結構かかる。

2週間ごと、月4回、西武秩父駅あるいは御花畑駅まで親子で行くが、うちの場合はこれが月約2万円かかる。療育手帳で割引は効くが、親は往復で約6時間移動するので電車賃だけですむ訳もなく、結局、飲食費等もかかるし、寄り道代もかかる。

また、1ヶ月から2ヶ月の間に1回程度は行事で大滝の学校まで行く用事があり、2ヶ月で少なくとも5万円は使っていると思う。時には前日から泊まりがけで行った方がいい事もあり、その際には2ヶ月で7~8万円はかかる。

県から補助は出るが、所得制限が結構きつく、うちの場合は中学の間だけ交通費が出る事となって、前期は5万円頂いた。

山奥でかなり寒い所なので、衣服代や光熱費がかなりかかるのかと思ったが、衣服の定数は決まっており、各数点ずつなので、意外なほどかからない。まめに洗濯させて下さるようだ。

教育、運動、生活、作業など入学前に悩む事は数多くあるが、まずこの費用の捻出が6年間、安定してできないとどうしようもない。

 

 

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相変わらずなもの

2006年12月09日 | 将人

まだ入学半年ちょっとだが、あまり変化がないもの、あるいは悪くなったもの、について書いてみたい。

何にせよ、以前と違い、ほとんど離れて生活している訳なので、細かな変化はわかりにくい。それと、帰省した時には嬉しくて興奮気味で、10日間貯めていたものを一気に吐き出すようなところもあって、パソコン三昧、ラーメン三昧、こだわり三昧のような面もある。なかなか見極めにくいが・・・。

はっきり言って、子供に関して悪くなったものは何もない。

敢えて言えば、今でこそマラソンするにもニコニコしながら5㎞を走りきるが、当初はかなり苦しそうにして、何回か逃げ出した。睡眠不足が大きかったように今では思うが、そういう時、「何も将人自身がサッカー選手になりたいとかオリンピックで活躍したいとか望んで走る訳でもなく、しかも同い年の健常児でもここまではやらないと思うようなトレーニングまでしている・・・。果たしてこれでいいのか。他に何かすべき事があるんじゃないか。」とかなり親の方が悩んだ。いや、今でも悩んでいるが、こういう悩みはこれまで味わった事がなかった「悪い事」かも知れない。親にとって新種の心配事が一つ増えた、という意味で「悪い事」なのだが・・・。

幼稚園、小学校時代を通じて様々な療育施設、教育機関にお世話になったが、どこも「平均的な、可もなく不可もなく、所詮は親次第です、思い出を作りましょう」という感じの、マシュマロタッチだったので、「もっと叱ってやって欲しい」、「しっかり教育して欲しい」といつも内心やきもきしていた。もちろん、年相応に優しくして頂いていたのは本当に有り難い事だが、親としてはついスパルタ式を望んでしまう・・・。

だから、光の村の強力な指導方針でそのやきもきは全く吹っ切れたのだが、逆に吹っ切れ過ぎて、心配になっている面がある・・・。これまでと正反対の悩みだ。これは言ってもしょうがないし、決めた以上は進むしかない。人生、すべからくこういうものだ。事故だけは注意して頂きたいが・・・。


変わらないものは、いっぱいある。少なくとも家に帰って来ている時は、相変わらずこだわりが強い。

どこに行っても時計をさすりたがるし、ジーと見ている事が多い。辛子明太子を湯水のように食べるし、インスタントラーメンも一日に何個も食べてしまう。気に入ったテレビのコマーシャルをパソコンで何度も何度も延々と繰り返し見ている。 お茶やポカリスウェットを水筒で何本もがぶ飲みしてしまう。

ただ、いずれも学校にいる時には全くできないはずで、それでも学校でパニックになる事もないようだし、以前と比較すると程度が軽くなっている。

カップヌードルを日に5個食べた事もあったが、最近はよく食べても2個程度でとどまっている。辛子明太子も業務用を月に3㎏買っていたが、最近は家にいる時間が少ない事をさっ引いても、相対的に少量ですんでいる。パソコンも他の用事があれば、あっさりやめられる。 お茶も大型ポットから500ccの小型水筒に代えたがパニックを起こす事もない。

また、今思い起こしていて気づいたが、消えたこだわりも少なからずある。家々のインターホンを触って歩く事だ、しかも数分間さわさわしているので、以前は何回となく道行く人が怪訝そうな顔をした。それが入学以来、ほとんど消えた。

こだわりの形は同じだが、薄まってきている感じだ。

もし可能なら、伸ばしうるこだわり、たとえば読書、絵、音楽などの創造的なこだわりに転化させたい・・・。

また、できうるなら、もう少し細かなやりとりのできる会話ができないか、自分で修正しながらある程度の作業がこなせないか、など1年前までは思っても見なかった事も考えるようになってきた。

