将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

西谷英雄先生その2

2007年03月31日 | 光の村
この1年間、西谷英雄学園長先生のお話を大きな行事のたびに1時間から1時間半、聞かせていただいた。

誠に申し訳ない事で、今となっては赤面の至りだが、何回かお聞きしているうちに「長いな」、「同じような話だな」と正直言って、やや辟易していた所があった。行事に出席するにも、前日から近くに泊まる時は別だが、当日出向く場合は午前5時前に起きて、3時間あまりドライブして来ている事情もあり、気がついたらつい居眠りをしている事さえあった。

しかし、最近の光岩小学校への移転話を伺うに到り、その思いが一転した。その気迫にはいつも圧倒されっぱなしだ。

その穏やかな語り口には必ずしも似合わないような、熱い私学の思いが言葉の端々にほとばしり、そのお年を全く感じさせない、まさに青年のような、躍動感溢れるみずみずしい情熱に毎回満ちあふれておられるようだ。

親でも閉口する障害児の人騒がせな過敏性を、豊かな感受性と強引に読み直す頑固なまでの障害児教育の理想を語り、大滝に学校を構える時は、村の家々のきれいに手入れされた庭を見て「ここは教育の村だ」と確信し、即座に村長に学校設置をかけ合われたと聞く。

もうひとつの教育―土佐・光の村からの挑戦
西谷 英雄
学研

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決して過去の思い出話、栄光に満ちた偉人の自慢話でも何でもなく、この厳しい現実の中で、今現在も日夜次々に起こる問題を、それこそ日本中をはいずり回るかのように解決に奔走しておいでなのだ。

おまけに、今回はその私財を投げ打つような事までなさるとか聞いた。こんな人が本当に今の日本に実在しているんだ! 映画「筆子その愛」の中の話が、現実に目の前で進行しているのだ。

身の引き締まる思いがしたのは果たして自分だけなのだろうか。
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入学式に当たり

2007年03月30日 | 学校生活
早いもので、春休みも、もう後1週間あまりとなってしまった。4月6日(金)には帰校となる。それから、入学式の準備をして、4月11日(水)、新年度の入学式が挙行される。昨年の今頃は期待と不安が入り交じり、とても新鮮な思いがしていたものだ。

ところで、昨年、入学式を終えて、少し困った事があった。

入学式の後、保護者会があり、その時、4月から5月にかけてのパン当番を決めるのだが、新入生は慣れる意味もあって当番を2回しないといけない。ところが、そういう事があるとはつゆ知らず、スケジュール表を持って行っていなかったのだ。仕方なく、どうしても都合が悪いなら個人的にまた後で他の人に交換を頼めばいいと、とりあえず適当に決めたが、やはりみんながいらっしゃる時に決めた方がスムースだ。西武秩父から池袋までレッドアローで通う生徒は、その調整のためにもスケジュール表が役立つ。

少なくとも1学期の間のスケジュール表は持参すべきだと思う。

ところで、パン当番というのはいろんなイベント会場に行って、光の村のパンを売る当番の事だ。

先生方も手伝って下さるし、上級生父兄とペアなので、新入生父兄だからと特に困る事もないと思うが、私など「売り子」ならぬ「売りおじさん」を人生で初めてさせていただいた。少々恥ずかしかったが、とてもいい経験になった。光の村では父兄はお客さんではなく、同志であり、戦友なのだという事がよくわかった。


それでは、光の村養護学校秩父自然学園、ご入学おめでとうございます。

そして、4月11日からの新たな旅立ちに栄光あれ! Bon voyage!



追伸 :  
入学式以降しばらく親子離ればなれになります。あの日、将人を置いて帰る時、あの多動の将人には珍しく、特に暴れる訳でもなく、また外に出る事もせず、体育館2階の窓ガラス越しに厳しい顔でじっとこっちを見て、無言で見送ってくれました。わずか10日ばかりとはいえ、とても辛い別れでした。どうか、入学式までの短い間ですが、思い切り可愛がってやっておいて下さい。お願いします。


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自転車専用道路

2007年03月29日 | 余暇
先日、懸案だった長距離サイクリングに行ってきた。

入学前、将人は自転車にほとんど乗れず(というか、乗せず)、多少心配したが、予想通り入学後数カ月でもう普通に乗れるようにご指導いただき、1学期のうちに5時間半も連続走行する事までできた!

