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「最後はなぜかうまくいくイタリア人(宮嶋勲)」という本はとてもオススメ!

2016年03月18日 01時00分00秒 | 
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 「最後はなぜかうまくいくイタリア人」という本は、現在イタリアと日本でワインと食について執筆活動を行っている著者が、その経験からイタリア人の特質について、楽しく具体的例や歴史、その根拠なども取り上げなら分かりやすく説明したものです♪

この本であげられているイタリア人の特質とは以下となります。

特にイタリア人は寄り道をしながらも今を柔軟に大切に楽しくしぶとく生き、そして寛容で、食事の時間が大切なんだなぁと思いましたね^_^)

・アポの時間は努力目標
・時間の遅れは正確なルールに基づいて遅れる
・仕事とプライベートはあえて分けない(公私混同するが私の時間に仕事が割り込んでも寛容)
・イタリア経済を支えているのは家族工房型企業
・計画は立てなくても最後は何とかする
・分業ができない(各人がなんでも屋)
・複数のことはできず、ひとつずつ作業を進めることを好む
・何事もダメもとで果敢にトライ
・人生の醍醐味は最終目的ではなくその過程、寄り道にある
・自分が嫌なことに立ち向かえないだけでなく人が嫌な思いをしたり、悲しい思い、寂しい思いをしたりするのも非常に苦手
・イタリア人の最大の特徴は寛容
・実用性より美しさ
・体裁を繕うのが好き
・イタリアの南の方は待機主義で一瞬のチャンスをとらえる集中力はすごい(まさにサッカー)
・短所は直さず長所を大事にする
・家族の結束は非常に強い
・「友人の友人」という薄いコネでも問題が解決
・しょっちゅうカップルは離合する
・食卓の時間が長く、人生のほとんどすべての問題を解決する場
・食卓はコネを広げる出会いの場
・食事を共にした相手は友達、仲間という位置づけ
・あらゆる接待の中で自宅に招くことが最高

「最後はなぜかうまくいくイタリア人」という本は、イタリア人について楽しく本質を理解でき、とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・まず第一に予定表や打ち合わせ通りに物事が運ぶなどと考えるのはイタリアでは大きな間違いで、そんなのはあくまくで努力目標のようんものでしかなく、不測の事態が起こることのほうが普通である。慌てる必要はまったくないということだ。人生は常に不測の事態の連続で、そんなことにいちいち腹を立てること自体がおかしいという哲学である。第二に、そのようなことがイタリア全体で常態化している限り、不測の事態に慌てるというのは愚の愚であり、どっしりと構えて、解決策を見出すことに全力を尽くすほうがよほど大切であるということだ。そこでイライラしても何も生まないし、むしろ事態は悪化する。不測の事態を乗り越えたときによりよい仕事ができる準備をすることこそ、重要なのだ。そして第三に、どんな不測の事態が起こってもイタリア人は諦めずに、ほとんどの場合は最後になんとかする能力があるということである。子どものころから不測の事態に慣れきっている分、それに対する対応能力が破格に高いのだ。すべてが綿密に準備され、計画通りに物事が進むことが当たり前になっている日本とは、ずいぶん異なる仕事のやり方であった。

