将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

楽器

2007年02月27日 | 言葉・感情
11月から書き始めたこのブログも、新入生の親御さん用の情報としては、もうほとんど書き尽くした感がある。もっとお知りになりたい事もあるかとは思うが、自分が現在持っている情報はこんなものだ。

新入生用にという役目を終え、閉鎖する事も考えたが、月ごとに変わる将人の様子を何か記録に残しておきたいという、まるで義務感のようなものさえ感じるようになってきた。そのため、話題に枯渇するまではしばらく続けてみようと思う。

今までは、まるで何かの論文のようにやたら長い文章が多かったが、これからは今風に短い日記風にまとめる様にして行きたい。

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将人と楽器とのつき合いはそう長くはない。幼稚園の時、はっぴを着て和太鼓をみんなで演奏したが、ほとんど二人羽織状態での演奏だった。先生が後ろにぴたりと寄り添って補助して下さったが、将人はよそ見したり、隙あらばいつでも脱走しようとしていた。

小学校では主に鍵盤ハーモニカをご指導頂いたが、あまり好きではないようだった。手がぶきっちょなのと他にやりたい事が一杯あって、関心が向かなかった感じだ。また、合唱もそうだが、集団で一緒に何かをするという事自体が苦しそうだった。

ただ、聞いてないように見えるが、その実しっかり聞いているようで、合唱の時間にみんなと一緒に歌う事はほとんどなかったものの、一人の時にその歌を口ずさむ事はしょっちゅうあった。また、嫌々ながら、鍵盤を弾く事にも慣れたらしく、家電量販店に行った時など、自分からエレクトーン売り場に行って、自分の好きなコマーシャル曲を弾いていたりして、とても驚いた。縦笛もエレクトーンも、先生に教えてもらう事は極めて拒否的だったが、自分自身で音を見つけ出し、曲にして弾いてしまう事が良くあった。

後4日で文化祭だ。去年も見学に行ったが、会場脇の駐車場にとめた自家用車から全く降りようとせず、結局、文化祭終了まで自動車の中で籠城していた。

その子が家庭学校の度に、ハーモニカが上手になり、楽譜を見ることなく、ちゃんと曲を弾ける様になって帰って来た。また、歌と劇のセリフを丸暗記して言えるようになり、手話や振り付けもこなすようになった。更には、和太鼓のポーズを得意そうに家のみんなの前でやって見せる等、大変わりした。

その文化祭が4日後にやって来る!!



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一人で帰省?

2007年02月24日 | 登下校
今回の帰省中、以前も会った事のある、20代後半の成人障害者とまた乗り合わせた。

光の村のシステムでは、帰省帰校に当たり、その障害の程度に応じて3つのグループに別れる。将人は3グループという完全な補助が必要なグループで、御花畑駅または西武秩父駅まで先生方が送って来てくださり、そこで保護者がバトンタッチして連れ帰るというものだ。2と1グループは、切符購入など一部補助のいる生徒の組と、完全な一人登下校のできる生徒のグループだ。

彼は寄居で隣の車両に乗り込み、大きな声を上げていた。内容は意味不明だが、どうも歌みたいだった。電車が停まっていると目立ったが、走り始めると電車の走行音で全くわからなくなった。秩父鉄道は単線で、20~30分間隔と便もごく少ないわりに停車時間はごく短いので、そのうち停車中の声さえも気にならなくなった。何より、秩父鉄道全線を通じて長瀞~寄居だけが観光客で一杯になるものの、大体が3つの車両全部合わせても50人乗っているかどうか程度なので、みんなのんびりしている。カリカリ来る人もいない。その観光客さえも長瀞の自然の雄大さで癒されているのか、目を三角にする人もいないようだった。彼を時折「見る」人はいたものの、正面に座っていた人さえそのまま悠然と外を眺めていたり、本を見たりしていた。

彼のいい所は、声は上げるものの、うろうろ動き回る事も全くなく、とりわけ他の乗客にちょっかい出したり、よその人をにやにや見たり、ジーと見入ったりしないことだ。そして、熊谷に着くと、網棚に上げておいた荷物を取って、颯爽と一人で降りて行った。プラットフォームにも誰が待っているという訳でもなく、おそらくまた高崎線あたりで北か南に向かうのだろう。