トライアスロンで155㎞も自転車に乗るのは知っていたが、中学生のうちから、しかも自転車に乗ったこともなかった将人に5時間半も連続走行させるような、こういう練習科目自体あるのを知らなかったので、なおのこと驚いた。

将人はあまり自転車に乗りたがらなかったし、また多動で、よく脱走ばかりしていたので、私の方も敢えて自転車を練習させなかったせいもあったのだが、まさか数カ月のうちにそこまでできるようになるとは本当にびっくりした。そして、逆に、私こそがそういう能力を封じ込めてしまっていたんだなと反省することにもつながった。

今では、自転車に乗るのが将人の最大の楽しみの一つになっている。


毎日マラソンや腹筋ばかりの、地味できついトレーニングでは、せっかくの春休みなのでいま一つ面白くないと、自転車での遠出を計画した。

いつも思うことだが、朝マラソンする池まで自転車で行く時も、比較的道を選んで行くにもかかわらず、結構信号は多いし、自動車の多い道路を横断せざるをえず、どうも自転車に乗った感じがしない。まるで、とぎれとぎれの、コマーシャルだらけのテレビ番組を見ているようだ。映画のように、息つく間もなく、通しで一気に、長い一つのドラマを見てみたいと思った。

ネットで調べてみると、全国に大規模自転車道というものが整備されているらしい。埼玉県だと荒川と江戸川沿いに東京湾まで数十㎞にわたってあるようだ。

実は冬休みに思い立って、野田経由で江戸川を下り始めたのだが、川沿いの土手の上なので風がとても強く、ひどく寒くて断念していた。今回は暖かそうな日を選び、先日の月曜日に行ってきた。

今度は越谷から中川沿いを、これも土手の上のほとんど自動車の通らない道路を吉川まで走り、そこから江戸川沿いの、いわゆる自転車専用道路を東京湾に向け、出発した。


寒くはなかったが、向かい風が強く、時速20㎞で行くはずが、せいぜい時速10㎞出るかどうかだ。


菜の花が咲き乱れ、河川敷では大型ラジコンヘリを飛ばす人がいたり、凧上げ、野球、サッカーに興じる人もいた。部活の合間なのだろうか、女子高生が十数人も土手の草の上で並んでお弁当を食べたりしていた。

午後2時に到達した地点には「東京湾河口まで25㎞」という標識があったが、この調子では東京湾到着は午後4時はおろか、5時近くになりそうだ。それから、Uターンしてまた越谷まで帰るとしたら、追い風に変わるとは言っても、更に3時間以上はかかる。そのため、また断念した。外環を過ぎてしばらく行った三郷の端で専用道を下り、近くのかすみストアで休憩して帰った。

それでも、往復40㎞、休憩時間も入れて計5時間のサイクリングとなった。将人は1学期にこれ以上の距離と時間乗ったが、私には既に、生まれて初めての長距離サイクリングだった。ギヤチェンジして足の負担を加減できるので、足を痛めている自分でも更に足を痛めることなく、いいリハビリになった。足がきついとは全く思わなかったが、それでも十分汗ばみ、膝がガクガク笑うのには自分でも驚いた。足よりむしろ上半身を支える肩が凝り、左親指が痛いのが意外だった。

スポーツサイクルだが、サドルだけはままチャリのそれに換えているので比較的お尻は痛くならなかった。しかし、これ以上の距離と時間、将人はもっと狭くて硬い、学校の自転車のサドルで頑張ったのだ。

まさに尊敬に値する。そして、そんな自転車を2学期以降も大好きでいること自体に感動する。

将人の新しい能力の開花を見た思いがした。


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キャラメル1個で2㎞半

2007年03月27日 | 家庭学校
いつもそうだが、帰省当日は興奮気味でなかなか寝付けない。学校ではいつも21時には寝るというのに、家では23時を回っても寝ない。パソコンをいじったり、ラジコンをいじったり、やりたい事が山とあるのだ。

何とか寝たと思っても、朝の4時過ぎにはもう起きて、大好きなウーロン茶を作って、何杯も酒盛りならぬ、お茶盛りをしたり、パソコンを始めてしまったりする。いつもは5時50分起床なので、さぞかし眠いだろうと思いきや、それからも眠い素振りを見せることなく、夜に到る。

帰省翌日の夜からは落ち着きが戻り、22時~23時就寝、6時半起床くらいになってくる。


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当初は厳格に学校と同じようにしていたが、何せ大人の生活パターンというものがある。特にうちの場合は、金曜日から月曜日まで時間を取るために、火曜日から木曜日までは昼夜兼行なのだ。長期家庭学校といえども、そのパターンは崩せない。将人の生活パターンとの折衷案として、多少妥協した上記の就寝/起床時間としている。