・重要なことは、時間の遅れは十二分に予想可能で、しかもかなり正確なルールに基づいて遅れるということである。だから対応可能だし、極論をいえば、読み替えたあとのプログラムに従えばパンクチュアルですらある。友人の家に招待されたときの「20時に家に来てください」も額面通り受け取らないほうがいい。20時に行くと、向こうではまだソースの準備中といったことが多い。とくに南ではそうである。20時に来てくださいと言われたら、ミラノなら20時15~30分、ローマなら20時半~21時ごろにチャイムを鳴らすのが適当だろう。イタリア人にとって、アポの時間はあくまで数値目標である。選挙のときに出てくるマニフェストのようなもので、「この数字を目指して頑張ってみます」といった感じだ。だから「夕食20時」と言われれば、「20時に向けて頑張ってくれているけれど、おそらく20時半~21時ごろだろうな」と読めばいいのである。大学の授業でも「教授は15分遅れてくるものだ」という暗黙の合意があるので、9時開始の授業だと生徒は9時15分を目指して集まってくる。だから、万が一教授が9時に教室に来ようものなら、生徒はほとんど集まっていないし、授業を始めてから生徒がぞろぞろと教室に入ってくるという不愉快なことになる。だから教授もそんな事態を避けるために、「ちゃんと」ルールを守って15分遅れてくるというわけだ。イタリア人は時間にルーズなのではなう、建前として設定した時間と、本音として守ろうとしている時間にズレがあるだけなのである。そしてそのズレは少なくともイタリア人の間では共有されていて、社会はうまく機能している。15分から30分の遅れは、ちょうどハンドルの「遊び」のようなもので、杓子定規でない寛容な社会を、無意識のうちに生み出している気がする。

・イタリアでは、公私の区別があいまいだ。というより、公私混同が激しい。しかも、激しければ激しいほど、社会に活気が出て、皆が生き生きとしているような気がする。公共窓口では、受付の人が携帯電話で家族か友人と無駄話をしている間、サービスが停止して、長い列をつくって並んでいる人が待たされるということも普通だし、レストランでもサービスの人がおしゃべりに熱中して、客が呼んでいるのに気づかないということも珍しくない。「私語を慎む」という概念はおおよそ存在しない。思い立ったが吉日ではないが、「思い立ったときがおしゃべりタイム」なのである。笑ってしまうのは、そのおしゃべりに客も頻繁に参加することだ。本来なら待たされる側の客は、おしゃべりにより不利益を被るので、「反おしゃべり」の立場であるべきなのだが、そもそもそのようなけじめが存在していない人たちなので、いまそこにあるおしゃべりの快楽に目を奪われるのである。ただ、一方、「私」の時間に仕事が割り込んでくることにはかなり寛容である。家族経営の中小企業が多いこともあり、家族の食卓がいつの間にか営業会議になって、大いに仕事の話で盛り上がり、そこで素晴らしいアイデアが出てくるということもよくある。また、さすがに時間の概念に著しく欠けているだけあって、自らの労働時間に関しても、権利意識が低い。だから意外に残業に関しても寛容で、少しぐらい時間がずれ込んでもあまり気にしない。「あまり細かいことは言わない」人が多いのだ。

・要は働き方の問題なのである。完全に疎外された労働は苦役に陥りやすい。「公」と「私」が、「仕事の時間」と「私の時間」がうまく溶け合った労働は、生き甲斐を生みやすい。イタリア経済を支える中小企業はこのような働き方の好例である。大きな家族のようなものなので、分業の概念も明確でない。だから、「姪っ子の洗礼がある」と言えば、「明日は休みにして。私が代わりにやっておくから」となるし、仕事の話に熱中すれば、「このまま私の家で夕食を食べながら、この話を続けよう」ということにもなる。公私混同が活力を生んでいるのである。

・イタリア人が最も力を発揮して一生懸命働くのが、家族工房型の企業である。イタリア経済を支えているのもこの家族工房型で、世界的菓子メーカーのフェッレーロ、ファッションのサルヴァトーレ・フェラガモ、ベネトン、ワイナリーでいえばアンティノリやフレスコバルディなどは、世界的成功にも関わらず、いまだに家族工房的特徴を完全に保持している。