一人帰省を目指して、秋から秩父鉄道に変えたものの、もし将人を今、一人で帰省させたらどうなるだろうかと想像してみた。

将人はおそらく声を上げることはないものの、人に「こんにちは」と何度もしつこく声をかけたり、にやにや見入ったり、ペタペタ手で触れようとしてしまいそうだ。また、先頭車両に陣取り、ガラスを挟んで時々運転席の後ろに立ち、前を見ながら上半身を前後に揺すってみたりしてしまうだろう。

うろうろしない、人にちょっかい出さない、この2点を当面の最大の課題として適宜注意していけば、そう遠くない将来、少なくとも羽生までは一人で帰省できそうに思う。

それまでに、お互い、敢えて別車両に座って帰省してみたり、父親以外のヘルパーさんと帰省してみたり、段階的にいろんなチャレンジもしてみようと思う。



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治療から教育へ

2007年02月19日 | 想い
残念ながら、自閉症そのものには、これさえやっておけば治るという治療も特効薬も、今のところ、ないそうだ。

診断当初、たいていの病院で作業療法的な治療を組んで下さるが、一般病院は他の病気のリハビリで忙しいらしく、できても数ヶ月に1回程度と全く話にならず、とりあえずは診断書を書いてもらうだけにとどめ、うちはその治療をキャンセルした。

専門病院もある事はあるらしいが、都内でもほんの数カ所で、受診予約だけでも半年待ちの状況だった。自閉症の勉強会自体はあっちこっちで開催されており、また、病院に通えば治るというものでもないようだった。

結局、専門病院に通う事は断念し、代わりに都内にあまたある療育施設に通う事にした。うちは都合3カ所通ったが、どこも幼稚園のお遊戯に毛の生えたものをマンツーマンでして頂いたように記憶している。と言うか、子供よりむしろ発症直後で茫然自失の親のフォローをして頂いたことの方が大きかったように思う。

小学校に入ると、療育施設はぐんと少なくなり、時間的にも小学校特殊学級の先生方に頼り切る形となった。それでも、当初は一般療育施設にも通っていたが、小学校の先生方のご努力に背を向けているかのような後ろめたい感じがしたし、また、そこでして頂く療育自体もあまり特殊な事でもないような気がしたので、そのうちやめた。

それ以来、「どこかで治療してもらう」という他力本願は捨てた。

小学校特殊学級の先生方を中心とし、まず親が頑張らなくてはと言う気になった。正面から子供に取り組もうとした。

いろんな医療機関や教育/福祉施設は助けてもらう所と言うより、親が子供に教育するに際して、適宜それぞれのお得意な所をかいつまんで利用させていただく所へと認識が変わってきた。料理に例えれば、育児の味付けのために胡椒が必要ならこっち、醤油がいるならあっち、と適宜ニーズに応じて利用している感じと言ったらいいかも知れない。

いろんな事を体験させたし、いろんな所へも積極的に連れて行った。毎月どこかに一泊二日か、二泊三日で旅行した。旅の恥はかき捨てというが、旅先だとチャレンジしやすいという事もあった。家族が一丸となっていた時期だった。その頃デジカメが出てきて、将人の目に入る全てのものを写真に撮り、パソコンに入れ、「目にして、体験した物」として反復して見させた、というか、将人はパソコン好きなのでひとりでに操作を覚え、いつも見ていた。

てんかんに対して抗てんかん薬、多動・不眠に対して安定剤を飲ませてはいるが、それは料理で言えば隠し味のようなもので、特に不眠に関しては、若い力を燃焼させて疲れさせるべく、プールや長距離の散歩を自由にさせた事の方がより有効だったと思う。その意味では、光の村も全く同路線で、自分にとっては違和感がなかった。まさに私が小学校の時にしてきた事と同じような事を、更に高等にした形で教育して頂いている! いわば、光の村に行き着いた事は当然といえば当然の事だったかとも思える。

とはいえ、私はもともと発想がことごとく体育会系なのでこう言うことになったが、もとよりそういう感覚のないご家庭は判断にとても窮すると思う。そういう方はどういう判断基準で動かれるのか、自分としては何とか言いがたい・・・。