絵に描いた餅が結局できずに終わるより、できる範囲で妥協した折衷案を確実にする方がいいと考えている。特に夏休み明け、朝マラソンして、その後3時間のドライブで帰校中、大破するような自損事故を起こしてしまってから、本当に考えを変えた。所詮、全ては生きていてなんぼの話なのだ。
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先日の帰省翌朝は、結局、睡眠時間は実質4時間もないくらいだったが、午前6時の段階で「マラソンできる?」と聞くと、「できます。」とやる事にしている。将人はこういう所は決して仮病も使わないし、つらければつらいとはっきり言い、それなりに信頼できる。

それならと、いつも通りマラソンを始めた。1周1.2㎞のコースを4周だが、2周回った所で、いつになく辛そうにして、「強歩」と言う。(光の村では、ランニングの前段階として、競歩のことを強歩と呼ぶらしい。) やはり、そうだろうなと思い、いやその方がいいと、ここは将人の体の事を優先して、強歩で後2周して今日のトレーニングを終える事にした。

そして、いつものようにトレーニング後の休憩で、キャラメルを食べた。いつもは将人が3個、私が1個食べるのだが、今日は4周走らなかったという事で、キャラメルは2個で終わりだと言うと、「走る」と言って、また走り始めた。結局2周ランニングして、残りのキャラメル1個を食べた。

顔色が悪いわけじゃないのでドクターストップという程でもないし、実際、私が高校生の時にも徹夜明けに部活のトレーニングを普通にこなした事がある。いい事とも思わないが、本人ができるというのならそれでもいいと思った。

しかし、キャラメル1個のために、5㎞も走ったり強歩した後、また更に2.5㎞走る!!?  ここがこだわりなのだろうが、偏食のこだわりはずいぶん取れたのに、こんな所は依然として同じだ。

キャラメル1個でこんな事になったが、折れるべきだったのか、このままで良かったのか。とても悩む所だ。普通に日課がこなせない時どうするか。どこまで妥協して、どこから毅然とするかは永遠の課題だ。

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小学校のお別れ会

2007年03月25日 | 想い
将人が昨年卒業した市立小学校の特殊学級(タンポポ)では、卒業生のために毎年お別れ会を開き、そこに前年度の卒業生を招く事が通例となっている。

将人も今回呼ばれた。将人にお別れ会の事を話すと、それなりに嬉しいと見え、在校生10人あまりの名前をフルネームで言い始めた。卒業して約1年たつが、みんなの名前をちゃんと覚えているのだ!!私など、いつも顔を会わせている同僚でさえ、下の名前は覚えていない・・・。

久しぶりに小学校に向かった。給食のない低学年の頃、毎日のように寄ったうどん屋さん、登下校時にいつもからかった犬のいる家、など思い出のある所に寄るのも忘れなかった。

将人はタンポポ学級の底辺を支えていたようなものだったので、お別れ会で今の在校生に混じっても、際だってまた奇行が目立った。

ただ、2日前に準備し、数十回練習しておいたスピーチはメモを見ることもなく、とてもスムーズに、大勢のみんなの前でよどみなくとてもいい姿勢で言う事ができた。また、ゲームの時にも、ふらふらするのは以前程、目立たなかった。

というか、久しぶりの小学校で、またタンポポ学級のみんなに会うのも本当に久しぶりで、将人なりにうれしいような、恥ずかしいような、いろんな感情が沸いているようだった。

そのうれしさや恥ずかしさを普通に表現できないのだ。寝っ転がってぎっとんばったんしてみたり、鶏のようにクックックッと上半身を前後に揺すってみたり・・・・。

それが極めて奇異に見えるのだが、どう教えたらいいのか・・・? また、教えて直すようなものでもないだろうし、将人もいう事を聞かないだろうし・・・。

発症し、初めて入れて戴いた本格的な学校、それが小学校だった。

(それ以前の療育施設は時間も週1時間とか限られたものだったし、むしろついて行く方の親が自閉症の勉強をしに通うといった感じだった。幼稚園の時には、まだ発症しているという意識があまり強くなかった。)

いろんな思いがあるが、貴重な6年間を過ごした場所が地元にあるという事は何とありがたい事だろう。今でも家庭学校で帰った時、家の近くでランニングしていると決まって何人かが将人に声をかけてくれる。

あそこを中心に勉強したし、お散歩した。あそこがあってはじめて、次の、光の村があった。

越谷の家の近くだけを中心に過ごしていた将人が、今は2週間ごとに広い埼玉県を横断するように移動している。

だんだん将人の世界が広がっている。

願わくは、次は心が広がる事を!!




