
現在ハワイで演奏されている「ハワイアン音楽」の大半はトラディショナル曲の流れを汲んだ曲であり、新しく作られる曲もハワイ語の歌詞をもつフラ・ソングがほとんどと言っても過言ではないでしょう。
これに対する「ハパ・ハオレ曲」すなわち主として英語の歌詞と、場合によってはハワイ語の単語も混ぜた32小節もしくはそれにバースまで付いている「長い曲」といったところですが、最近はすっかり下火になってしまいましたね。
「Blue Hawaii」「On A Little Bamboo Bridge」そして「Beyond The Reef」などのハパ・ハオレ曲は第二次大戦直後のわが国では誰もが演奏する名曲だったのですが、最近は「青・竹・珊瑚」と多少の軽蔑の意味を持って(たぶん)語られるようになりました。
でも、現在はトラディショナル曲ばかり演奏している方々でも、もしかするとこれらの曲を「いいなぁ」と思って演奏していた時代も有ったかも知れませんね。
おもしろいことにハワイではこの3曲のうち「Blue Hawaii」と「Beyond The Reef」は現在でも盛んに演奏されるのですが「On A Little Bamboo Bridge」は知っている人が極めて少ないのです。これはひとえにわが国における大橋節夫の演奏の影響力がいかに大きかったかを物語っているのではないでしょうか。
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もともと「ハパ・ハオレ曲」のかなりのものが米本土で作られたものでした。1920年~30年代の米本土から見たハワイは滅多に行くことのできない「夢の楽園」でしたので、これに対する憧れを歌った「ハワイアン曲」が数多く作られました。
特にニューヨークのマンハッタン地区にあった「ティン・パン・アレイ」という楽譜出版社の集まった街から生まれたハワイアン曲には現在でも残っている名曲がたくさん生まれたのです。
上記の曲では「Beyond The Reef」だけはカナダからハワイに移住したジャック・ピットマンによって作られた曲ですが、ほかの2曲は米本土の作曲家が作ったものです。
もっとも「ハパ・ハオレ曲」でもハワイの作曲家が作ったものもたくさんあります。たとえばRobert Alex Anderson とかTony TodaroとMary Johnston夫妻(当時)は米本土の人にも分かり易い英語の歌詞が付いたハパ・ハオレ曲を作っていました。
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ハパ・ハオレ曲はハワイではなく米本土各地で保存されているようです。
たとえば、ここワシントン州バンクーバー市です。
ふつう「バンクーバー」と言えばカナダのブリティッシュ・コロンビアにある大都市(地図の一番上)を思い浮かべますが、ワシントン州のバンクーバーはオレゴン州のポートランド市からコロンビア川をはさんだ対岸にある都市で、ポートランド都市圏に含まれる都市なのです。
ちなみに「ポートランド」という地名はこの西海岸オレゴン州の都市が有名ですが、東海岸のメイン州にも「ポートランド市」という大きな都市があるのでバンクーバー市同様混乱しますね。
このワシントン州のポートランド市では毎年3日間にわたるハワイ文化の催しがあり、その中心のひとつが「Hapa Haole Hula Competition」なのです。
上のチラシにありますようにソロとグループそれぞれ5つのカテゴリーでフラを競うのです。
このバンクーバー市でこれだけの3日間にもわたるハワイアン関連の催しがあるのにはそれなりの理由があると思われますが、あまり深く調べていないため今のところ分かっておりません。
もしかするとこの地域にハワイからの移住者が多い、というような理由かもしれませんが・・・・
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さて、こちらハワイでは以前ですと観光客向けの音楽やフラにハパ・ハオレ曲が多かったのですが、最近はその分野にもトラディショナル曲やその流れを汲んだ現代の曲などが主流となっています。
その中でバンクーバーの催しほどの規模はないのですがハパ・ハオレ曲によるフラ・コンペティションも開催されています。