現状では王道のない障害児教育なので、これがベストだと言えるものはご自分の人生観と知識と性格で判断するしかないとも思う。

何にせよ、あの子たちの生涯を背負って、ともに生きていかなくてはならないのだから、自分が納得できるものをする事が各人のベストだと思う。

そういう意味で光の村に出会えたことは、私にとっては望外の幸せであった。


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多動・不眠と薬

2007年02月17日 | その他
自閉症自体に特効薬はないものの、薬を飲んでいる子供は多い。

うちもそうだが、よくあるパターンは、幼児期の定期検診で、「少し問題がありそうなので病院で見てもらった方がいい」と保健婦さんにまずいったんご指摘を受ける。いつになっても言葉が出ず、どうもおかしいとは思っていたが、やはりそうなのかとある意味安心したり、じゃ病気ならこれからどうなるのかと不安に駆られたり、という期間を経た後、覚悟を決めて受診する病院で、正式に自閉症の診断を受ける、というものだ。

この流れの中で、自閉症そのものに特効薬はないものの、多動、不眠、昼夜逆転などの「困った症状」に対し多少は効くかも知れないと、もしかしたら薬を処方される人もいるのかも知れない。うちの場合は、言葉が出ないという事だけで、4才の診断当時、生活そのものにはまだあまり困っておらず、そういう話にはならなかったが・・・。

ところが、だんだん大きくなって来るにつれ多動がひどくなり、小学校低学年の頃は多動真っ盛りで、昼夜逆転もひどくなった。夜中の2時や3時に起き出して、家中のテレビやラジオ、電灯をつけ、あーあーあーと叫び声を出して騒ぎっぱなしのまま朝を迎え、そのまま学校に行く事もしばしばだった。また、学校から逃げ出して、10㎞以上離れた健康ランドの温泉に入っている所を発見された事もあった。とにかく元気で、毎日10㎞、多い時は20㎞程度歩く事が日課になっていた。この頃はまさにどうにもならず、薬の力を借りる事になった。

リタリンは逆に多動がひどくなり、目も更に血走って、全く将人にはあわなかった。

薬自体を全く受け付けなかったので、無味無臭で水薬もあるセレネースを1~2年出してもらい、比較的良かったものの、量が多めの時には自然に首が後ろにねじれる、という副作用が出た。

そのうち、いい薬が出たという事で、リスパダールに変わり、今に到っている。

それまでいろいろ飲んだ安定剤の中で一番将人にあっているように思う。
まず目立った副作用がない。便秘、口渇はあるが、これは薬の量に必ずしもあまり関係なく、本来の精神的な要素も強いようで、むしろ薬を飲む事によって軽くなったと思える節もある。こだわりが若干減ったし、多動が少なくなった。

とはいうものの、飲んでいても多動だし、こだわりは依然として強く、決して十分ではないのだが、平均してみるとやはり飲んでいる方が落ち着いているように思う。
ちなみに、最近、薬の量を変えてもらったが、やはり微妙に調子が変わるので、飲み続けておいた方が、少なくとも将人の場合はいいようだ。

昼夜逆転や不眠の時のために、睡眠薬ももらったが、普通の睡眠薬では全く効かないか、逆に興奮してしまう事もあった。麻酔にも使うような鎮静剤を座薬で出してもらった事もあったが、それでも駄目だった。

そのため、とにかく体を動かして疲れさせる事にし、毎日お散歩させた。家族がつきあえる時は家族が行ったが、何せ10㎞程度歩く事になるのでとてもまともにつきあえない。お散歩に関しては、市の援助をいただき、ヘルパーさんについてもらった。

そのうちプールに行く事が好きになったので、週2~3回プールに連れて行って発散させた。といっても、将人はせいぜい犬かきで十数メートル泳ぐだけで、ほとんど水中で前転後転を繰り返して2時間が終わるというものだった。