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光岩小跡地へ移転

2007年03月23日 | 光の村
約4年前、大滝の今の学校にドライブの途中たまたま迷い込んだのが光の村との運命的な出会いだった。昔の映画に出て来そうな木造校舎だと思ったものの、当時はあまり気にも留めていなかったが、ご縁があって子供を入学させて戴き、幸い、満足した1年を過ごさせてもらった。

入学決定に際しては、私自身がもともとあの土地と校舎自体に魅力を感じていた事が大きかった。 気持ちはアウトドア大好き人間なのに、今までなかなか時間が取れず、心底アウトドアを満喫した事がなかった。いわゆる都会生活しかした事がないのに、小さい頃から何故か田舎生活に強烈な憧れがあった。

将人の家としてこの1年間、親もあの校舎に出入りさせていただき、歴史を帯びた木造階段、高い天井、威厳を帯びた校舎の外観など、どれをとっても近代建築の安直な安普請からはほど遠い重厚感を楽しませていただいた。

そんな中、秩父市街に約15㎞近い光岩小学校跡地への移転話を聞いた。来年度改装、再来年度移転が決定したというのだ。つまり、将人が中学3年生になる年から新しい校舎で過ごす事になる。

そのため、卒業式の帰りにその旧・光岩小学校を訪ねてみた。

     
大滝とはいうが、ほとんど荒川に近い高台にあった。急な坂道を20メートルばかり上ると、いきなり大きな校庭と本当の映画のロケで使われたと聞く、いわゆる「木造校舎」が前にどーんとそびえ立っていた。歌手の村下孝蔵さんのCDジャケットにも使われたそうだ。秩父市としては文化財の指定をとりたい意向もあるとか聞いた。(この手の校舎を集めた個人サイトがあった。)

校庭の規模は今の学校の3倍弱はあるだろうか。
体育館は今のような2階部分だけの作りではなく、昨年卒業した越谷市の小学校のように1、2階吹き抜けの大きな物のように見える。
校舎自体の大きさは今とあまり変わりないように見えるが、とにかく作りが立派だ。それと、周辺にいろんな別の建物がある。

あそこだと校庭自体もかなり活用できるだろう。
また、関越から自動車で学校まで行くにしても約30分の時間の節約になる事はとても大きい。秩父市内からだと20~30分で着くだろうし、という事はたいていの関東地方から2時間台で着けるという事だ。もちろん、うちからでも2時間から2時間半で到達できるようになる。

この30分の短縮は限りなく大きい。その日の朝出発しても、余裕で学校に行き着けるという事なのだから。

もちろん、こんな卑近なメリット以外にも教育的なメリットは計り知れないだろうし、今の学校も作業所等に使う事を計画中とか聞く。末広がりの、こんないい時期に光の村の一員にならせて戴けた事は本当に有り難い。またまた光の村に感謝。

そして、私学の思いを熱く語られ、まさに私財を投げ打ってまで父兄の願いに「応えよう」とされる、西谷学園長先生の男気と、その夢にかたくななまでに邁進される、青年のような純なお気持ちに衷心から拍手させていただきたいと思う。

障害児教育の現代版「坂本龍馬」に栄光あれ!!



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中学卒業後

2007年03月21日 | 卒業後
今回卒業した中学生6人のうち、1人は光の村高等部に進まず、今度新設されたさいたま市の埼玉県立養護学校さいたま桜高等学園に入学する事になった。(5人は光の村高等部に進学。)

知的障害児の中学以降の進学先は、地元の県立養護学校、地元の市立中学校特殊学級、私立養護学校のいずれかという事になると思うが、中学卒業以降はかなり限定される。

というのも、高校は県立で、市立中学校にあるような特殊学級がないからだ。ただ、中学校まで多数整備されている知的障害者の受け皿が中学以降養護学校しかなくなるのでは、いきおい養護学校高等部がすし詰め状態となる結果となり、長らく問題となって来た。

そこで、埼玉県は平成19年度から県立高等養護学校をさいたま市と羽生市に開校する事となったそうで、それに光の村中学部3年の男子生徒が受験、合格したのだ。

光の村では生活指導を通じて算数、国語的な指導はしていただけるものの、日記以外、いわゆる時間を決めた学科の勉強がほとんどなく、仕方なく、うちでも帰省時に百マス計算、本読み等を積極的にさせているが、それでも高等養護学校の難関入試に合格できた事は値千金だと思う。

