水戸徳川家12代徳川篤敬(あつたか)の長男、徳川圀順(くにゆき)は13代で、明治19年に生まれ、昭和44年に88歳で他界したそうです。明治39年に大日本史がついに完成したので、それを明治天皇に献上し、明治40年に水戸育英会設立とともに総裁になり、明治44年に徳川慶喜の娘・英子と結婚し、昭和15年に日赤の社長になり、昭和19年には貴族院議長に就任したそうです。
大正14年の普選法案成立に際して、貴族委員の多くが反対した中、圀順が属した公侯爵議員主体の火曜会は、賛成の立場をとったそうです。戦後はマッカーサー詣でをしなかったそうで、これが公職追放の一因にもなったといわれているそうです。そして、昭和42年に水戸徳川家伝来の品や書類等を公益財団法人・徳川ミュージアム(旧・財団法人・水府明徳会)に寄贈したそうです。
下は、圀順が題字を書いた碑のいくつかです。
桜川遺跡碑(桜川団地橋児童公園 河和田町)
徳川光圀が移植したサクラを復活させたことなどが刻されています。
尽誠碑(国田大橋東信号脇 下国井)
菊池謙二郎の撰文です。題字は霊誠とあります。
忠霊之碑(国田大橋東信号脇 下国井)
昭和30年に建碑されたようです。
岡田兵部墓(酒門共有墓地 酒門町330)
水戸藩家老だそうです。藤田東湖は岡田の家から帰ったところを地震で圧死したそうです。題字は三忠とあります。
大日本史編纂之碑(三の丸2-6-8)
水戸の彰考館はここにあったそうです。