この催しを主催しているPa`i Foundationの責任者はクム・フラのVictoria Holt Takamineです。このPa`i Foundationは上記のバンクーバー市におけるハパ・ハオレの催しのスポンサーにもなっています。
Vicky (Victoria)(写真左)は有名なクム・フラの故・アンティー・マイキ・アイウ(写真右)の一門で、Pua Ali`i `Ilimaというハーラウを持っています。
この催しでの「ハパ・ハオレ音楽」の定義は「1920年代から1950年代の終わりまでに英語で書かれたハワイアン音楽」となっています。
ハワイが米国の準州(Territory of Hawaiii)となったのが1900年で正式に米国50番目の州に昇格したのが1959年なのでこの期間に作られた曲を対象にしたのでしょうが、実際にはティン・パン・アレイでもハワイでも1920年代までは「ハワイアン曲」を作っていなかったのでこのような定義になったのでしょう。
ハワイ準州(左)とハワイ州(右)の紋章です。ほとんど同じデザインであることが分かると思います。いずれにもハワイのモットー「Ua Mau Ke ‘Ea o ka ‘Aina I Ka Pono (大地の生命は正義によって保持される)」が記されています。
この言葉はIZ(イズラエル・カマカヴィヴォオレ)の歌う「Hawaii '78」 に繰り返し出てくるので耳馴染みの方も多いかと思います。
この「Hapa Haole Hula Competition & Conceet」はフライヤーにHostとして載っているHarry B. Soria (Jr.)
が重要な役割を担っているようです。
Harry Beeと自称しているソリア氏はハパ・ハオレ音楽の第一人者で、自らのラジオ番組「Territorial Aiawaves」
を37年以上も続けているだけでなく、Hana Ola Recordから古いハワイアン音楽のレコードを復刻し、詳細な解説をつけてリリースしているのです。
最近リリースされたポーリン・ケカフナのアルバムの例をご紹介いたします。
かれの放送番組「Territorial Airwaves」は毎週ひとりもしくはひとつのグループのハワイアン・ミュージシャンに焦点をあて、大変詳しい解説をつけた55分番組で、いままでどの資料にも載っていなかったミュージシャンの家族関係とか演奏グループへの参加の変遷といった解説がされるので大変勉強になります。
ハリーの父親Harry B. Soria, Srは息子と同業、というかもちろん息子のJrが父親の跡を継いだかたちですが、Jrは小さいときから父親の世界に入り込んでいたようです。
父親の若かりしころの写真と彼が活躍したラジオ局KGUの外観です。
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ハリーBの番組「Territorial Airwaves」で最近「Kilohana Kollection」という7回シリーズ番組が放送されました。
これはマノア出身のクム・フラであるキロハナ・シルヴェ
が、若いころフランスに渡りフラを指導していたのですが、ハワイに戻る際に、地元のレコード・コレクターから膨大な数の貴重なハワイアン音楽の45回転シングル盤
などをプレゼントされ、それをマノアの自宅に持ち帰ったのだそうですが、それらのほとんどが未使用に近いもので、スクラッチノイズがないという今のハワイでは絶対に得られない貴重な音源でした。
そこでハリーはこの膨大なコレクションを「Kilohana Kollection」と名づけて7回にわたって放送したのです。
これが7回の全プレイリストです。
7回合計で78曲ですので、少なくとも39枚(両面とも再生した場合)、おそらくそれ以上の枚数のシングル盤から選んだのでしょう。
私の参加しているロイヤル・グローブ・ホテルでのカニ・カ・ピラに来てくれたときのハリーとキロハナの2ショットです。
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そしてこのロイヤル・グローブ・ホテルでの演奏メンバーが上記Hapa Haole Hula & Concertでキロハナのハラウのステージのときにバックで演奏することになったのです。
キロハナのハラウ「ハーラウ・フラ・オ・マーノア」はこの催しの「クプナ部門」と「コミック・ソロ部門」にエントリーしていましたので、彼女のスタジオで顔合わせの練習をすることになりました。