特に障害児は人それぞれで、あの子がどうだからうちの子もどうだとか、付和雷同しても意味がないが、自由度が高い事はいいことであるに違いない。

また、聞くところによると、数年後には埼玉県の県立高校にも特殊学級が併設される事になるらしい。

したがって、今の時点ではっきり言える事として、光の村養護学校中学部卒業後は

(1).光の村養護学校高等部-秩父校土佐校
(2).県立高等養護学校-さいたま市羽生市
(3).県立越谷西養護学校高等部
(4).私立若葉養護学校
(5).県立高校内併設養護学校分校
(6).県立高校定時制?
(7).私立武蔵野東技能高等専修学校
等の進学が考えられる。

もちろん、義務教育は中学で終わりなので、進学自体を考えず、個別の徒弟的な職業指導なども選択肢に挙げる事はできるだろうが・・・。

実際、この15年間ほぼ2週間おきに欠かさず通っている広島風お好み焼き店の店主が、冗談かどうか、大変有り難い事にも、食事中の話しの中で、将人を弟子にしてお好み焼きの焼き方を教えようかと漏らしてくれた事があった。

どの進路に進むかはその子その子の力量で当然違うだろうし、子供あるいは親の年齢、または家庭状況に応じて変わってくるだろう。実際、送り迎え、行事の度に学校まで往復するのはかなりきついものがあるし、経済的にも県立校に比べ数倍も負担がかかっているのだから・・・。

「小学校までのふらふらした所を何とかシャキッとさせたい」という私の強い思い入れから、今は将人も、寄宿舎生活を通じた光の村の生活指導が一番と思っている。しかし、大変有り難い事にも、先生方の昼夜を問わないご指導でだんだんそれが矯正されて来ると、次の欲が出て来るだろう。

実際さいたま桜高等学園に進学して行く子も入学時は大変だったようだが、光の村の強力なご指導の効果が大いにあり、高校まで含めた全生徒の中でもいろんな意味でトップクラスと言ってもいい子だ。その分みんな寂しいし、先生方も折角あそこまでになったのだから高校3年生のトライアスロンまでもって行きたい。「光の村教育の究極像を完成したい」という思い入れが強いに違いないと思う。

だが、そんな子でも気持ちよくみんなで送り出した。教育施設の宿命とはいえ、この事もとても気持ちのいいものだった。

桜高等養護は新設でもあるし、歴史はこれから作っていくしかない所なので、もしかしたらまた光の村に戻って来たいという事になるかも知れない。おそらく、その場合でも光の村ならまた気持ちよく迎い入れて下さるに違いないと思う。

障害者年金と親の援助あるいは保険金を頼りに何とかひっそりと生きていく道を探る事も一方では大事だが、職業を持ち、人様の援助に頼ることなく、自分で自分を養って行ける事ほど尊い事はないはずだ。

そのためにも、今、24時間、光の村で強力にご指導頂いている生活、運動教育を通じた自立訓練が全てのもとになると信ずる。




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卒業式

2007年03月19日 | 学校生活

先日、光の村の卒業式があった。

将人が昨年卒業した市立小学校は1学年100人程度の規模だったので、中高一緒とはいえ、少人数が前提の養護学校はやはり寂しい?  と思いきや、予想に反して、意外にもとても盛大だった。

運動会、文化祭もそうだったが、目的意識を同じくした集団の強みというべきなのか、人数は少ないものの、逆に少人数だからこそ知らない人はいない。

家庭事情はいざ知らず、子供の事情はおおよそわかっているので、あの学校で3年間、あるいは6年間を過ごしたという事がいかに大変だったか、そして意義ある事だったか分かりあえるからこそ、祝いあえるというものだ。

また、生徒もお祝いする人、お祝いされる人、みんな何がしら、あるいは更に何回も何かをしないといけない。大きな学校のように、手持ちぶたさにボーとしている生徒はいないのだ。みんな生き生きしていた。

おまけに式の後には生徒たちの合唱あり、先生方全員の和太鼓あり、三々五々の写真撮影あり、大変和気あいあいとしたものだった。特に、お忙しい中、いつ練習なさったのだろうか、普段太鼓と全く縁のない様に見える、木工の先生、調理の先生、事務の先生も華麗な演技を見せて下さったのにはびっくりした。   

昨年経験した小学校の卒業式と違う所は、ただ一つ父兄の余興がない事くらいだった。

急きょできる余興をもし持っていれば、自分も飛び入りできたのだろうが、酒の席でもないので変な戯れ事もできないし、かといって高級な謡や踊りもした事がない。

小学校のPTAでは、確かマスゲームのようなものをしたように思うが、光の村の父兄はみんな学校からかなり遠い所に住んでいる。集まって何かをみんなで練習する事はほぼ不可能だ。また、だからこそ、早朝に起きて卒業式に出席しているし、帰りもまた同じように長時間かけて帰るのだからあまり延々と祝賀会もできない。かくして、父兄の出し物はないという事になるのだろう。

