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楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

西洋哲学史

2007-02-14 12:14:42 | 読書
西洋哲学史―古代から中世へ

岩波書店

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ひと月くらいかかかったか?
全く畑違いの哲学入門書
ことばが違いすぎる!2000年ひとっ飛び。しかし、なんとなく分かる。

この本を読んだ理由は、自然科学における現代のジレンマ:決定論的科学/還元論的科学=物理帝国主義と確率論的科学と複雑系科学をめぐる人間の思考の背景となった世界観をめぐる歴史を知りたいと思ったからである。地球科学はもちろん後者の中にある。

この本を読んで、この論争は実に哲学のはじまりから延々と続くものであることが伝わってくる。時代とともに、ことばを整理、定義しながら前へ前へと進んで来ていることがわかる。中世の神を巡る議論など圧倒的におもしろい。
先日の国際会議缶詰の時に、言葉の定義を巡って議論していた時、一人のアメリカ人が「科学は自然とは異なる、自然の真理、それを神と呼びたい人は読んでもいいのだがーー」と議論を展開した。この本の中の「存在」を巡る議論や、神を巡る議論はまさに、我々が知っている法則や、根本原理、そしてそれを希求している最中の科学の議論と同じである。私はこの本の中で紹介されていることばを科学上の言葉や私の中のことばに置き換えながら読んだ。すると面白いほど、伝わってくる。古代人も優れて賢かったのである。深く考えない?現代人以上であることは確実である。
この続編こそ、科学発展を受けて哲学世界へどうはね返っているのか。それを哲学者はどう俯瞰しているのか?楽しみである。
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投稿間違い

2007-02-13 23:34:22 | 生活
いやはや元、私の学生(いまはバリバリの先生)であったブログに投稿したと思っていたら、別のところへ飛んでしまった。takken1968さん、ごめんなさい。そこで現旧の他の学生諸君へ改めて彼を紹介します。彼は私がいまより2つ前にいた元の大学の漫画研究会でした。その同期の卒論で、一緒だった学生とともにビデオと漫画を導入して発表した。当時教育のためと称して購入したビデオと、せっかく漫画が書けるという得意技を最大限導入し、最新プレゼンを試みる卒論で大いに楽しんだ。いまだ研究し続けているところを素材に。今も変わらない私のモットー「全てを遊びにせよ!」をみんなで実行したまで。しかし、まじめな先生から、「神聖であるべき卒業研究でなんと不謹慎な!」という、言葉には出さないが不快な視線を私は、ずきずき感じていた。
最近その彼のブログを知ったが、なんと!プラモに凝っているという。不思議なものだ。
その大学を去ってから1年後にひょうんなことから別な大学より転がり込んだ学生が、その後卒論から大学院を経て、いまや去る大学の立派な教員。近々助教授になるという。その彼の趣味もまた、ガンダムプラモ!らしい。この二人なにやら似ている。
takkennさんは、原本「恐るべきさぬきうどん」編集執筆者。岡山讃岐うどん情報は彼に聞けば知らぬことなし。映画UDONも関係しているらしい。


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驚くべき小説ー永遠のゼロ

2007-02-12 15:30:53 | 読書
永遠の0 (ゼロ)

太田出版

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連休だというので、本屋で通りすがりに手にした一冊。
帯に記された「児玉清のひとこと」で手にしたが、やはりこれはすごい!
本当に涙を流しながら読んでしまった。
この小説の追跡者は、私らの子供たちの世代。追跡されるものは私たちの父の世代。私はその狭間の世代。
その狭間世代故に今まで分からなかったものが、目から鱗がはがれるように落ちていく。

第2次大戦の特攻の青春と、戦後のその子たちの青春、そして今の青春をつなぐ壮絶な小説である。

私の叔父は陸軍士官学校出の軍人であった。私の妻の父はまさにこの小説の舞台、九州の特攻基地の通信兵であった。
彼らは飲むと当時の青春を振り返り、軍歌を歌っていた。
私の父は、教員であった。恐らく軍国教育をし、かつ戦後教科書に墨をぬった類いであろう。
彼は周りが飲む時でも、戦争賛美には一切組していなかったかに見えた。
一度だけ、訓練中に銃の木の柄に傷をつけてしまい、死ぬほど殴られ、必死になってそれを修復したことを酔って話しているのを聞いた。
軍隊とはなんと恐ろしいところだという恐怖が私には植え付けられた。彼らは当時の多くを私ら子供に語ることはなかった。
私らも彼らが戦争で人を殺したのかどうかは、恐ろしくて聞くことは出来なかったし、彼らも語ることは決してなかった。

彼らの多くは、既に世を去った。私の父も妻の父もすでにない。
でも、この小説は、彼らの子供たちには語ることの出来なかったことでも、時間を経て孫には語ることができるようになったこと、死ぬ前に語らなければならないことを小説として訴えている。

安っぽい戦争賛美や戦争反対ではなく、戦争とは壮大な悲劇であることが圧倒的な迫力で迫ってくる。
そしてその中で守ろうとした「愛」(それすら安っぽく響く)をこんなにも見事に描き出した小説はかつてあったであろうか?

