将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

山の学校と海の学校

2008年03月23日 | 光の村
今日、将人が帰省してきた。今日から春期家庭学校、いわゆる世間でいう春休みだ。約2週間ある。

西武秩父駅まで迎えに行って来たが、天気がとても良く、日曜日のためか、行楽客も多かった。帰省日、帰校日はほとんどが金曜日と月曜日で、平日なので、大体、西武秩父駅は閑散としている。だが、年何回か異様に込む時期がある。春の芝桜、秋の紅葉、冬の夜祭りの時だ。もちろん、年間を通じて週末は込んでいるのだろうが、週末に行った事がほとんどないのでよく知らない。

関東の最も身近な田舎を自認する秩父市が、その面目躍如とする時だ。

2年間、秩父に通った。山国の四季を堪能させてもらった気がする。

これに比べると、土佐校は山がすぐ後ろに控えているとはいうものの、やはり海辺の学校といった方が適当だ。自転車の長距離走も徒歩旅行も結局は海辺の道だ。カッターもあるらしい。

中学は山の自然学校、高校は海の自然学校、というのも悪くないと思った。もし、許可して頂ければ・・・。



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もうすぐ今年度も終わり

2008年03月21日 | 家庭学校
今年度ももうすぐ終わりです。

先生方から見るとまだまだでしょうが、小学校卒業時とは比べ物にならないほど、見事にそれなりの青年に変わってくれました。

1年生の1年間は驚くことの連続で大変長く感じましたが、2年生はとても短く感じました。3年生はもっと短く感じるでしょう。あっという間に高校生です。

今後は、学校後、就職、老後のことまで含めて、また、親の老後も含めて(つまり私のことです。)考えないといけません。土佐校見学は、それを考える絶好の種を蒔いて下さいました。1年間かけてじっくり考えたいと思います。

わからないことだらけですが、この子の産まれてきた目的、そして私の生きた意味を探しながら方向性を見いだそうと思います。男の50代は、あと何か一つ大仕事をしてから逝く最後のチャンスだと思っています。

今年度、家庭学校のレポートは「○○できない。~~が悪かった。」と書くしかなく、書いててとても惨めになることが多かったです。将人に語りかける言葉も、「~~するな。」がほとんどでした。

来年度は、「○○するといいぞ。」と語りかけ、レポートも「~~できた。○○が良かった。」というような、元気の出る、次につながるものにしたいと思います。

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卒業式

2008年03月16日 | 学校生活

    

  「卒業生と先生方」

平成19年度の卒業式が行われた。

昨年の高等部卒業生はわずか2人だった。ほとんど高等部にエスカレーター進学の中学部卒業生を合わせるから何とか体(てい)をなしていたが、本当は少し寂しいものがあった。

今年は中学部4名(全員高等部に進学)、高等部10名(5名専攻科に進学、5名就職)という盛大なものとなった。

この学校の特性として、校是の運動目標が高度過ぎるということもあり、また、全寮制で親と離ればなれになってしまうこともあって、中学1年生から入学して来る生徒さんはあまり多くない。うちの子の時も定員8名なのに3名しかいなかった。

ただ、他の学校でうまくいかないからだろうか、他の学校を中途退学して編入して来る方の方が圧倒的に多く、結局それで定員が埋まっている感じだ。

運動、生活指導が中心なので、早い時期からの積み重ねが重要だと思うのだが、もともと生徒さんによって発達の度合いは実に千差万別だから、途中入学であろうとうちの子のように中学1年生からであろうと、結果的にあまり差は無いように思う。

学業は別として、そういう意味でこの子たちの順応性はとても高いし、先生方のそういう御指導には実に卓越したものがあると実感する。ただ、ここでもまた、先生方の昼夜を分かたないご苦労には大変なものがあると改めて御礼申し上げる。

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メルマガ発刊

2008年03月13日 | 言葉・感情
昨年末からメルマガを出そうとしていましたが、何とか継続発行のめどがついたのでご報告します。

将人とつきあっていると、自己表現がいかに難しいか、いつも思います。

しかし、ふと自分が外国に行った時、また国内でも外国人留学生の方と話す時など、本来良く通じるはずの普通の日本人同士より、むしろ心が通じあえると感じるのは私だけでしょうか。言語学的に意志を通じさせることはもとより大事なことですが、その前に、もっと重要なことがあるような気がしてしょうがありません。


以下の3誌を通じて、それを極めてゆきたいと思っています。


メルモ・メルマガ「ことば」 : (携帯、パソコンとも受信可能)

あなたのたった一言で、死にたくもなり、生きたくもなる。自殺しかけた人がもう一度人生をやり直そうと思うような、そんな心の琴線に触れる言葉を集めてみました。


メルモ・メルマガ「ものは言いよう」: (携帯、パソコンとも受信可能。) 

同じ、一つの事を言うにも言い方があります。刺々しく言ってみたり、やさしく言ってみたり、言い方そのもの、間(ま)のとり方、発声法もさることながら、ここでは表現法をさまざまに変えてみます。