高校3年生の二人は昨年秋のトライアスロン(スイム3km、バイク155km、ラン42.195km)を立派にやり遂げたという事で、卒業証書の他に金メダルももらっていた。   

中学3年生の6人はほとんどそのまま高等部に進学なので、あまり変わり映えしないのだが、一応けじめという事で卒業式の準主役となり、これもみんな上気していた。

卒業生入場から国歌斉唱に始まり、卒業証書授与、記念品贈呈、校長先生の式辞と、光の村らしく実に正々堂々と進行した。

来賓の方々の祝辞、西谷学園長先生の挨拶ももちろんあった。

在校生も、送辞を部分部分に分けて何人かで言った。

よその私立養護学校や授産所、埼玉県知事、秩父市長からも祝電が来ていた。県立秩父養護学校を始め公立の養護学校からは来ていなかったが、大滝小学校からは来ていた。

ちなみに、全国私立特殊教育学校連合会なるものがあり、光の村もそれに属し、特に国や県に対する補助金等の交渉では集団で事に当たっていると聞いた。

卒業生の父兄の挨拶ももちろんあったが、驚いたのは兄弟の挨拶だった。

弟、妹からの言葉として、様々な思いを込めた挨拶をしてくれた。生徒自身やその親もそうだが、えてして兄弟は、良きにつけ悪しきにつけ、目に見えない多大な影響を受けているのだ。改めて、家族全員が卒業を祝う事になるのだなと実感した。

生徒も親も先生方も、そして兄弟までもが「やり遂げた」と感慨を持って卒業を祝えるのは、心身共々みんなが一丸となって頑張る光の村こそだと思った。

そこには、教育というサービスを提供する側の学校とそれを利用させて頂く生徒側という枠を超えた、障害という、まるでエベレストのように眼前に大きくそびえ立つ、とてつもなく巨大な困難にみんなで立ち向かった「戦友」同士の共感があった。



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電車で起こしてくれた

2007年03月17日 | 余暇
家庭学校で帰って来た時でも、4日間で2回は一緒に散歩に出る。

先日も一緒に電車に乗って、近くのデパートに行った。将人は並んで座りたがらないので、いつも通路を挟んで向かい合わせ、あるいは斜交いに座る事になる。少し疲れていた事もあり、目を閉じていた。

ふと思いつき、このまま寝てしまったらどうなるのだろうかと将人を試してみる事にした。

目的地に着いても目をつむってそのまま寝たふりをしていたら、将人がつんつんと自分を指で押して起こしてくれるではないか。こんな事は初めてだった。

もちろん、そこのデパートに行きたかったという気持ちが強かったのだろう。しかし、今まではこんな時でも自分一人で降りてしまったり、そのまま通り過ぎてしまったりしていたはずだ。

はずだ、というのは、今まではこんな事を試してみようという気持ちにもなれず、いつもこっちから一緒に降りるよう促しているばかりだったからだ。

将人がまた一つ手を離れ、巣立って行った気がした。寂しいような、嬉しいような、甘酸っぱい思いがした。
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年間予定表

2007年03月16日 | 光の村
今年は3月始めにもう来年度の年間予定表が手渡された!! 確か昨年は新年度が始まる直前の3月末に初めて手渡されたように記憶している。

1月、入学をどうするかまだ迷っている時に、数回の勤務交替ならまだ何とかなるが、余りにも頻回となると仕事自体を変えざるをえなくなるので、昨年はとても気を揉んだ。

将人の学校をとるか、我が家の生活を取るかの選択だった。事実上の父子家庭にとっては、私の勤務自体が安定しないと、将人の学校生活も成り立たないのだ。

というか、結局、入学届けを出したはいいものの、年間計画が決まった時点でどうにも生活が成り立たなくなりそうなら、入学早々転校する事まで覚悟の上での提出だった。

以前は学校まで行く行事がたくさんあったそうだが、親御さんは遠方の人ばかりだという事でだんだん整理統合され、今では1~2カ月に1回でよくなったそうだ。

もちろん自主登下校ができるようになるまで、10日毎の家庭学校の送り迎えはあるものの、これは金曜日と月曜日にほぼ固定され、それがずれるのは数回、来年度の場合は3回だ。

学校まで行く行事も金曜から月曜、ほとんどは土日に予定されているので、自分のように昼夜兼行で火曜日から木曜日に仕事をまとめ、金曜から月曜までは自宅で勤務すればいいようにしている人間にとっては好都合だ。

今年度は初めての事で、職場のみんなにずいぶん迷惑をかけたが、結局何とかなった。将人の送り迎えもほぼできたし、できない時も代理の人が見つかった。また、代理の人でも何とかなるように将人自身が変わってくれた。いや、変えて下さった。学校行事も何とか参加できたし、仕事も変えなくてすんだ。収入もあまり落ちなかった。

来年度の予定表をみると、来年も何とか今の勤務体制を続けられそうだ。

いろんな意味で、親子ともども、また首の皮がつながった!
光の村に感謝!