少なくとも将人に関しては薬より、この散歩とプールで安定して夜、寝るようになったと思う。




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抗てんかん薬

2007年02月14日 | その他
自閉症自体に特効薬はないものの、薬を飲んでいる子供は多い。

将人の場合、4才の診断当時は薬を飲まそうという話は出なかった。

ところが、小学校入学直前の頃の話だ。ジャングルジムで遊んでいた時、突然多動が止んだかと思うと、自分から下に降りてきて近くに寝ころび、白目をむいて口から泡を吹き始めた。体はやや硬直していたものの、これといった痙攣はなかった。30秒程度だったか、呼吸も止まり、顔色も一時悪くなったが、その後、ゆっくりと大きな呼吸に戻って、口から吹いていた泡も止まった。特に何も吐いている訳でもなく、服とズボンをゆるめただけで、私はただ呆然と見ているだけだった。それからは、普通に寝ている状態で約1時間休んだ後、自然に起き出して、また遊び始めた。それからも数ヶ月ごとに何回かあったが、いずれも天気がとてもいい、肌寒い日で、強烈な木洩れ日がきらきら将人の近くに射していたような状況だったと思う。

知的障害児によくあると聞く、てんかんかと思い、専門病院に行って脳波を撮ってもらったら、やはりてんかんらしいという事になった。以後、抗てんかん薬のデパケンを飲む事となり、いまだにそのまま飲み続けているが、それまで数回あった発作が完全に止まり、もう5年以上出ていない。

副作用らしい副作用も出ていない。飲ませ始めた当時は、気のせいか、精神的にも落ち着いたように思った。

体が大きくなって体重が増えれば、薬も増やす事が多いと聞くが、逆に病気自体が良くなれば、だんだん減らせるとも聞く。

そのためには脳波を反復して撮らないといけないのだろうが、何せ多動がひどく、検査自体をなかなかやらせてくれなかったし、麻酔のような強い安定剤を使って撮ったのでは、脳波自体が変わってしまい、何のための検査かわからない。

血液検査で薬の血中濃度を測って、飲む薬の量を調節しないといけないのだが、採血自体がきわめて難しい状況だったので、全くしていなかった。

光の村に入学させて頂き、いろんな意味でずいぶん変わってきたので、先の秋に試しに、おばあちゃんが採血するのと一緒に採血してもらった。泣く事は泣いたが、腕を動かす事もなく、最後まで採血できた。生まれてから2回目にした採血だった。1回目は口の中のいぼを取るため全身麻酔をした際、麻酔で意識がない状態で取った8年前。そして、今度だ。実に感動的な事だった。

また一歩、普通の人に近づいたと思った。

こうして、現在のてんかんの治療がうまく行っている事はわかった。

ただ、いつ薬をやめるかは大変難しい所だ。どちらにしても、まず薬の量を変えてみて、症状なり検査なりで様子を見るという、チャレンジになるはずだ。

寄宿制で人様の所に預かって頂いている以上、そこで発作を起こす事だけは避けたい。減量、あるいはやめるとすれば、長期休暇中、または卒業後という事になりそうだ。

てんかんQ&A―こんなことも聞いていいでしょうか
藤井 正美,林 隆,長谷川 寿紀
日本文化科学社

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追伸 :
正確に言えば、将人が採血をさせたのは今回が3回目だった。光の村に入学させて頂いてしばらくたった頃、健康診断の結果として血液データをもらって初めて、中学生にも血液検査をするんだとわかった。自分が中学生の頃も健診はあったが、高校を出るまで血液検査は全くなかった。さぞかし大変だったのだろうが、慣れた先生方のお力をもってすれば、特に何という事もなく終わったという事だろう。


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日給1000円の仕事

2007年02月11日 | 卒業後
今回の家庭学校もハードだった。将人はやらせればできることがわかるに連れ、こっちも欲が出てきた所もあり、ついつい盛り沢山に教えてしまうからだ。

光の村に入学させて頂く事になった時、6年間で達成したい当面の目標についてアンケートがあった。(あまりはっきりとは覚えていないが、そういう意味のアンケートだったと思う。)

「親亡き後、たとえ施設入所となり、障害者年金と心身障害者扶養共済年金で共同生活していくことになろうとも、周囲の人様に好かれ、それなりに元気で自立した人生を全うできるような人間を作っていただきたい。」と言うような意味のことを回答したと思う。