・誰が考えても1時間で終わるはずがないのに、1時間しか予定されていなかったこの会議であるが、正午に開始され、結局14時半ごろまで延長されることになる。ただイタリア人のすごいところは、無謀な計画を立てるが、それがダメだったときの対応能力と、驚異の粘り腰を持っているところである。時間が遅れようと、予約していたレストランに迷惑をかけようと、諦めないで難題をすべて解決してしまおうとするのである。そこで終わらなければ、レストランでも話を続けて、なんとしてでも終えてしまう。「食事の場で仕事の話をするのはお行儀が悪いです」なんてことを言う輩はいない。そんなことを言っていられる場合ではないのである。日本人の普通の感覚でいったら、「もう無理だから、今日はここまでにして、後日仕切り直しましょう」となってしまうところだが、イタリア人は諦めない。誰に迷惑がかかろうとお構いなしで、最後まで粘るのである。諦めが早い自分の淡泊さを反省させられ、イタリア人を尊敬してしまう瞬間である。ミラノ万博も「絶対に間に合わない」とさんざん言われたが、開幕してみればそれほどの支障もなく行われている。やはりイタリアの場合は「そんなことを言っていられる場合ではない」危機状況が常態化しているので、皆が日常的に火事場の馬鹿力を出すことに慣れているようだ。少々のことではひるまない、このしぶとさこそがイタリア最大の武器である。

・分業が進むと作業の全体像が見えなくなることも、イタリア人の労働意欲を下げる。いま自分が行っている作業が、全体にとってどのような意味があるかが見えないと、意欲がわかないのである。「全体の設計図は上の人が考えているから、あなたは与えられた仕事をちゃんと遂行することだけを考えなさい」と言われて納得できる気質ではない。だから当然イタリアは、大工場で規格化・標準化された製品を大量に生産することは苦手である。フィアットがヨーロッパを代表する自動車のメーカーになれない原因だ。一方、全体像が見えて、自分がすべての工程に関われる仕事には、驚くべき集中力を発揮する。イタリアが誇る職人芸の世界がそうである。

・均一化され標準化された安心感のある車ではドイツのフォルクスワーゲンに敵わないイタリアだが、1台1台のマシンを職人が仕上げ、それぞれが微妙に異なることが魅力のフェラーリでは、他を寄せ付けない名声を確立している。イタリアで仕事をしていると、各人の職務が不明瞭で、全員が「なんでも屋さん」のような働き方をしている企業が多い。

・複数の作業や事案を平行して同時進行させると作業効率があがり、「段取りがいい」「要領がいい」と褒められる。しかし、イタリア人はこれが苦手である。ひとつずつ作業を進めていくことを好み、複数のことを一度に依頼すると、混乱する人が多い。

・そもそも、いまするべき課題があるのに、その先のことを段取りするという発想がんおである。まず目の前の課題を片づけて、そのあとで次のことを考えましょうということだ。能率をあげようとして、平行して複数のことをしてもらおうと依頼すると、それらをひとつずつ片づけていこうとするので、かえって遅くなる。

・イタリア人は、とにかくなんにでもダメもとで果敢にトライする。相手に失礼だとか恥もかくかもしれないといった心配は、あまりしない。これは明らかに一種の才能で、私はいつも感心している。”ダメもと精神”に基づくメールをよくもらう。「5年ぐらい前に一度お会いしたのですが、今度日本に行きますので、お目にかかりたいのです。ワインを輸出したいので、輸入元を紹介してもらえませんか?」とか、「先日の講演を聞いて感銘を受けました。今度うちでもぜひ講演してください。残念ながら、ギャラも交通費も出せないのですが」といった具合である。もちろんこれを断っても、相手は別に腹を立てることもない。ダメもとでトライしているのだから。基本的に、身近にある便利なものはなんでも使おうという発想の人たちなので、コネでも、人材でも、資金でも、そこにあれば、可能であれば、それを使わせてもらおうと考える。だから、イタリア人の友人がよくとんでもなく疎遠な人に、レストランの紹介などを頼もうとする。「都合のいいときだけ急に連絡しても、冷たくあしらわれるだけだから、やめておいたほうがいいよ」と助言しても、「別に断られたとしても、失うものは何もないから」と答えて、さっそく電話している。ところが驚くべきことに、このような場合、依頼されたほうのイタリア人も、かなり寛容で親切に対応してくれることが多いのだ。自分も同じような依頼をしているので、「明日は我が身」と思うのかもしれない。皆がダメもと精神を共有しているということは、絶対に過去に成功体験があったはずで、ダメもとでぶつかってこられた相手が、かなりの確率で親切な対応をしてあげていたということになる。やはりイタリア人は優しいのである。もちろん、万が一冷たくあしらわれたり、不愉快な対応をされても、そんなことではひるまない。何も失ったわけではないからだ。だから立ち直りも早いし、またすぐに次の挑戦をしている。

