将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

逆転移

2009年03月30日 | その他
精神分析療法の転移と逆転移・陰性転移による治療反応(negative therapeutic reaction)

シグムンド・フロイト(S.Freud)が創始した精神分析療法では、精神分析の面接場面で分析者あるいはクライエント(患者)に向けられる強烈な情動・感情の反応を『転移(transference)』という。通常の転移はクライエントから分析家(カウンセラー)へと向けられる陽性・陰性の感情であるが、分析家からクライエントに陽性・陰性の感情を向けてしまう現象を『逆転移(counter transference)』という。

分析家(カウンセラー)は陽性の逆転移感情に流されてクライエントに情愛や性的欲求を向けてはならない。同様に、陰性の逆転移によってクライエントとの面接場面を回避したり嫌悪したりすることのないように自己分析に基づくセルフコントロールを行っていく必要がある。また、クライエントの転移感情に反映される無意識的願望や欲求を、カウンセラーが満たしてあげてはならないとする精神分析の原則を『禁欲原則』という。決められた面接の場所や時間以外にクライエントに会ってはならないとするのも禁欲原則の一つとされている。

転移は、『過去の重要な人物』に向けていた愛情・好意・怒り・憎悪などの情動を、『現在の人間関係』の中で再現することによって無意識的願望を充足させようとする自我防衛機制の一つであり、精神分析的カウンセリングの進行過程でほぼ必然的に起こる現象である。

精神分析の重要な治療機序の一つが、クライエント(患者)の『転移感情の分析と過去の対人関係の受容』であり、熟達した分析家の場合にはクライエントの転移感情と自分の逆転移感情を適切に分析して欲求・情動をコントロールしながら面接を継続していくことになる。防衛機制としての転移が発動されている場合には、大抵、『幼少期や児童期にまで遡る未解決の精神的問題や課題』が残っている。

精神分析では、転移を『エディプス・コンプレックスに基づく葛藤と親子関係の再現』と考えるが、転移を起こしている時には幼児的な退行の防衛機制が見られることが多い。即ち、クライエントがカウンセラーを過去の両親と重ね合わせて見るような退行を起こすことで転移感情が生起することになる。その際には、クライエントの話し方や発現、仕草が幼稚で依存的になっていることが多く、逆転移の場合にも、カウンセラーは普段より未熟で自己中心的な認知や思考をする傾向がある。分析者となるカウンセラーが、心理療法の進展を困難にすることがある逆転移に対して自覚的である為には、面接構造の中で自分の果たす役割と立場をしっかりと認識して、過去の親子関係や感情的な葛藤を既に解決していなければならない。

過去の対人関係や感情体験を再現する転移感情には、恋愛感情・性的欲求・肯定的評価・強烈な好意などを感じる『陽性感情転移』と敵対心・憎悪・怒り・反発心・不快感を感じる『陰性感情転移』がある。どちらの転移感情も、精神分析療法の治療場面を混乱させたり、カウンセラー・クライエントの人間関係を破綻させたりする危険があるが、どちらかといえば陰性感情転移のほうが治療効果を低下させたり、面接の継続を困難にしたりすることが多い。

精神分析の治療機序を混乱させて、治療効果の発現や面接の進展を妨害する陰性感情転移に基づくクライエントの反応を『陰性治療反応(negative therapeutic reaction)』という。フロイトは晩年の『自我とエス(1923)』という著作の中で陰性治療反応について言及していて、『分析を受ける途中に、非常に変わった奇妙な態度を示すクライエントがいて、治療の進行過程が順調であると告げると、彼らは不満で不愉快な表情になり自分の精神状態を悪化させてしまう』といった表現で説明している。自己破滅的な性格特性や無意識的な罪悪感、道徳的マゾヒズムによって陰性治療反応は生じるとされるが、基本的には、自我構造の超自我の機能の過剰や行き過ぎによってこの反応が強まってくる。

精神分析療法が担う主な仕事として、『心理的葛藤を減少させること・成熟した適応的な防衛機制を獲得させること・過去と現在の心理的連続性に基づくアイデンティティの回復・良好な人間関係を作る矯正的な感情経験・治療的退行による過去の問題の清算』などがあるが、精神分析の治療過程と介入技法は複雑なのでその習得と熟練には一定以上の訓練期間やスーパーヴァイズが必要となってくる。

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渋谷マッスルミュージカル

2009年03月25日 | 体育
将人も無事中学を卒業し、高等部進学を前につかの間の、春を味わっている。

年度途中に2人転校があったが、今年度卒業生は中学、高校とも全員進学なので、その人数は減らず、来年度は新入・転入生分だけ全校生徒が増え、今までで一番の大所帯となる。新しい先生がずいぶん増える事になりそうだ。この春は先生方の移動がかなりありそうで、光岩移転を前に、いろんな意味で落ち着かない。だが、もともと障害児とその親の人生は道なき道を行く宿命にある。下手にテキスト的な道があると思う方が、現実を知った時の落胆が大きい。この移転を契機とした波乱万丈を楽しむ事としたい。

周知の如く光の村教育は体育、作業を中心としたものなので、する側に回る事が多く、一般の人のように見る側に回る事が少ない。渋谷でマッスルミュージカルというものをやっていると聞いたので、たまにはいいだろうと一緒に見てきた。

究極の縄跳び、至高の跳び箱、あふれ出る筋肉の躍動美がそこにはあった。・・・。

だが、将人たちがやっている事の延長線にあるとてっきり思って来たのだが、将人にとってはあまり興味が湧かなかったようで、最初の30分こそじっと見ていたものの、だんだん眠くなってきたようで、私の膝に顔を伏せて眠り始めてしまった。演者が汗だくになって演技している真ん前で寝ているのだから多少ばつが悪かった。

だが、また思う。

3年前、小学校卒業の時には渋谷まで電車に乗ってくる事さえ簡単な事ではなかった。今回はじっと一緒に並んで座って来られた。多少立ってあっちの窓ガラス、こっちの窓ガラスのワッペンを触る事はあったが・・。最後尾に乗ったのに、少し混んだ車内を最前列まで歩いて行ってしまったが、最前列ではじっと座っていた。「最前列車両のこだわり」はまだ残るが、うろうろする癖、他の人に触ろうとする癖、他の人の眼鏡を取って回る悪態はまるで影を潜めた。

劇場内でもじっと座る事ができた。多少独語はあったが、パフォーマンスの大音響で全然目立たなかった。立ち上がったり、奇声を上げたりする事は全くなかった。一緒に公演を楽しむ事ができた。正確に言えば、将人がおとなしく寝ていてくれた事で、私が公演を楽しめた。この事だけでも、とても大きな事だ。

帰りにも東京電力のマークのある配電盤を多少触る事はあったが、以前のように何十分もそこにしがみつく事はなく、数分間、数カ所立ち止まった程度で、気にならなかった。お散歩の相手をしてもらった程度の感覚で帰ることができた。

電車の中は往路にも増していい子で、混んだ中、うろうろする事もなく、立ったまま1時間じっとして帰宅できた。しかも、復路は最前列車両に行くこともなかった!駐車場から家に帰る車の中でも、助手席にこだわることもなく、後部座席に甘んずることがすんなりできた。情緒が安定している時にはこうも変わるのだ。

当初の思惑ははずれたが、将人の大きな成長を感じた渋谷行となった。普通に一緒に外出して、普通に帰って来られた事の意義は果てしなく大きい。

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