1年前考えた事は、とにかく自立であり、仕事とか収入とかは論外で、夢のまた夢だった。ところが、光の村で約1年お世話になって、自分で寝起きし、布団の後片付け、着がえと衣服の整頓、配膳・食事・後片付け・皿洗い・調理・リンゴ剥き、一人で買い物、1語から2語文で自由に意志表現(日記)、等の見通しがつき、少し目標の上方修正が必要なのではないかと思い始めた。

今までは目標が単純なので比較的達成しやすいし、環境を整えて反復すれば何とかなった。だが、収入面でも自立し、納税者になることまで考え始めると、その厳しい現実に直面し、いきなり西部劇に出てくる開拓者のような感覚になってくる。

ヤマト福祉財団の故・小倉昌男様が著書(小倉昌男の福祉革命―障害者「月給1万円」からの脱出)の中で言っておられるが、現状では、障害者の月給は1万円あればいい方で、10万円なんて夢のまた夢なのだそうだ。しかし、月給1万円は日割りにすれば、約300円だ。土日休んで週5日働くとしても日給500円だ。いくら何でも、それくらいは遊んでいても何とかなるのではないかと思ってしまう。

厳しい現実を知らないだけなのだろうが・・・。

まずは将人自身が自立し、将人の世話がいらなくなる事が第一歩だ。
そして、仕事の内容を理解し、安定してこなせる技術と情緒の安定がその次。
そして、最後に、周りの人といい関係が保てて、でき得れば好かれるような個性を持ってくれることが理想だ。

そして、親としてはまず日給1000円稼げる仕事の創出を画策していきたい。
6年後までに何とかなるかどうか??  いや、何とかしないといけない・・・。

そして、人様におんぶにだっこされる事を無意識のうちにも期待する事を排し、逆に納税者に将人を育て上げて行く事ができれば、こんなすばらしい事はない・・・。

「納税者である障害者」、これこそが究極の理想の姿だと思う。






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病気と障害と個性

2007年02月08日 | 想い
行政・福祉・教育・医療等の分野をうろうろしていると、いろんなことを感じてしまう。今回は何が言いたいのか、読んでくださっている方にはさっぱりわからないような、全くの独り言です・・・。

居酒屋で飲んだくれが理屈も何もなく、感情的にくだを巻いていると思ってください。同じような思いをした方だけが「気持ち」を感じ取っていただけると思います。

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いつから人類が言葉を使い始めたか知る由もないが、各言語で同じような事を表現しても必ずしも一対一対応で訳語が見つからない事がある。また、似た言語であっても、同じ単語を敢えて微妙に使い分けて、似てるが故に逆に特別に注意しなければならないものもある。

週末の秩父に観光蒸気機関車が走っているが、日本語ではあれを「汽車」と呼ぶ。しかし、中国語で「汽車」は自動車の事だ。日本語の汽車は中国語では「火車」という。フランス語では「安い」という直接的な表現がなく、間接的に「高くない」などと言って安い事を表現するそうだ。日本語は長い文でも主語を良く省略するが、英語では主語が欠落する事はまずない。

同じような事を表すにも多くの言葉がある分、それぞれ違ったニュアンスが込められている。そして、このニュアンスは人によってずい分違うようで、人が年齢、地域、職業、生活環境などもろもろを背負って生きている以上、十人十色だと言っても過言ではない。

病気と障害と個性、それぞれ自閉症関係の分野でよく使われる単語である。

おそらく市役所の職員、教師、医師、言語療法士、それぞれで使い分けされるのだろうが、必ずしも統一されている訳でもなさそうだ。また、定義そのものも各分野、あるいは各個人で違うのではないか。

「障害は病気ではない。」という言葉を時々聞く。

保護者から見たら、障害も病気もどちらも似たようなもので、「普通じゃない状態」を意味し、何とか普通に近づけさせたい、近づけて頂きたいと単純に思う。

その手段として、小さい時に作業療法士にしてもらった感覚統合療法があるし、病院で「余りいい治療はないですが・・・」と気の毒そうに前置きしながら一応渡された薬物療法があり、そして最後に今回すがってきた光の村式の集団生活/運動療法(教育)があるのだと思っている。

お役所的には、この最後の「療法」を「教育あるいは指導」と言い換えるかどうかに、かなりエネルギーを使い、管轄を分けたいようだ。

また、療育各分野の方々もお互いの責任領域、あるいは縄張り確保/他分野排除のためにそれらの言葉を使い分けたいようだ。

病気と障害と個性、これらは本来アナログ的に移行していくものなのに、担当分野を決めるがためにデジタル的に、ここまではA、ここから先はBという風に突然名前が変わる・・・・。

そして、「子供の障害に困っている状況を何とかして欲しい」という親のニーズは明確なのに、はっきりした方針もないままに、やたら担当分野を分けることだけに腐心している現況・・・。

人の数が増え、個人から夫婦、親子、一族、村、市、県、国、世界と社会が広がるに連れ、分業制が当たり前のようになってくると、だんだん機械的になり、せいぜい親子レベルまでの、融通の効く、目標の明確な行動規範が薄れていくような気がする。

この言葉の使い分けによる、各分野の壁にはしばしば落胆する・・・。
まるで国境だ。昔は地域に広く散らばって仲良く住んでいた人たちも、いったん国境が策定されると、○○人と□□人に変わり、国境線には銃をもった警備兵が目を光らせる・・・。

でも、そんなことはもう小学校時代で卒業だ。今はもう、逆に、その壁に失望したら、自ら更に言い換えて、これは子供の「個性」なのだから、行政でも療育施設でもなく、親が見るべき事なのだと思うようにしている。

かつて、アメリカのケネディ大統領が就任時に「米国が自分のために何をしてくれるか問うのはやめましょう。自分が米国のために何をなしうるかを問いましょう」と述べ、この言葉に熱狂した米国の青年達が、まさに米国のためにボランティア活動(平和部隊)に続々と参加したと聞くが、その青年の気持ちに近いとも言えよう・・・。

そう思えば、他に期待しないし、期待しなければ落胆することもないのだから。

・・・・。 ある意味、これは障害児を持つ親の自立と言えるかもしれない・・・。 そして、これがあってこそ次のステップが見えて来ると信じたい。


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親子で料理

2007年02月05日 | 生活・作業
1年生はまだだが、中学校後半になると調理実習が始まるそうなので、将人にもできそうな事は今からもうやらせてみる事にした。

そして、それなら自分もできないとまずいと思い、私も最近料理を始めた。

年をとると、今まで好きだったもの(焼き肉、豚骨ラーメン、牛丼、天ぷら、豚カツ、等)もなかなか口に合わなくなり、いわゆる外食ですませようにも行く所がなくなって来た。
スーパーに行っても同じだ。出来合いのお惣菜は種類も限定されており、何より塩味はきついし、脂っこいものばかりだ。
回転寿司に行っても、以前は中トロやサーモン、えんがわ、うにが大好物だったが、今はもうカッパ巻きやしめサバ、赤貝、やや脂っこい物でもせいぜいハマチどまりだ。

ただでさえ肥満傾向なのだ。体重を軽くして将人のマラソンに少しでもまた付き合える様にしたい。
メタボリック症候群も避けないと、将人の将来はどうなるのだ。長生きするのは自分の義務でもあるのだ。

それには、自分で作るのが一番だ。

冷蔵庫にある物を見て、栄養バランスを考えながら好みのメニューが頭に浮かぶのが理想だが、その域に達するまではまだそうとう時間がかかるだろう。

だが、今はネットの時代だ。いろいろネットで探してみたら、やはりとてもいいサイトがあった。
クックパッド(http://cookpad.com/)や
goo グルメ&料理(http://gourmet.goo.ne.jp/)等は
とても参考になる。
本と違って、掲載されているレシピも膨大だし、縦横無尽に素材で検索をかけられる。食材辞典のような使い方さえできるみたいだ。そして、何より無料だ。

将人が帰省した時は、何か一品、一緒におかずを作るのを当面の目標にした。
先日はカレーを作ったので、今回の家庭学校は酢豚を作ってみた。

家庭学校はいつも盛りだくさんだが、3学期は特に文化祭の練習が加わるので時間がいくらあっても足りない。本当は豚肉を揚げるところから作ってみたいが、そこまでやるとなかなか取っつきにくくもある。今は簡単な物を数多く作って、料理を身近に感じるようにする事が大事だと思う。

そこで、今回は野菜を切って、レトルトの酢豚の素と一緒にフライパンで炒めるという手順で作った。タマネギのうす皮を一枚取った後、包丁でざくざくと大きめに切るのだが、切り方を教えてやると、タマネギが小さくなって来るにつれて持ち方を自分でいろいろと変えた。最近、こういう工夫が随所に見られ、頭を使って毎日生活しているなと実感する。

調理書に書いてあるとおり作ると、見事、立派な酢豚ができた。今回は鍋物など他にもおかずはあったのだが、自分の作った物によほど愛着があるのか、いつもはポン酢で鍋物を食べるのが大好きなのに、今日に限っては酢豚を真っ先に平らげた。

将人は食べる事はもとより、料理も大好きのようだ。次回は親子どんぶりを作ってみようと思う。

カレーの時も将人は嬉々としてじゃがいもを切っていたが、そういえば、光の村では食堂にリンゴと一緒に果物ナイフがいくつもテーブルに乗せてあった。昨年の体験入学の時、それを見てびっくりしたが、「みんな、リンゴは自分で剥くんですよ」と言われ、二度びっくりした。私はこれまで1回も自分でリンゴを剥いた事がなかったからだ。

今は普通に剥けるようになったので、将人にはまだ負けない。料理も一緒に極めて行こうと思う。



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生活/作業学習

2007年02月02日 | 生活・作業
光の村教育の三本柱は体育、生活/作業、言葉だが、家庭学校でもそれは同じことだ。家に帰るとみんな中休みでは、特にこの手の学習は後戻りしてしまう。だから、家でもやらせ続けることが重要で、学校からも休みのたびに念を押される。

体育、言葉の指導は親でもわかりやすく、家でもそれなりにできる。

だが、生活/作業というのはなかなか難しい。

というのも、こっちはちゃんと教わったことがなく、見よう見まねでやっているだけなので、「世間一般のやり方を果たして自分がしているのかどうか」極めて疑わしいからだ。「とにかくできればいいんだろ」式では学校のやり方と微妙に違った場合、将人がとても混乱する・・・。

自閉症の子はやり方をいったん教わると、ひたすら頑固にそれを踏襲する。融通も何もあったものではない・・・。ほとんどこだわりが一つ増えたようなものである。

(将来的には、その「こだわり」を仕事に結びつけられないかと模索している。それがもしできたら、こんな真面目な働き手はいないだろう。そのためにも、忍耐力育成は大事だ。)

だからこそ、学校から渡された手順書の確認が大事だ。

しかし、つい先日、衣服の畳み方を間違っていた事に気づいた。

入学以来、それなりに必死にやって来たつもりだが、あまりにやる事が多いためか、一応一番初めには手順書にも目を通したはずなのだが、もうすっかり忘れていた。服の畳み方を書いたものがあった事さえ認識していなかった。

今までは両袖をお腹の方に畳み込むように折り、胴体部分もそれに準じて前に折り畳んでいた。ところが、光の村では前に付けた名前がよく見えるように、背中側に畳む事になっていたのだ。

布団を畳む、衣服を着替え・脱いだものを畳む、簡単な食事を作る、配膳、リンゴの皮むき、姿勢を正して好き嫌いなく三角食べをする、下膳、皿洗い、掃除、靴の手洗い、下着の洗濯機洗い・脱水・干す・取り込んで畳む、等々、する事はたくさんあるが、あまりにも細かな事は手順書にも書いてない。

いろんな人のやり方がたとえそれぞれ違っていても、それなりに多くのやり方を見て学び、最後は自分流に何か一つ体得するというような、そんな健常児並みの学習を将人ができればいいのだが・・・。

仕方がないので、まず最初は将人に自由にやらせてみて、もう自分なりのやり方を頭に入れているのかどうか見極め、もしまだ教わっていないと思われれば、私のやり方を教える、という風にしている。

手始めに、帰省してくるたびに蝶結びを何回もしつこく練習している。靴ひもと浴衣の紐は自分で結べないと、締め具合の調節ができないからだ。はじめは緩くしか結べなかったが、前回からはずいぶんまともになってきた。

指が極端に不器用だったのが、学校の走り拭きや竹登りで鍛えられたのだろうか、ずいぶん動くようになって来ている事にうれしくなる。

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