・よく見かけるのは、レストランのサービスの人間や、飛行機のキャビンアテンアントが、客の前でプライベートなおしゃべりを延々と続けるという光景である。もちろんこちらが声をかけて何かを依頼すれば、すぐにおしゃべりをやめてサービスをしてくれるので、別に実害があるわけではないのだが、日本人的にはやや違和感を覚える行動ではある。このようなことが成り立っているのは、それについてクレームをつける客がいないからである。どのような場においてもそれぞれの人が好きなことをするのを許容しようというスタンスが、広く国民に共有されているのである。「好きなようにさせてあげたほうが、ちゃんと仕事をしてくれるでしょう」という感じなのだろう。極端に客を大切にすサービスというのは、客の視線に萎縮したサービスになりやすい。客が何を望んでいるか推察することよりも、クレームを受けないことを重視した、無難にマニュアル化されたサービスに走りがちである。それに対してイタリアのサービスは、基本的に友達に対する親切のような感じだ。自分も友達でいるときのようにくつろいで好きにしているが、客に対しても友達に対するかのようになれなれしく親身になってくれるのである。だからイタリアの場合はこちら側も少し馴れ馴れしく、図々しくしたほうが、しっかりしたサービスを受けられるように思う。

・リソルジメントと呼ばれるイタリアの統一と近代国家の誕生は、人民革命ではなく、サルデーニャ王国によるイタリア諸国の吸収合併という形で行われた。イタリア国家は自分たちが獲得したのではなく、サヴォイア王家がよそから来て押しつけたものという意識が、中南部イタリアには強い。それゆえ、納税義務と国民の権利がセットになった民主主義、市民文化を確立することができなかったのである。そういう点では、歴史的経緯は日本に似ているかもしれない。ただ、その結果生まれた行動パターンがあまりに異なることが、興味深く思われる。

・「いま」に100%集中できるイタリア人の能力について述べたが、これは新しい関心が出てくると、今度はそちらに100%集中することを意味する。何かをしている最中に新しい興味の対象ができると、本来の目的を忘れて今度はそちらに熱中してしまうのだ。

・最終目的はあくまで最初の一歩を踏み出す方向を示してくれる北極星のようなもので、醍醐味はその過程、寄り道にあるのである。このような経験をするたびに私が思い出すのが、古代ギリシャの叙事詩「オデュッセイア」である。イタリアではなく、古代ギリシャの英雄の話ではあるが、その精神において非常に似ているものを感じるのだ。ご存じのように、これはトロイア戦争を勝利に導いた英雄オデュッセウス「ユリシーズ)が、妃ペネロペが待つ故郷イタケーに帰ろうとするが、さまざまな苦難に遭い10年間漂泊させられるという話である。この間にオデュッセウス一行は、ひとつ目巨人キュクロープスたちに食べられそうになったり、セイレーンに難破させられそうになったり、冥界に足を踏み入れたりといろいろな冒険をする。この話で印象的なのは、なんとなくこの一行が楽しんでいるように思えるところだ。妻が待つ家に帰ろうとしているのになかなか帰してもらえない可哀想なオデュッセウスというのが本来の筋のはずなのに、むしろ妻のもとにさっさと帰らなければならないのに、行く場所に行く場所で危険な目に遭いながらも、トロイの木馬を考案した彼ならではの機知と胆力によりうまく切り抜けて、スリリングな冒険を楽しんで、「俺たちってすごいよな」と満足している男たちの話に思えるのである。実際、魔女キルケーとは1年間暮らしたうえに子供までもうけているし、海の女神カリュプソーとは7年間も一緒に暮らしている。旅の本来の目的を完全に忘れて、各地での暮らしをかなり楽しんでいるのである。故郷では妻ペネロペが求婚してくう男たちを騙しながらも、夫の帰りをひたすら待っているというのに、浮気まで何回もしているのだ。家に帰ることが目的であれば、危険な目に遭いそうな場所は避けて、万が一そんな目に遭いそうになっても、ひたすら逃避するのが賢明である。ただ、オデュッセウスはむしろ冒険を求めて、それを楽しんでいるようだ。帰宅することが目的でスタートした旅だったのに、途中に興味深いことがあると各地でそれに熱中してしまい、気づいたら、本来なら数週間で帰れたはずの帰路なのに、10年経ってしまいましたというような印象を受けるのである。ただ、その代わりに、その10年はワクワクするような冒険の連続で、3000年近く経った今でも全世界で語り伝えられているほど「充実した」(?)旅になった。まっすぐ家に帰っていたのでは、この旅は誰の記憶に残ることもなかっただろう。私にはオデュッセウスが悲劇の英雄というよりも、妻が待つ家にさっさと帰らなければならないのに、バルをはしごして、友人たちと冗談を言ってじゃれ合いながら、なかなか帰宅しないイタリア人男性に見えてくるのである。本来の最終目的に拘泥することなく、その瞬間に面白そうに思えることに熱中して、いまを生きる。だから人生が寄り道をくり返し、ジグザグに進むのだ。オデュッセウスは「寄り道こそが人生だ」の哲学を具現化しているように思える。

