goo blog サービス終了のお知らせ 

ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の履き物(1)

2021-01-26 20:09:09 | 水戸

 ぶらっと歩きで見た下駄やわらじの風景です。

 

猿田彦(姫子1 36°22'57.1"N 140°25'32.5"E4あたり)
 猿田彦は、道祖神信仰と習合して、旅の安全を守る神としても信仰されていたようです。お参りする人はわらじを奉納したようです。

 

わらじ(泉町)
 一昨年の水戸黄門まつりで見かけました。鼻緒があるだけの草履(ぞうり)と違って、かかとも固定できて、旅や、こうした神輿担ぎには向いているのでしょう。ただ、長持ちはしないようです。

 

高下駄(第一中学校 東原3-1-1)
 校内に水高資料展示室があり、そこに飾られています。かつでの水高生が、青春の熱気をたぎらせ、俗世を睥睨しつつ、高下駄を履いて市街を闊歩していたのでしょう。錚々たる卒業生群像はもっと紹介されるべきでしょう。

 

田下駄(茨城県歴史館 緑町2-1-15)
 低湿地の多い水戸には、深い泥田が多かったのでしょう、色々な田下駄があったようです。昭和30から40年頃まで使われていたと書いものもあります。終戦後の千波湖水田化の時にもきっと使われたことでしょう。

 

小林履物店(泉町3-7-21)
 この店ではショーウィンドウに下駄がたくさん並べられています。明治10年頃開店した商店だそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸の神額(6)

2021-01-25 19:59:25 | 水戸

 今回は、大明神と書かれた神額です。明神は、古代の社格の一つである「名神(みょうじん)大社」の「名神」に変わって使われるようになった言葉のようです。それが、神仏習合の考え方から、仏教側で神のことを明神と呼ぶようになったようです。明治以降の神仏分離で、明神を号する神社は少なくなったそうです。それでも、下のように時として見かけることがあります。

 

藤内神社(藤井町874)
 拝殿入口上には神額がなく、拝殿内部に、藤内大明神という横に書かれた神額がかけられています。

 

春日神社(田谷町1)
 ここは拝殿入り口上に、春日大明神という神額がかかっています。神額は、縦書きが普通のようです。

 

笠原神社(文京2-5-21)
 拝殿入り口上には笠原神社という神額がかかっています。この神額は、拝殿内部の本殿前にあります。拝殿内部の神額に、以前の神社名称がかかれていることはときどきあるようです。

 

高房神社(筑地町610)
 茨城県神社庁の神社一覧では高房神社となっていますが、グーグルマップでは高房大明神となっています。

 

見川稲荷神社(見川2-91)
 拝殿入り口上の神額です。ここはただ稲荷大明神となっています。上に見川をつけない表現が本来だったのでしょう。

水戸の神額(5)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸の戦災で焼け残ったもの(2)

2021-01-24 19:49:43 | 水戸

 昭和20年8月2日未明にあった水戸空襲ですが、B29が167機飛来して、1150tの爆弾を投下し、水戸市街の8割を焼失させ、242人が死亡したとあるそうです。しかし、死者はもっと多かったようです。7月31日に予告ビラがあったそうですが、戦時下の情勢の中で、対応はなされなかったようです。

 

孔子廟戟門(げきもん)と塀(三の丸1-6-29)
 弘道館のスローガンの一つである、神儒一致をあらわすものとして、鹿島神社と孔子廟が建てられたそうです。鹿島神社、孔子廟は焼けたそうですが、孔子廟の戟門とその両側の塀は焼けなかったそうです。

 

お稗蔵(北見町)
 徳川光圀が整備した、凶年に備えた備蓄蔵だそうです。郡村の陸田高100石につき、物成稗(ものなりひえ)といって、稗を3石の割合で納めさせたそうです。

 

彰考館門柱(義烈館 常磐町1-3-1)
 義烈館のところには、戦災前、彰考館文庫があり、「大日本史」のために集められた資料が保管されていたそうです。しかし戦災で、見川の徳川邸収蔵庫に移されていた約5%以外は焼失したそうです。焼け残ったのが写真の門柱だそうです。常磐神社の能楽殿、手水舎、神輿舎も残ったそうです。

 

旧三菱東京UFJ銀行(泉町3-2-4)
 明治42年に川崎銀行水戸支店として建築された建物ですが、戦災では、屋根や入口の車寄せが失われたそうです。現在この建物は使われていないようですが、町のシンボルとして有効に生かされることを望んでいます。

 

