将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

富弘美術館

2008年11月13日 | 人生哲学
長く気になっていた群馬県の富弘美術館に行ってきました。

山奥の湖畔の美術館でしたが、とてもモダンな作りで、隣には道の駅も出来ているほど、地域の中核的な観光施設でした。今まで数多くの美術館に行きましたが、まるで都心の美術館が集中展示会をやっているかのように大盛況でした。観光バスも列をなして乗り付けるのが普通みたいでした。

シンプル、かつシャープで、ハートフル。若くして人生を絶望し、克服した人だけが持つ説得力に溢れた詩画がきら星のごとく展示されていました。特に、レコーダーを通して星野富弘さんご自身が詩を朗読して下さったのにはとても感動しました。

詩や歌は、噛めば噛むほど味わい深くなる酢昆布みたいな気がします。また、数年後、再度訪れた時、同じ詩をどう感じ取れるか楽しみです。

どれも本当にいい詩ばかりですが、今は次の詩が印象に残りました。


「はなしょうぶ」

黒い土に根を張り
どぶ水を吸って
なぜ、きれいに咲けるのだろう
私は
大勢の人の愛の中にいて
なぜ、みにくいことばかり
考えるのだろう

(星野富弘作)

星野富弘 ことばの雫
星野富弘
いのちのことば社

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もし明日

2008年11月11日 | 中年期
もし明日、死んでしまうとわかっていたら、今日何をしただろう。
もし来月、日本が沈没するとわかっていたら、明日何をするだろう。
もし来年、小惑星が地球にぶつかるとわかっていたら、年末何をして過ごすだろう。

そして、30年後、もし親より先にこの子が死んでしまうとわかっていたら、今何をやってやろうと思うだろう。

準備は必要だけれど、将来が見えない今、ただひたすら漠とした将来の不安におびえ、今を捨てて将来に備えるより、今を「生きる」事が大事だと思った。
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修道院と共同生活

2008年11月02日 | 社会生活
先日ある修道院の人たちとお話しさせていただく機会があった。そこはカトリックの修道院で、5人の修道女が同居しておられた。

別の用事で出かけたので、生活そのものについてはあまり聞けなかったが、お互いの出来る範囲で共同生活をしておいでのようだった。年齢層はさまざまで、料理の得意な方は料理、裁縫の得意な方は裁縫、パソコンの得意な方はパソコン、といった具合だ。

ただ、分業にしてしまうと、お互いの気持ちが離れ、神のもとに集い、礼拝中心の共同生活を送るという本来の姿がいびつなものになってしまいがちなためか、極力、専門化、分業化を避け、「分担」しているということだった。組織が大きくなると作業量が増えるので、効率化のためには分業化、専門化ということになりがちで、「階層」が生まれる弊害も出てしまう。組織は小さく、みんなが普通に毎日、目をあわせる範囲で運営するのが賢明なようだ。

そういう文化が根付いているためか、欧米系の人たちは気楽にルームシェアする。日本では、長屋や寮でその雰囲気を感じる事ができるが、日本の場合はあくまで団体生活、世間様の方に重点があり、個人は団体生活の方に合わせる事を期待される。ところが、欧米系の場合はまず個々人のプライベートが先にある共同生活なので、一見とても魅力的だが、日本人の自分からすれば想像もつかない。

プライベートを第一にした、共同生活がもし本当に出来るなら、それは理想だ。

これは知的障害者を抱えた家族、独居老人、身体障害者本人などに対し幅広いニーズのあるライフモデルだ。旧来の日本の文化にはないものだろうが、障害者介護、独居、信仰、等々、一つの目的のもと、意を同じくして集まれば必ずしも難しい事じゃないのではないかと思い始めた。なぜなら、それ以上に、それ以外の道が困難を極めているからだ。

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