・このような行動パターンは、世界におけるイタリア移民の数の多さとも関係している。イタリア移民は世界中に数多くいるが、その多くは「出稼ぎ」に行って、結局定住した人たちだ。もともとは出稼ぎが終わったら故郷に帰るつもりであったが、出稼ぎ先で破格の対応能力を発揮してしまい、現地にうまく馴染んで、結局そこで家族をつくり、その国の住民になってしまうのだ。行った先の生活に熱中してしまい、気づいたら帰国することを忘れて何十年が経っていたというパターンが多い。結局どちらが幸せだったのかは誰にもわからないが、「早く故郷に帰りたい」と思い続けた数十年ではなく、帰国を忘れるぐらい熱中できる人生であったことはたしかだろう。

・日本では、子供のころから脱線や寄り道はよくないことだと教えられて育つ。小学校でも少しでもわき道にそれる生徒がいると、「いまは何をする時間ですか?」と本の道に戻るよう先生に叱られたものだ。下校時には先生が「寄り道しないで、まっすぐ家に帰りなさい」とプレッシャーをかけた。下校時の寄り道ほど楽しい経験はないにもかかわらずだ。その結果私たちは、目的遂行能力は高いが、その過程を楽しむことができない、というよりも、それを楽しむことに罪の意識を持つようになってしまったような気がする。本来の目的を忘れて寄り道に熱中する。しばしばそこから非常に面白い経験や発想が生まれる。イタリア人は、事務遂行能力は低いが、発想とアイデアは抜群だとたたえられる。そのような卓越した思いつきは、彼らの得意技である寄り道や脱線から生まれているのかもしれない。

・イタリア人は、自分が嫌なことに立ち向かえないだけでなく、人が嫌な思いをしたり、悲しい思い、寂しい思いをしたりするのも非常に苦手である。

・イタリア人の最大の特徴は何かと問われれば、それは寛容であることだと答えるだろう。イタリア人はたいていのことを簡単に許してしまう。正論と不寛容が強く結びついているフランス人と対照的である。イタリアで驚くのは、お金を持ち逃げするとか、借金を踏み倒すとか、致命的と思われる問題を起こした人が、数年で何もなかったかのように復活していることである。皆もそんな過去には触れないようにして、「彼にも事情があったんだろう」とか「生きていくためにはいろいろあるから」などと変に理解がある。私などは「どんな事情があったにせよ、お金を持ち逃げするのはダメだろう」と考えるのだが、イタリア人はそうは思わない。その場しのぎでなんとかしようとする人に対しては非常に寛容なのである。だから少々の過ちを起こしても、「彼も反省しているのだから」と、たいていは2、3年で許してもらえるのである。イタリア人は心の広い国民だと思われるかもしれないが、残念ながらこのような態度は、事態を何も改善しない。イタリアの町、とくにローマで目立つのが、路上の子どもたちによるスリである。日本人観光客もしょっちゅう被害に遭っている。私などはもっとちゃんと取り締まるべきだと考えるのであるが、イタリア人はなぜか寛容だ。「可哀想にあの子たちも生きていかなければならないのよ」とか、「やりたくてやっているわけではないから、やむにやまれぬ事情があるんだろう」などと同情的である。だから警察の取り締まりもどこか中途半端で、結局、観光客は被害に遭い続ける。