この試みは外国語の、特に「話す」ことにも大いに役立つはずです。直訳はやめて、まず言いたいことを日本語で言い換えてみる。次に、その中から最も翻訳しやすいものを翻訳する、というのはどうでしょうか。これなら、どこでも何とか通じさせることが出来、用事がたせます。洗練された表現であるかどうかは全く別の問題ですが・・・。


メルマ・メルマガ「マルチ言語練習帳」

ほとんど言葉の出なかった自閉症の息子が、片言の言葉を話すようになりました。父はもともと旅行好きで、全世界各国を片言の現地語で一人歩きするのが好きでした。語学の根っこは意外に簡単なように思います。(根っこだけ!奥は果てしなく広く深い!!) まずは、外国人日本語学習者用に日本語を練習して行きます。


追伸 : 発行を続けるにつれ、次第に内容が多くなり、メモリー制限の厳しいまぐまぐからの発行が難しくなりましたので、平成20年5月末からメルマより発行することにしました。したがって、以後、まぐまぐ・メルマガ「言葉の原点」は廃刊します。






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一生

2008年03月10日 | 最終章
知的障害児が知的障害者に成長し、そして高齢ともなれば、知的身体障害者となる方も出るだろう。知的障害者は就学も就職も難しかった。買い物、散歩さえままならなかった。

病気になっても病院にかかることや、介護施設に関わることも簡単ではない。ただ、高齢となったこの最後の段階では、いわゆる健常者の方もさまざまな原因で障害を持つ事が多くなる。

生まれた時は、みんな丸裸のかわいい赤ん坊で生まれた。

それがいつしか健常者と障害者という、全く別々の道を歩むようになり、全然次元の違った楽しみ、苦しみを経てその一生を過ごした。

健常者の中には、大金持ちになって長者番付に乗るような人もいただろう。篤志家として世間の尊敬を集めた人もいただろう。あるいは、人をあやめて絞首刑になった人もいたかもしれない。世界中を飛び回って、普通の人の経験できないような事をたくさんした人もいるだろう。

一般的に、障害者は地味な人生を送ることになるだろうが、二次元的、三次元的に活発な行動を繰り返した健常者と比べ、だからといって不幸せだったと誰が言えるだろうか。

それが、最後の段階では、みんな何らかの障害を持って、また合流し、最終的には畳一枚に乗るだけの、財産も何も持たない身軽な体となって黄泉の世界へと旅立つ。

一方、障害児の親としての一生を図らずも送ることとなった我々も、健常者でいて健常者でない、障害者でもないのに障害者然として暮らした日々は決して平坦ではなかった。かといって、苦しみばかりだったかというと決してそんな事はないと断言できる。はみ出ていただけだ。

ただ、かつてネロのライオンに噛み殺された、ローマの初期キリスト教徒がおそらくそうであったように、今の世の中が苦しい者ほど黄泉の国が楽しみにさえ感じる。そういう前提で、敢えてある格言を思い出す。「死の自覚だけが生への愛である。」

高度に完成された土佐光の村は、親の高齢化もあわせ、親子の人生設計、特にその最終章を考える、そのいいモデルケースとさせていただいた。
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中学校から墓場まで

2008年03月05日 | 卒業後
先日、光の村秩父校の何人かで土佐校を見学させて戴く機会があった。父兄は総勢9名、また、大変お忙しい中、秩父校の先生もお一人付き添って下さった。

以前から話に聞くところでは、両校の規模の違いは歴然としており、果たして行くべきか行かざるべきか、最初かなり躊躇した。

見学の話がかねてより父兄の一部にあったことは知っていたが、それが現実のものとなった時、「将来、秩父校でも可能なことなら見ても参考になるが、到底実現しそうにない事まで見ても、精神衛生上むしろ良くないから、見ない方がいいのではないか。」とさえ思っていた。だから、現実は他の方々に背中を押されて、「せっかくの機会だから行ってみるか!一人では行こうと思わないだろうから」という気持ちで行ってきた。

・・・・・・・。

果たして、そこはまさに知的障害者の桃源郷のような所だった。中学校から墓場までが現実のモデルケースとして存在していた。

これを、西谷先生ご夫妻は、まだ何にも世の中に、知的障害者の教育、労働、老後とかいう概念自体がないところから築き上げられたのだ・・・。実に壮大な、大プロジェクトが進行しているのだ。

子ども向けに昔、サンダーバードというテレビドラマがあった。山やプールが動いて、その下からロケットが現れ、国際救助活動に緊急出動する映像をよく見た。


山やプールという「覆い」こそないものの、海辺の道を走っていくと、山あいに忽然と学校、体育館、プール、パン工場、箱工場、乳牛牧場、竹炭焼きの釜(焼き物の登り窯みたいだった。)、通勤寮、更生施設、そしてグループホーム数軒が1本道の両側に広がり、まさに「村」、一大コミュニティーを形成していた。

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