マーノア(マノア)と言えばハワイ大学のキャンパスがあることで知られていますが、彼女のスタジオはその更に奥地にある「マノア・マーケットプレイスのなかにありました。
練習ではエントリーした2曲を中心に練習したのですが
キロハナが現在でもフランスを中心にヨーロッパ各地で教えていることも有って、ヨーロッパからきた生徒さんたちによる「ヴォラーレ」などのカンツォーネのフラのような珍しいものもご披露されました・
クプナ部門のエントリー曲は「マイ・イェロー・ジンジャー・レイ」というポピュラーな曲ですが、コミック・ソロ部門のエントリー曲は「サモアをもう少し見たい」
という曲ですが、タイトルは単に「語呂合わせ」をしただけであって、曲自体はサモアンではなくハワイアン曲です。
これを踊ったエイミー(左)は
当日のステージで「一位」となりました。
ちなみにクプナ部門のステージは「二位」となりました。
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さて、第13回となる今年の催しのプログラムです。
エントリーの総数がわずか16件で、ワヒネ部門が一番多く5件、ついでMs.HH(ミス・ハパ・ハオレ)が4件、クプナが3件そしてケイキとコミックが2件ずつとなっていて、カーネ部門やミックス部門にはエントリーがないというさびしさです。
このためエントリー全部で1時間20分という短時間のコンペティションで、ほかのフラ・コンペティションよりも遥かに低調の感は否めません。
さらに驚いたのはキロハナのハーラウともうひとつのハーラウだけがナマ演奏をバックに踊り、あとはすべてCDなりテープなりで踊るという「カルチャーセンターの発表会」に匹敵する(?)内容でした。
会場は由緒あるハワイ・シアターで
道路に面した裏口から入るとすぐにステージの袖になるという「街なかの劇場」ならではの構造を持っていました。
ステージではワヒネ・グループのリハーサルが始まっていました。
続いてミス・ハパ・ハオレのリハーサルです。(画面クリックで動画になります)
キロハナのハーラウのリハーサルのためにバント・メンバーもステージに上がりました。
この会の司会・進行・構成を一手に引き受けているハリーBもくわわっての記念撮影です。
リハーサルが終わって本番までを近くのバーで休憩です。
本番は舞台の袖からの鑑賞です。
まずはケイキ・グループの登場です。(クリックで動画)
次はワヒネ・グループです。(クリックで動画)
ミス・ハパ・ハオレのソロ・フラをカーテンの隙間から撮影するのは苦労します。このフラのバックはしっかりとした4パート・コーラスのナマ・バンドでした。(クリックで動画)
キロハナのハーラウのエントリー2件もおわったので一段落というところですが、ステージを降りてきたらアレン・アカカがジ・アイランダースのメンバーと控えているではないですか。
プログラムにあるように彼らとテレサ・ブライトがこの日のゲストだったのですがアレンにしっかりとスチールを聞かれてしまいました。(汗)
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今回参加してみて、つくづく「ハパ・ハオレが低調だ」と再認識いたしました。
なによりも伝統あるハワイ・シアターにもかかわらず観客が大変少なかったこと、エントリーするグループやソロが少なく、エントリーのない部門まであるという低調さです。
さらに上にも書きましたように「カルチャー・センターの発表会」のように大半がCDやテープで踊るという熱のなさもそれを象徴しています。
このままではハワイでのハパ・ハオレ・ハワイアン音楽が消滅するのは確実でしょう。かろうじて上記バンクーバーのような米本土で保存されるのかも知れませんね。
もちろん「ブルー・ハワイ」とか「ハワイアン・ウェディング・ソング(ケ・カリ・ネイ・アウではなく)」などいくつかのハパ・ハオレ曲は生き続けるとは思いますが・・・・・
ちょっと残念です・・・・・・・・・・・・・
ハパ・ハオレ音楽が大好きな私の友人もこの会を見に行き「高校の学芸会並み、もう来年は行かない!」と厳しい評価を下していました。
ハパ・ハオレの衰退を残念に思う人はまだまだ居られると思うのですが・・・・
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