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西谷英雄学園長先生

2007年03月15日 | 光の村
今回も高知県土佐市から西谷学園長先生が駆けつけて下さった。校長先生は秩父市に住んでおいでだが、西谷先生は遠く、土佐校のある高知県にお住まいなのだ。

とてもかくしゃくとしていらっしゃるが、聞くともう80才を超えていらっしゃるそうだ。しかし、決してお世辞でも何でもなく、どう見ても、60代にしか見えない・・・。

生徒たちの演技を見る時も、我々と同じ簡素な折り畳み椅子にしっかりと腰を据え、凛とした姿勢を最後まで崩さず、しっかりと見て下さった。父兄も含めて、あの会場の中で最も姿勢の良かった人のうちの一人だった。

お年を考えると腰痛・膝痛をはじめ、さまざまな障害を多少なりとも抱えていらっしゃるに違いないのに、無理して姿勢を正していらっしゃるかのようにさえ思えるのだが、指導者あるいは教育者を長くやっていらっしゃる方々はえてしてそういう所から「皆に教育する」本能をお持ちのようだ。慢性の腰痛を抱える自分としては、したくとも、あるいはしなくてはならなくともそういう姿勢を長くとる事はきついので、尚いっそう高貴に思える。

行事の度に約1時間、時によっては2時間弱も、立ったまま一切原稿を見る事もなく、よどみなくその教育論、光の村の歴史を語って下さる。この1年間で3~4回は聞かせて戴いただろうか。いつも少しずつ内容を変え、そのご著書「もうひとつの教育」を部分的に解説して下さっているかのようだ。(これはつい最近やっと手に入れたので、これから読むのだが・・。)

入学後約1年たち、今までは将人の変化だけに興味が集中していたが、それが一段落した今、殺伐とした日本の中で、この学校をはじめ、日本中に広がる光の村グループを障害者のために一から作り出して下さった学園長先生という人に興味が出てきた。

そのご著書は残念ながら絶版となっているが、何とかヤフオクで見つけ出し、つい先日やっと手に入れた。「もうひとつの教育/土佐・光の村からの挑戦」(昭和59年第1刷、昭和63年第4刷、学習研究社)がそれだ。とても思いが込められたご著書のようなので、読み終わるのにはしばらく時間がかかりそうだが、読み終わったらまた要点をアップさせていただこうと思う。

ところで、もとよりこの手の本はどんなに内容が良くとも、巷のベストセラーのように何十万部と部数が出る本ではなく、どうしてもある程度行き渡ってしまえばもう売れなくなり絶版、というのは仕方のない運命だ。

だが、光の村で今でもとても残念なのは、余りにも世の中に対するアピールが少ないという点だ。公的教育者に対するアピールは、ある意味同業者として、もっと言えば、必ずしも適切な言い方ではないのだろうが、商売敵(がたき)として、とても難しいのだろうが、こと障害者家庭に関しては単に「知られていないだけ」だと確信する。

そのためには、せっかくインターネットの時代になったのだ。広く世間に自己主張を、ほとんど費用をかけずにアピールできるのだから、本の内容自体をネット上に公開してもいいのではないか。先生ご自身も印税うんぬんを気にされるような方とも思えない。それより何より、公的アピールに、このご本は欠かせないように思える。
 (注1 :下記のサイトで、さわりの部分だけはそのご本を見る事ができる。)  
   http://www4.inforyoma.or.jp/~ifhikari/qanda/qmohitosu.htm  


大変申し訳ない事に、この手のお仕事はもとよりご苦労ばかりが多く、いろいろな意味で「報われない」という、残念な思いをされる事が多いのではないかとご推察する。しかし、そんな中でも、耐えて耐えて、工夫に工夫を重ねて事業を拡大し、障害者のために世間に足らないものを補って来られたのだと思う。

しかし、誠に僭越ながら、障害者関係の事業にこれでもういいという終着点はないように思える。後進の育成のため、あるいは毎年出てくる新たな障害者とその家族のために、これまでのような足を使ったアピールの他にも、マスコミ的なアピールもして戴きたいというのはインターネット世代の我がままだろうか。