読んだ後に、本当に生きる力がわき上がってくる作品である。
私にはこの小説を斜に構えて評論する気にはなれない。


コメント (3)
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忘れていた連休

2007-02-10 21:40:34 | 生活
修士論文発表会が無事?おわった。
昼、飲んだ。夜、飲んだ。カラオケで歌った。終電が過ぎた。
大教授?ホンームレス的学生下宿にころがり込んだ。
朝、目が覚めた。そしてこの連休初日、朝から終日、学会の理事会。
そうそう、連休であることに昨日まで気がつかなかった。
ふ~。暖かい冬だね。
そして、
学会の理事会の後、「主観の○○、俺が俺がの○●、俺は俺はの○×」と言われた北の大先輩と本当に20年ぶりくらいでさしで飲んだ。
昔、ばかな人に惚れやすい自分はいつも彼のための聞き役であったようなきもするが、自分の中の「俺が俺は」を引来だされた気もする。
そして、本屋へ寄った。
久々の本屋である。
見つけた!
この連休の読者はこれだ!
(つづく)
その前に「ハワイ」不思議発見、そして昨日見逃した「チャングムの誓い」完全版を見なければ。
締め切りの過ぎたレフリー2件。
ぎゃー明日中にやらなくては、連休は日本だけだ!
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プラトンとアリストテレス(3)科学

2007-02-08 15:19:27 | 科学
プラトンとアリストテレス(3)科学
先に恋愛の卑近な例から、プラトンとアリストテレス師弟の意見の違いについて記したが、本当に言いたかったのはそのことではない。分かりやすいかな、と思ったので。
世界は変化することが本質なのか、変化しないことが本質なのかとか、ごちゃごちゃとギリシャ哲学者は議論をつづけていた。
その変化しないものが、やがて2000年後に科学の成立とともに、様々な原理や法則、保存則として確立するのだね。

そこにはプラトンが「イディア」と呼んだ究極的に一般化され、抽象化されたもの、神とよんでもいいものを追い求めていたことが背景にあった、というのが一般の理解だね。プラトンは究極の理想主義者だった。だから哲人政治などという理想の王様をいだいた国と人が一番幸せなのだ、などという議論も展開した。「ヒットラー万歳!」「スターリン万歳!」「毛沢東万歳!」「将軍様万歳!」の原点はプラトンである、というわけである。おっとまた話がそれた。

さて話は科学。科学は観察・観測、理論、実験の歯車、そして論理としては帰納法と演繹法で前へ進む。弁証法というのも論理として重要である。プラトンは理論こそ究極と言ったに等しいのである。ピタゴラス派の影響が色濃いと言われるゆえんである。ピタゴラスって、あの直角三角形のピタゴラスの定理の彼である。このプラトンの理想に支えられて、ガリレオからニュートン力学の成立、そして20世紀に入り、相対性理論や量子力学の成立を経て、破竹の勢いで科学は前へ進んだ。物理帝国主義と言われるゆえんである。そのような究極の原理を求めていけば世界のすべてが分かるはずである、それは理論の体系として完成される、というのが自然科学における還元主義の立場という。

それに対してアリステレスの立場は違う。師に対して歯向かうのである。「ちょっと待った!理想理想などより現実を見たら?それが真実じゃないの?」なんてね。彼は生物をよくよく考えていたという。そりゃ、物理のようにはいかん、と思うはずである。いまでは生物は機械のような単純なもんじゃない、と誰しも思うね。複雑だ!と。アリストテレスの立場は現実主義者なのである。自然を知る上で観察観測こそ最も大事だ!という立場はアリストテレスに近い。経験主義者といってもよい。
このような立場の違いは歴史にいつでもある。17世紀で言えば合理のデカルトと経験のベーコン。
いまでは理論、観察観測どちらも大事だね、というのが一般的見方だが、好みは違う。
それを「俺が一番!」というから相互に反発を買う。

地球科学でも同じ。とんでもない複雑なものを扱っているのだから、その両者のコミュニケーションが最も大事である。いまだ理論化されない自然そのものを描き出す観察と観測。それを帰納して規則性を描き出す。それを既存の理論でなんとか説明する。そしてシミュレーション、実験で確かめる。それがほとんどの科学。クーンの言う同じパラダイムの中の通常科学だね。プレートテクトニクスは完全なパラダイムの転換であったが、いまは完璧に通常科学の時代。
しかし、本当は説明できないものこそ面白いはず。そのつぼを見つけ出す論理が弁証法。おっとまた話がそれた。
観察観測を「時代遅れの博物分類学!」といっちゃーおしまいだね。また、理論の微細部分の構築までめざす科学を古典ニュートン物理の単なる応用、それを偉そうに「物理帝国主義者め!」といっちゃーおしまいだね。相互に自然を描き出そうと一生懸命なのだからね。仲良く問答を繰り返せば、いいのだね。かならずブレークする。

その問答館がギリシャのアカデミアであった。ただ、はじまりのソクラテスは、あまりにも「どうして?どうして?」「それはおかしい、それはおかしい」といいすぎて殺されちゃったのだね。「あんた、うざい!」とかなんとかいわれて。

さ!問答だ!
いまの日本の大学その問答が足りないぞ!
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