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水戸の見て歩き

水戸のお墓(8)

2018-08-25 20:18:10 | 水戸

芦沢信重(芦沢家墓地 青柳・了性寺跡)
 甲州の武士で武田氏滅亡後、徳川家康に仕え、武田信吉、徳川賴宣、頼房の家老などになり水戸に住んで財政を担当したそうです。生瀬の乱の鎮圧という暗い面もあったようですが、戦国期から、社会の安定した徳川時代に移ってゆく時期の行政をになった人のようです。写真のどれかが信重の墓なのでしょう。

 

亀千代丸(薬王院 元吉田町682 )
 徳川頼房の2男(母は側室の勝)で、長男が頼重(母は側室の久 高松藩初代藩主)、3男が光圀(母は側室の久)です。寛永5年(1628)に4歳で早世したそうです。五輪塔は供養のために建てたれたそうですが、光圀によって常陸太田市の瑞龍山墓地に改葬されたために、石塔は地中に埋められたそうです。昭和46年に杉の木を伐ったときに発見されて復元されたそうです。

 

真木景猶(かげつぐ)
 越前・朝倉家の一族で、元は朝倉氏だったそうですが、後に真木氏を名乗ったそうです。賴宣、頼房に仕え、3000石を与えられて家老に準じたそうです。寛永13年に徳川家光が頼房を訪ねたときには謁見もしたそうです。子供の景信は、頼房の娘・千姫をめとったそうです。マイク真木はその末裔だそうです。

 

加藤寛斎
 「水府系纂」に記載がなくて出身や経歴が不詳の人だそうです。幕末・水戸藩の抗争に巻き込まれず、50数年間、常陸太田市にあった郡奉行所に勤めた下級官吏だったそうです。植林、農業用水の維持、果樹・野菜の栽培等を奨励して農村振興に尽くす一方、清貧な生活のなかで、地元の地誌・歴史を記録し(「寛斎随筆」等)、妻とともに風雅を楽しんだそうです。埋葬された定善寺には、住持が調べたものの墓は見つからず、過去帳があるだけだそうです。写真は定善寺の山門で、寺は赤門と呼ばれているそうです。

 

菅政友(かんまさとも)
 酒門町に生まれた国学者で、少年時代に藤田東湖や豊田天功に学び、彰考館で大日本史の編集に携わったそうです。明治になって、石上神宮(いそのかみじんぐう)の大宮司となり、神社の発掘を行って、古代史を科学的に研究したそうです。その後、太政官修史局につとめて、法隆寺の再建説を発表し、それが再建・非再建論争の発端になったそうです。

水戸のお墓(7)

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