ここまで変わったのだから、後もう一歩とばかりに欲が出てきたという事か。

先は長いけれど、また短くもある。

ある方が言ったが、砂浜に押し寄せる波と同じで、いい時もあるし、悪い時もある。それでも、だんだん満潮の波打ち際が干潮時のそれになって行けばいい。至言だと思う。

 

 

 

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マラソン以外の変化

2006年12月07日 | 将人


ここまで書いてきてふと思ったが、まるで年がら年中走ってばかりいるみたいに聞こえるかも知れない。実際、離れて生活している親から見るとそういう事だけが目立つが、帰省してみて4日間一緒に過ごしてみると、「長く速く走れるようになった」以外にも、やはり「前とは違う」というのが月ごとに感じられる。

マラソンする勇姿を見るのは実に頼もしいが、もとより、それが目的で入学させてもらった訳ではなく、是非とも他が変わってくれなくては困るのだ。

大人になっても高等数学を日常的に使う人はごく限られ、ほとんどの人が小学校の算数程度で生活しているが、それでもみんな中学校以降も延々と「数学」を勉強したのは「理論的な考え方」をする練習になるからだそうだ。光の村では「体育」がその数学に当たり、理論的な考え方が「情緒」に相当するという事か。


まず手伝ってくれるようになった。もちろん「できる」「できない」はものによるが、少なくとも手伝いを頼めば、違和感なく手を差し出してくれる。そして、こっちが持てないような重いものでもあっさりと担ぎ上げたりして、「本当に役に立つ」のを実感することが珍しくなくなった。

次に、忍耐力が出てきた。できなくて、いらいらして軽いパニックになる事は時にあるものの、以前ほど尾を引かず、比較的切り替えができやすくなった。

これは、多動がほぼなくなったという事にも通じている。

小学校低学年の時には目も当てられないくらい、電車、レストラン、等々あらゆる所でそわそわうろうろしていたが、歳が上がるにつれ落ち着きが出てきて、合目的的なうろうろに変わり、寮生活を始めるようになってからは我慢する事も加わって、気になる時計を触りたい見たいなどという、それなりの理由でうろうろしたくとも、敢えてそれを我慢できるようになったようだ。

また、たとえ帰省中でも昼夜逆転する事もなく、ほぼ学校と同じ時間帯で生活できるようになった。以前は、午前3時まで起きていたり、家族全員が睡眠不足で数日間体調を崩す事がしょっちゅうあった。

ただ、仕事の関係もあって親の生活が夜にシフトしているので、帰省中は敢えて1時間ずらして午前6時50分起床、午後10時半就寝、にしている。

1学期は、とにかく何とか学校の生活リズムを維持しようと、どんなに遅く寝ても、朝は強引に午前5時50分に起こして一緒にランニングしていたが、睡眠不足は親はともかく、子供にはすこぶる危険で、途中顔が青ざめて吐いたりした事もあった。普段はかなり走っても息も切らせないのに、とにかくつらそうにして逃げ出す事もあった。そのため深く反省し、以後は寝た時刻から逆算して起床時間を少し柔軟に考えるようにしている。


一方、指示、命令を「受ける」事が多いためか、これまで家でさんざん手こずった「駆け引き」に伴う自己主張、妥協、約束、抵抗を通した様々なコミニュケーションが少なくなり、一見やりやすくなった反面、そこから醸成されるはずの「言葉」が少し少なくなったように感じる。

とはいえ、寮生活をしている以上、やはり集団生活が優先されるのは当然の事なので、それはそれとして、家庭学校の間だけに限定して、敢えて我々がその我がままの受け皿になろうと思っている。また、その間は一歩進めて、積極的にその駆け引きに応じてやるようにしている。

単に我がままを通させるのではなく、硬軟使い分けつつ、態度や言葉で駆け引きさせて、「自己」の実現をさせるようにし向けているつもりだ。

簡単に言えば、「お散歩行きたい。」と言っても、(百マス計算を1ページしてから)と条件を出してみたり、それを「嫌だ」と言えば、(じゃ半ページにして、その代わりに刺し子をしてもいい)と折れたりする、といった具合だ。

普通の子供なら当たり前のやりとりだろうが、今まではこれがなかなかできなかった。今でもできない事が多いが、「したい事をする」ために何とか努力するのが見られるようになった。こういう、本人から見た必死の要求のために、あらん限りの言葉を駆使しようとする努力の芽は摘み取らないようにしたい。


こういう様々な変化は、先生方はもちろんの事、学校職員すべての皆さんが24時間の寮生活を通して陰に陽に生徒たちに語りかけ、親身に接して下さっているおかげとしか考えようがなく、少年期の寮生活は教育上大変意義深いものだと改めて痛感している。公立養護学校がそれをしないのは教育上意義がないからではなく、費用上、マンパワー上できないだけだと思う。もちろん、必要のない子も多いからだろうが、少なくとも将人にとっては本当に良かったとここまでは確信している。

 

 

 

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将人が3時間走る!

2006年12月02日 | 体育


つい先日、秩父宮記念ロードレース大会が終わったかと思ったら、年末には光の村マラソンが催されるという。毎月定期的に行われている5㎞のマラソン記録会に毛が生えたくらいのものかと思っていたら、何と将人が3時間かけて20㎞走るのだという。

生徒の能力に応じて目標速度は個々に違い、速い生徒は時速10㎞だが、将人はまだ時速7㎞だ。だが、速度の違いはあっても、ごく一部の生徒を除き、走る距離はみんな、中学は20㎞、高校は42.5㎞だ。

何という学校だろう・・・。

7月にもこれに似た事があった。

将人は小学校時代、脱走してばかりいたので逃げ足が速くなっては大変だと思い、敢えて自転車の練習をさせなかった。そのため、光の村に入学した当初は自転車にも乗れなかったが、数回指導して頂いただけでもう乗れるようになり、今や自転車の魅力にとり憑かれたようだ。学校では自転車に乗る機会もそんなに多くはないのだろうが、家庭学校に帰ってきた時には暇さえあれば乗っている。そのせいもあってめきめき上達し、7月末の自転車記録会では59㎞を5時間30分で走りきったと先生から緊急ファックスを頂いた。

あの時も唖然とした・・・。 「できる」「できない」だけではなく、忍耐力をつけて、極めさせようとするのだ。

「光の村は子供たちを追い込む教育をする」とどこからか批判があったらしく、1学期の終わりに「追い込む教育」はしていない、と何度も先生が保護者会でおっしゃっていた。だが、何にもしない、できない将人を、少なくとも初めは追い込んで教育しないでどうするんだ、と本心思った。

実際、4月は暗い顔をして帰校して行った。ただ、不思議に「光の村、行かない。」とは言わなかった。本来どうしても嫌いなものは、「いらない!」とか、「行かない!」とか言えるのに・・・・。帰校のための自動車や電車にも乗った。そして、家庭学校で父と一緒に学校よりきつい筋トレをした。(父は昔からランニングは大の苦手だが、筋トレは得意だった。お父さんは腹筋100回するけど、将人は50回でいいよ、と言えば、時間はかかったが喜んでした。一緒にするのがとても好きなのだ。) そのうち、体力がついてトレーニングが当たり前の事となってくると、入学前の朗らかさが戻ってきて、ふざけるようにもなった。

夏休み前の保護者会は泊まり込みで行われたが、夜、生徒の相撲大会があった。笑いやおふざけもあった。こんなくつろぎもあったんだ、とほっとした。まるでオリンピックの強化選手並みの生活を、毎日強いられているものとばかりに思っていたから。

今日も一緒に家庭学校でランニングした。父が膝を痛めているのを知ってか、はたまた自分の体力が余っているのを知ってか、「お父さんは膝が痛いから、将人はマラソンする。お父さんは自転車で一緒に走る。いいですか?」と聞くと、一瞬、間が空いて、「中学校、10周」と答えた。親父が一緒に走るか、自転車で伴走するか、は全然問題ではなく、いつもしている「中学校の周りを自転車で10周(6㎞)走る」こだわりの方が大事なようだった。

果たして、問題なく自転車で伴走させてくれた。無事8周(4.8㎞)走って、ほとんど息を乱していなかったのは秩父宮ロードレースの時と同じだった。そして、更にいつも通り、自転車でそのコースを10周回った。もう5㎞のマラソンはちょっとついでにする事に過ぎなくなっているのだ。

これなら本当に20㎞を3時間というのも無理ではなさそうだ。

もう、追い込むとか何とかいうレベルの話を超越している。

確かに普通の子が憧れの選手のようになりたいと自ら求めてする、運動部のきつい練習とは違うだろうが、当初はともかく、少なくとも今は嫌な事ではないようだ。まるで「仕事」のようにこなしている。この粘りは将来に活きると確信を持った。



追伸1 :

父の自転車伴走を許した心がなせる技か、今まで何度頼んでもどうしてもくれなかったのに、「将人の明太子、ちょっとくれる?」と食事の時、今回も頼んでみたら、初めて自分から明太子の乗った皿を差し出してくれた。・・・・・・。ここまでが、実に長かった。しかし、運動させる事でどうしてこんな事まで変わるのか、本当に摩訶不思議だ。

追伸2 :

自転車で中学校の周りを10周走る時、もうマラソンしたのだから、後は好きにすればいいと思い、「将人一人で自由に自転車で走ったら」と言うと、それは嫌ならしく、[本当に走らなくとも、自転車の伴走でいいからついて来い]と言う事のようだ。
まだ、見放されていなかった!!\(^◇^)/

追伸3 :

この中学校は、将人が出た小学校の卒業生の半数近くが行く市立中学校だが、先輩も含めて、出会うと驚いたように「石川君!」とよく声をかけてくれる。将人もちょっかい出したり、会う人みんなに「お早うございます!」と言って回る。将人が自分を誇示するかのように颯爽と走るのが印象的だった。自信が出てきたように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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