自分の問題として振り返れば、私が知っている限り、日本の光の村のような施設は海外にも無いように思うので、できればこのブログを、たとえ要旨だけでも英訳してアピールして行く事を来年度の目標としたいと思う。

入学後約1年たって、1サイクルが終わり、その教育内容の紹介から一段、視点を変えた方向に進めればと思う。

そして、一年生という、いわばお客さん肌の抜けきらない段階から、まさに光の村をしょって立つ生徒と親になって行かなくてはならないのが来年度だと思う。



追伸 :
3月、4月は行事が立て込んでいてとても忙しい。明日は卒業式のため、また学校だ。午前4時半起床、5時半出発、9時半から保護者会、10時半から卒業式、食事を挟んで講話で終了となる。高校3年生の卒業生は2人だ。(中学部は6人) 2人とも昨年秋に立派にトライアスロンを完遂したと聞いた。お疲れ様でした。そして御家族共々、ご卒業本当におめでとうございます。
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凛とした姿勢

2007年03月14日 | 言葉・感情
今回の文化祭で何が一番印象に残ったかというと、それは将人の「姿勢」だ。

もちろん「合唱する」、「ハーモニカを吹く」、「和太鼓を演奏する」、「劇で演技する」、など以前は考えられないような事を立派にこなしたのは特筆すべき事なのだが、それができそうな事は1月、2月の家庭学校で練習した時にも十分予感できた。

もちろん個別の練習と実際に舞台に上がり、みんなと一緒にやる本番とはワンステップもツーステップもレベルが違う事は重々わかってはいるが、それでも敢えてそれがもう当たり前だと思えるほど、「普通の事」のように見る事ができた。

どこの学校の文化祭でも見られる、ごく当たり前の光景がそこに繰り広げられた。ここは果たして本当に養護学校なのかと、ふと自分のほっぺたをつねってみたほどだった。

養護学校の文化祭だということを除けば、逆に、世間ではあまりに当たり前の光景過ぎて、感動が少なかったと言ってもいいかもしれない。

これは、我に戻り、昨年までの事を思い出すと、まさに驚天動地の、すごい事なのだが、不思議なほど感想が湧いて来ない・・。どうしたことか・・。

先生方には、誠にもって本当に申し訳ないし、そのご努力には筆舌に尽くしがたい大変なご苦労があったに違いないのだが、もうすごいとか驚いたとかいうレベルを超えている。

それくらい、何げなく、普通の子に見えるほど立派にできた。もう次は、健常児の学校と同じく、何で感動させるか、何で笑いをとるか、そっちの方にまで期待したい・・・、と言っては言い過ぎか?

それに比し、最初から最後まで目を奪われたのは、見違えるほど変わった、その「姿勢」だ。

小学校では同じ姿勢がなかなかとれず、劇をする時でもしばしば上半身を前後に揺らして声を上げるなど、とにかくじっとできなかった。

ところが、今回、最初の合唱で舞台に上がった時、まるで昔の応援団のように、両足をやや開いて、やや上方を眺めるように胸を張った、しっかりした姿勢で最後まで歌い通した。

その後のハーモニカ演奏、劇、和太鼓演奏でも同じだった。ふらふらする事もなく、いわゆるいい姿勢を長時間保って演奏する事ができた。

あれこそは、光の村の体幹筋を鍛える教育、忍耐力をつける教育があって、初めてなせる技だと思えた。

あれほどの姿勢は健常の子たちでもついぞ最近見た事がない。

それを光の村の生徒は全員がしている!!




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文化祭とカメラ撮影

2007年03月13日 | 父兄
文化祭のご報告が大変遅くなりました。

いつもそうだが、大きな行事がすむと、食事、学校長および学園長先生の講話と続き、それが終わるとそのまま家庭学校に突入となるが、例によって家庭学校もイコール盛りだくさんの予定なので、何やかやで今までなかなか時間がとれなかった。

とりわけ運動会と文化祭は光の村の横綱級2大行事なので、ビデオも写真も撮る事となり、行事の後もその整理にとても忙しい。

現場では「撮ること」に一生懸命で、結局いつも編集する過程で初めて「よく見る」こととなる。変な流れだが、その方が味わい深いものがあるような気さえする。というのも、ただ見る事だけに専念したとしても、現場では一瞬のうちに全てがどんどん進んでしまうからだ。

ただ、こういう事をしているとついつい拍手をすべき時にもシャッターを切っている。ただでさえ多くはない観客なのだ、みんなで参加してみんなで盛り上げないといけない。最近は意識的に、撮りたい手を休めて、何とか頑張って拍手するようにしている。

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