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水戸のお稗蔵

2021-01-23 20:27:04 | 水戸

 徳川光圀は救荒対策としてお稗蔵を各地につくったそうです。稗は米とは違い、数十年貯蔵しても、じゅうぶんに食べられるそうで、その点に着目したようです。82年目に脱穀したが、結構食べられて変質していなかったという話もあるそうです。稗蔵は簡素につくられ工事費は藩が負担、監守人を置きその給料は地元が負担したそうです。斉昭は、稗蔵を重視して、藩費をあてて充実させたそうで、民間でもそれにならった蔵がつくられたそうです。天保の大飢饉で、他藩と比べて被災の規模が少なかったのには、稗蔵も貢献したのでしょう。

 

綿引家蔵(元吉田町2192)
 たぶんこれがかつての御稗蔵の形を一番よく残しているのではないでしょうか。

 

北見町
 空襲で焼けた上市ですが、この蔵は焼け残ったそうです。木造なので、ほとんどが改修されているのでしょうが、数少ない町中に残る歴史的建造物なのでしょう。

 

大井神社(飯富町3475)
 大井神社の石段を上る途中の右側にあった、お稗蔵の跡だそうです。地元の人が移築して蔵としたそうですが、今崩れつつあるようです。写真の表示木柱は今ありません。

 

西大野区民館(西大野114)
 かつてここにお稗蔵があり、昭和59年に取り壊されて集会所区民館が建築されたそうです。

 

春日神社(下国井町1574)
 春日神社の東側にあったお稗蔵が、明治8年に国井小学校として14年間使われ、平成5年頃解体されたそうです。写真左に見えるのは春日神社の鳥居です。解説板にお稗蔵の写真があります。


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