三の丸庁舎(三の丸1-5)
 昭和5年、昭和天皇の行幸に際して、建築中だった県庁(現・三の丸庁舎)が大本営・行在所として使用されたそうです。その後は県庁舎として使われ、戦災で被災したそうですが焼け残り、昭和29年には4Fが増築され、東日本大震災後に、3Fに戻されたそうです。今の建物の前にあった明治時代に建てられた建物も「ロの字型平面」で、そうしたスタイルの全国的に先駆的な建物だったそうです。

水戸の戦災で焼け残ったもの(1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸のお稗蔵

2021-01-23 20:27:04 | 水戸

 徳川光圀は救荒対策としてお稗蔵を各地につくったそうです。稗は米とは違い、数十年貯蔵しても、じゅうぶんに食べられるそうで、その点に着目したようです。82年目に脱穀したが、結構食べられて変質していなかったという話もあるそうです。稗蔵は簡素につくられ工事費は藩が負担、監守人を置きその給料は地元が負担したそうです。斉昭は、稗蔵を重視して、藩費をあてて充実させたそうで、民間でもそれにならった蔵がつくられたそうです。天保の大飢饉で、他藩と比べて被災の規模が少なかったのには、稗蔵も貢献したのでしょう。

 

綿引家蔵(元吉田町2192)
 たぶんこれがかつての御稗蔵の形を一番よく残しているのではないでしょうか。

 

北見町
 空襲で焼けた上市ですが、この蔵は焼け残ったそうです。木造なので、ほとんどが改修されているのでしょうが、数少ない町中に残る歴史的建造物なのでしょう。

 

大井神社(飯富町3475)
 大井神社の石段を上る途中の右側にあった、お稗蔵の跡だそうです。地元の人が移築して蔵としたそうですが、今崩れつつあるようです。写真の表示木柱は今ありません。

 

西大野区民館(西大野114)
 かつてここにお稗蔵があり、昭和59年に取り壊されて集会所区民館が建築されたそうです。

 

春日神社(下国井町1574)
 春日神社の東側にあったお稗蔵が、明治8年に国井小学校として14年間使われ、平成5年頃解体されたそうです。写真左に見えるのは春日神社の鳥居です。解説板にお稗蔵の写真があります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸藩主・徳川斉昭の歌(4)

2021-01-22 20:54:59 | 水戸

 徳川斉昭がつくった偕楽園では、現在梅が開きだしているようです。斉昭は梅が好きだったのでしょうか、梅を詠んだ和歌がたくさんあるようで、そのいくつかをご紹介します。為政者の歌ですから、どちらかというと理屈で読んでいるものが多いようですが、子供の頃から和歌の教育を受けているのでしょうから、技術は高いのでしょう。解釈はまったくいいかげんです。写真は17日に撮った、徳川ミュージアムにある斉昭お手植えの梅です。

 

残雪
春かけて 残る木陰の しら雪を さ(咲)かて(で)散(ちり)つ(積)む 花かとそ(ぞ)思ふ
 梅が咲いてから雪が降り、積もった雪は、咲かないで散った花のように見えるといった意味なのでしょう。

 


花はよ(世)に たくひ(類)もあれと さ(咲)く梅の かはかり(「香ばかり」と「これほど」との掛詞でしょう)深き 物ハなからむ
 梅に似た花は世にあるけれど、咲いた梅の香りほど深いものはないだろう

 

若木梅
万代(よろずよ)の 春までにほへ(匂え) 今年より みそむる(見初むる)園の 梅の初花
 今年から咲き出した梅の初花よ、これからも永遠に春ごとに咲き匂いなさい

 

夜梅
夢ならハ(ば) 花のすかた(姿)も 見ゆへ(べ)きを 闇はあやなし よハ(夜半)の梅か(が)ゝ(香)
 うつつの闇では梅の姿は見えないが、香りは夜も漂っている、夢なら梅の姿も見えるのだろうが

 

月前梅
さ(咲)く梅の 花はそれとも 見えわ(分)かて おほろ(朧)に霞む 春のよ(夜)の月
 春の夜の月の光を受けて、咲いた梅の花がおぼろに霞んで見える

 

行路梅
主もなき 道の行手の 梅かゝハ いくその人の 袖にしむらん
 道の先の方で咲いている持ち主もない梅の香りは、どれほど多くの人の袖にしみ込んだことだろうか

 

人々梅の木にたにさくを付るをミ(見)て
ふミ(文)好む 木とハしるくも 見えにけり 人の詞(ことば)の 花も匂ひて
 梅に下げられた言葉の花(和歌や漢詩の書かれた短冊?)もよい香りがして、梅の木が好文木ということを実感した

徳川斉昭の歌(3)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする