将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

社会福祉セミナー(3/3)

2009年12月20日 | 施設
また、その勉強会でサイコドラマ(心理劇)というものを教えて頂きました。

普段は親、父という目線しかないのですが、自分の子供や、我々親子を脇から長年眺めている猫、あるいは隣のおばさん、担任の先生、幼稚園時代の園長先生、はたまた自宅の電話、学校の電話に扮して、アドリブでお互いが会話していくのです。

しかも、配役を順繰りに変えていく!! さっきは障害児、今度はその親、次は担任の先生、猫、玄関のドア、最後は市役所の担当官・・・・。 とても面白いですが、非常に恐ろしくもあります。

しかし、これまでの見方考え方をいったん全て捨て去って振る舞うというのには、とても新鮮なものがありました。いいカタルシスになると思いました。同じ状況なのに、立ち位置だけでずいぶん考え方、発想自体が変わるもんだなと自分でも不思議な気がしました。

私だって、今は障害児の親していますが、ほんの10何年か前までは逆の立場でした。長い人生の間では、その境は永久的なものでもないし、相互に立場が変わる事さえあり得ます。

行き詰まった時には、心許せる人たちとやってみるといいかも知れません。なるようになるし、みんな結局は同じじゃないかという気がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会福祉セミナー(2/3)

2009年12月18日 | 施設
そうした時、その方々が楽になる術(すべ)は何か。

思うに、どう考えても親より接する面積は少ないのだ。仮に施設の職員で、時間的には親よりこの数ヶ月は多く接している人でも、5年、10年、つきあうのかといえばそうでもないだろう。担当も変わるだろうし、その職場自体を離れる可能性だってある。これに比し、親は一生親なのだ。何より、時間軸、空間軸以外にも、運命共同体としてのつながりは深い。これは、逆手にとってみれば、砂時計をくるっとひっくり返す、そのわずかな時間を割いて面倒みているだけだと考え直せないものだろうか。

親でさえ匙を投げる瞬間が多々あるものの、その一方、頬ずりしたくなる愛おしい瞬間がある事も紛れもない事実だ。それもこれも全部込みの、ありのままが親子なのだ。一方、他人の関係だと客観的なものの見方ができていい反面、あまりにも客観的になりすぎて、悪い所を忘れられないかも知れない。

99%匙を投げても、わずかに1%輝く所があれば、親はその事で頭と心を満たし、嫌な99%を忘れる事ができます!

結婚前のカップルが持つ盲目的な感情に似ているかも知れません。「結婚前は両目でしっかり見なさい。結婚後は片目でぼんやり見なさい。」ということわざがありました。そのま逆です。思えば、この発想が自然に身に付いてくるにつけ、どんなにか人生が広がってきた事か。子供に感謝さえしています・・・。

今は自分のどうしようもない子供に対しそうしていますが、そのうち他の、近親者や、結局、自分自身もそうなる運命かも知れません。というか、そうなる確率の方が高いのです。「子供叱るな来た道だもの。年寄り笑うな行く道だもの。」という格言もありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会福祉セミナー(1/3)

2009年12月15日 | 施設
先日、福祉施設関係の勉強会に行って来た。

そうしたら、入職して数ヶ月の知的障害者施設の若い女性職員の方が、「利用者さんは私より4才程度しか違わない男性で、週5日、私が支援させて頂く事となりましたが、どうしても生理的に合わないので辛い。どうしたらいいのでしょうか。」と、この道40年の大先輩に聞いておられた。また、ある40代の男性は「この業界に20年いたが、もう卒業する事にしました。転職です。思うに、~~。」とこれまでの疑問、改善案等を質問という形で吐露しておいでだった。

はじめの質問に回答者は「私も職員にはカッとなったりする事があるが、こと知的障害者だとそうならないね。もうそういう関係になってしまったんだね。」と長年の、甘い辛いを知り尽くした果ての、風格のある重い言葉でゆったりと答えておられた。

しかし、もう少し蘊蓄(うんちく)を語って頂きたかったというのも、偽らざる本音だ。というのも、上記のような悩みはどの福祉関係機関でもある事で、人手不足の大きな原因になっていると思われるからだ。

実際、私の住んでいる市でも、今までお世話になっていたサポートセンターが人手不足でつい最近閉所になった。もう一つの方も近く閉所になるという。市に予算が付いて、こっちが利用者認定されていても、実際に利用させて頂くサポートセンターが存在しないという状況になってしまったのだ。国会はあって予算があっても、内閣がないという状態だ。

医療関係の、特に慢性期の「治らない」病気を担当する人たちにもよくある悩みだ。家族に押しつけられているという感じ。この人たちを支援するのは意味があるんだろうか、という素朴な疑問。もっと結果が日々残る事をしたいという、性急で純粋な向上心。楽で、もっと脚光を浴びる仕事があるのに、どうして自分はこういう仕事に就いたのだろうか、という戸惑いにも似た人生の迷い。

心を込めて仕事をしたら、目に見えてわかる結果が欲しい・・・。

障害者の介護は、まず親への便宜のため。親の安堵の表情が第一義の指標であり、喜びとして頂きたい。我々、親の方も素直に喜びを出さないといけない。医療者もそうだが、そもそも日本には変な遠慮があるような気がしてならない。せっかく人が助かる、喜ぶ仕事をしておいでなのだから、その喜びを我が仕事の喜び・やりがいとして素直に意気に感じる事があってもいいのではないかと思う。

そして、宗教的に考えられる人なら、生あるものに最後まで愛を注ぐこと、そのものを神の意志と信じ、その僕になる事が仕事の結果であり、動機。対象者に対する愛というより、神により遠隔操縦されている感じ。その神の操作に身をゆだね、栄光の来世を信じ、今を捧げる事で納得できるかもしれない。

それを、障害者そのものに結果を求めてしまうと、変わらない現状に自分の無力感を募らせるだけになるかもしれない。また、尊敬とはいかないまでも、自分の生理的許容範囲内にない人に節度をもって支援できるかどうか。親でさえも、時々その無軌道ぶりに匙を投げるのだ。まるで縁のない人が、たとえ仕事だからといっても、単なる1回限りの関係ならともかく、継続して接するのは苦しくなるのも当然といえば当然かもしれない。

そうした時、その方々が楽になる術(すべ)は何か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さあ転職だ。

2009年12月13日 | 卒業後
もう年末だ。本当に昨日始まったかのように感じる平成21年だったが、もうあと数週間でおしまいだ。今年はいろんな事があった。年賀状を書いていてしみじみそう思った。

光の村が移転した。将人が高校生になった。今回の光の村マラソンでは、多少へたった瞬間もあったが、おしなべて感動的に30㎞マラソンを淡々とこなし、3時間41分でゴールした。既に自転車は160㎞を趣味でこなすし、水泳はいまいちだが、学校ではちゃんと泳ぐと聞く。おそらくこのまま淡々とトライアスロンもこなしてしまうだろう。そう思えるほどに将人は成長した。

義務教育も終わり、卒業後が気になる歳になった。そして、すぐにでも施設を考えてもいい年齢にもなったという事だ。一方、思うような施設はないし、入りにくい。かといって、まだまだ同居できるような状態ではない。今のままでは、将人に振り回されて何にもできない。生活が成り立たないだろう。

そういう所に、ふと施設を運営する側に回る話しが舞い込んできた。

西谷先生を始め、先達の方々のご苦労は重々承知しているつもりなので、二の足を踏んでしまうが、親がしないで誰がすると、定年前に最後の力を振り絞ってチャレンジしてみる事にした。転職だ。

不安は尽きない。道なき所に道を造る事もあるかも知れない。泥道を敢えて進んで行かなくてはならないかも知れない。しかし、我々には後はないのだ。両側を断崖絶壁で挟まれた谷川岳の稜線を歩いているようなものだ。ここは、前進あるのみ。なるようになると信じたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする