徳川斉昭は、4歳のときに、乳母の手で養われることを嫌い、武士といることをこのみ、それ以後は乳母を遠ざけて、二人の侍臣によって養育されたそうです。また、この年に始めて孝経を読んだそうです。
東京文京区にある弥生(現・文京区弥生)という地名は、この地にあった水戸徳川家の中屋敷内にあった斉昭の歌碑の言葉から、明治5年に「向ヶ丘弥生町」と名づけられたのが初めだそうです。その歌碑には、「ことし文政十余り一とせといふ年(1828)のやよい(3月)の十日さきみだる(咲き乱る)さくらがもとに」という前書きがあり、「名にしおふ 春に向かふが岡(向ヶ丘)なれば 世にたぐひなき はなの影かな」という歌があるそうです。この「やよい」から町名がとられたそうで、さらに、この地で発掘された土器に弥生式土器という名称が付けられたことで、弥生という地名は全国区になったようです。斉昭ゆかりとして、指折りのものの一つでしょう。写真は、そうとう前に撮った「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑(文京区弥生2-11)です。
天保9年(1838)に佐賀藩の鍋島閑叟(かんそう 直正)が小石川の斉昭を訪ねたとき、昼食とともに酒も出されたそうですが、お膳の内容はご粗末だったそうです。帰るとき斉昭は玄関の式台まで出てきて、鞍をつけた駿馬を贈ったそうです。閑叟ははじめ斉昭に感化されて、自藩の諸法を斉昭にならったりしたそうですが、後には、斉昭流からは離れていったそうです。
殖産に力を入れた斉昭は、養蜂も試みたようで、天保11年(1840)に養蜂飼育の秘伝を自分で書いて関係の家臣に渡したそうです。自身も養蜂に携わったようで、左の目を刺されてよく見えないところで書いたので推しはかって読んでくれといった文章が秘伝の末尾にあるそうです。
斉昭は神崎寺のあたりに鋳砲所を設けて、青銅製の大砲を鋳造したそうです。はじめてのことで、失敗してしまい、職人が自殺しようとしたところ、斉昭はできるまで何回も試みるようにとさとして、それを止めたそうです。2度目も失敗したところ、今度は自分も指揮するので、失敗したらそのときは自分の責任だからめげずに努力するようにといって、作業を続けさせ、その結果、翌年になってようやく大砲ができあがったそうです