・「美しさ」へのこだわり、「見た目」のこだわりも、イタリア人は破格である。イタリア製品について、「デザインはすばらしいがすぐ壊れる」とか「見た目はいいのだが、一度洗濯すると色落ちする」などの苦情をよく聞くが、確かに実用性よりも、美しさや見た目を重視している面はあるかもしれない。しかしこれが優れたイタリアデザインの源になり、美しい田園風景を保持することになり、イタリアが観光大国として成立している基盤となっていることも否定できいない。やはイタリア人はセンスがいいのである。

・イタリア人は厳しい規則が大好きだというと、多くの人が不思議そうな顔をする。ただ、これは事実である。もちろん最初から守るつもりはない。だから、規則は厳しければ厳しいほど、「格好いい」のである。ある意味、自分たちの活動を飾ってくれる美辞麗句のようなものという感覚なのだろう。「私たちはこんなにも厳しい規則のもとでやってるんですよ」と胸を張りたいのだ。

・イタリア人は体裁を繕うのが好きである。内容を充実させることよりも、外の装いにこだわることが珍しくない。会社があまりうまくいっていないのに順風満帆のように喧伝するとか夫婦関係が破綻しているのに円満を装うとかである。この根にはローマ・カトリックの影響があり、話はちょっとややこしい。カトリック教会は清く正しい生き方を説き、良き夫、良き妻、良き子、良き経営者、良き職人などであることを説いた。もちろん皆がそうなれれば問題はないのだが、皆が聖人君子なわけではないので、それらの教えを破る人が出てくる。ただ、そのときに教えを破った側も、教会側も、問題を追求して事を荒立てることは不利と考えて、目をつぶり、体裁だけを繕うことを選んできたというのである。だから、とりあえず体裁さえ繕えば、何をしてもいいという偽善モラルが根付いたという。典型的な例として挙げられるのが、有名なルキノ・ヴィスコンティの映画「山猫」の最初のシーンである。バートランド・カスター演じる主人公のサリーナ公爵が、家族と祈りを捧げている。いかにも敬虔なカトリック一家といった感じである。サリーナ公爵は大貴族なので、ミサを行っているのはお抱え神父である。そしてこの敬虔な公爵はミサのあと、神父を引き連れて街へと出かける。どこへ行くのかというと、愛人の家に行くのである。敬虔なカトリック信者としてミサに参加し、真剣に祈って、体裁を繕ったので、これで心おきなく愛人のとことに行けますというわけだ。イタリアではこのようなダブル・スタンダードの偽善をよく見かける。私の友人は愛人が何人もいるが、彼は日曜の朝は必ず妻と子どもたちを連れて教会のミサに参加し、そのあとは家族仲良く昼食をとる。家庭の良き父を演じきっているのである。これで彼は、月曜日から安心して愛人のところに行けるのである。

・イタリアの場合、経験的に下手にあがくよりは、待っていたほうがうまくいくことも多いような気がする。不確定要素が多い中で必死に計画を立てて、その通りにいかずイライラするよりも、何もしないで、体力の消耗を抑えて、感覚を研ぎ澄まして、大きなチャンスが訪れたときにそれを逃さないようにしたほうがいい場合も多いのだ。変に動き回って疲労していたのでは、大切なチャンスを逃す恐れがある。たしかに南の人は、一瞬のチャンスをとらえる集中力はすごいような気がする。それまで何もしていないから、力が余っているのだろう。緻密な計画を立ててそれを遂行するということは、それ以外の可能性をつぶしてしまう可能性がある。訪れてくれるであろう多くの幸運の女神を、あらかじめ拒否してしまう恐れがあるのだ。だから心を無にして、フリーハンドで、アンテナだけを敏感にして、その時々のチャンスをつかまえていく。このような生き方は、ちょうど奇跡が上から運よく降ってくるのを待つのと同じで、かなり他人任せである。だから、努力するよりも祈るという方向に走りやすい。努力しても報われる可能性が低い社会では、間違っていない人生処方だ。

・イタリアで絶大な人気を誇るサッカーこそ、まさにこの「待機主義」型スポーツの典型ではないだろうか。サッカーのゴールは小さな努力地道に積み重ねて実現されることよりも突然降ってわいた幸運をうまくつかまえた場合に実現されることが多い。幸運がかなりの割合を占めるゲームなのである。

・イタリア人に短所を直そうという発想はあまりない。私から見れば直すべき欠点と思えるようなことでも、それはその人の個性ととらえてあげるのである。「彼はいつも時間に遅れるけど、そういう人なのよ」とか「妻は見栄っ張りで浪費家だけど、仕方ないから」とか非常に寛容である。もちろん一度か二度は注意するのだろうが、それで直らなければ、「そういう人だから」で落ち着く。だから別れようという話にはならないのである。その理由は、短所を上回る長所を見つけて評価するのがうまいからだ。「いつも時間に遅れるけど、必ず素敵なレストランに連れていってくれるから」とか、「いつも綺麗で魅力的だから」といった具合だ。確かに人間は、好きなことだけをやらせておくとその才能は伸びるだろう。一方バランスのとれた総合的プレイヤーのような人材を養成しようとすると、欠点を矯正する必要があり、均一な規格品的人材を養成してしまう恐れがある。個性を伸ばす教育ということがよく議論されるが、それはある意味欠点を許容する寛容な教育であるのかもしれない。イタリアがたまに輩出するとんでもない天才を見るにつけ、やはり欠点と個性は紙一重なのだとの思いを強くする。

・イタリア人の家族の結束は非常に強い。同族企業が多い国だが、その同族企業には兄弟5人全員が働いているだけでなく、その次の世代になると従兄同士で15人が働いているという例も珍しくない。日本の同族企業は兄弟で揉めることがしばしばあるが、イタリアではあまりないようだ。それどころか、50を過ぎても兄弟がいつも一緒にいて、妻といる時間よりも兄弟といる時間のほうが長い、というケースもよくある。家父長にあたる立場の人は、孫まで含めた家族全員を保護する必要があり、それぞれに適した職を用意してやることが暗黙に求められる。

・イタリアのこの家族の強い団結は、当然、異国にずっと支配されてきた歴史と密接な関係がある。被支配民族として、頼れるものは家族だけという考え方である。支配民族に対する抵抗から生まれて発達したシチリアのマフィアが、その組織を「家族」と呼んでいるのは象徴的だろう。マフィアも、構成員の多い大家族なのである。この例からもわかるように、家族という概念はもっと広い形でもとらえられる。「クラン(一族)」といってもいいかもしれないが、同じグループに所属するメンバーがお互いに融通を利かせあって、便宜をはかりあうという発想が強い。

・「友達の友達は皆友達だ」的芋づる式友人関係はある意味、地中海的互助主義の特徴である。この場合、電話をもらった方も丁寧にもてなす必要がある。なぜなら、明日は自分が便宜をはかってもらう立場になるかもしれないからだ。このようにして常に誰かを頼っていき、頼られたほうは便宜をはかることにより、彼らの仲間は拡大していく。恩義の貸し借りの物々交換が物事を進めていくのである。イタリアのようにどんなジャンルでも正規ルートがあまりうまく機能していない国では、物事をスムーズに進めるには、コネによる裏口解決が不可欠である。たとえば4時間待ちの列がある美術館でも、友人の友人を頼れば、簡単に裏口から入れてしまうなどの例である。ここで重要なのは、「強力なコネを頼れば」ではなく、「友人の友人」という薄いコネでも問題が解決してしまうことだ。便宜をはかりあうという相互依存関係が重要で、頼られたほうは、それほどの知り合いでなくても驚くほど親切に対応してくれる。頼られたほうも無意識のうちに、「今回は頼られたので、私はちゃんと便宜をはかりました。次回私が頼ったときは、ひとつお願いしますよ」というアピールを不特定多数の友人の輪に対して発信しているのである。強力なコネを持っている人は少ないが、友人の友人レベルのコネなら持っている人は多い。だから多くの裏口解決が蔓延してしまうのである。多くの人が美術館に裏口から入ると、今度はまともに待っている人にはいつまでたっても順番がまわってこない。真面目に行動すると馬鹿を見る、という結果になるのだ。だから、機転を利かして裏口を探れる人のほうが、世渡り上手として尊敬され、むしろ真面目に列をつくって待っている人が「まぬけ」として馬鹿にされるという矛盾した文化が形成されるのである。

・このコネ社会文化の行動パターンとして、彼らが日本に来たときに本当に困る問題がある。向こうではそれなりのレストランに行くときはコネを頼って、声がけしておいてもらうことが多いので、それを私に求めてくるのである。「今度3つ星懐石料理店のCに行くことになったから、イサオのほうから一言添えておいてくれ」という要求だ。「日本は基本的にすべてのお客さんを平等に扱うし、私が声がけしなくてもちゃんとしてくれるよ」と言っても、納得しない。どちらにしても店で「私はイサオの友達だ」を連発しそうで怖い。それに、前述のルールに従うと、頼られたときにちゃんと便宜をはからないやつは仲間ではないから、次に頼ってきたときにも便宜をはかってやらないという理屈になり、私が将来イタリアで働きにくくなる恐れがある。仕方ないのでお店に電話して(もちろんお店が知り合いの場合だが)、「何も特別なことはしなくていいから、来たら「イサオさんから話を伺っております」とだけ言ってくれ」と頼んでおく。それだけで彼らは非常に満足なのだ。彼らの理屈では、これで「他人としてではなく、仲間として扱われた」ということになる。非常に曖昧でゆるやかな「持ちつ持たれつ関係」が、実は驚くほど正確に等価交換され、機能している国がイタリアなのである。

・イタリアで特に目をつくのは、身近な人とカップルになる人が非常に多く、かなり狭いグループの中でカップルの離合が繰り返されることである。もちろん身近な人は気心が知れているし、安心である。かつ、イタリア人はパートナーの過去にこだわったりする人は少なく、「とりあえずいま自分が幸せになれるか」ということにしか関心がないので、非常に親しい友人の元カレや元カノであった場合でも、まったく問題はない。また元カレ、元カノのほうもまったく気にしていないので、皆非常に仲良くやっていける。感心するのは、イタリア人は感情的にこだわりがないことだ。何年か一緒に暮らしていたカップルが別れるには、それなりの理由があるだろうし、つらい思いもしただろうと想像するが、そのようなことはまったく感じさせない。やはり「いまに集中する」力が破格に強いので、過去のことは簡単に忘れるのだろう。最も頼りになるコネである元カレ、元カノを非常に大切にして、一緒に仕事を続けている。

・「ラテンラバー」という言葉がある。イタリアやスペインの情熱的なプレイボーイを意味し、イタリア生まれの無声映画のスター、ルドルフ・ヴァレンティノがその原イメージになっているとされる。イタリア人男性には、この役割を演じなければならないという「呪縛」に囚われている人が少なくない。このような自称ラテンラバー君は、女性にモテることが自らの存在理由であるので、いかに自分が女性にモテるかをアピールしたがる。女性とのアヴァンチュールを手柄話のように話しまくるのだ。だから彼らは恋人ができると、それを友人たちにすぐに見せたがる。自分が密かに彼女との恋を楽しんでいただけでは、ラテンラバーとしての存在をアピールできず、意味がないからである。このような男性はダイエットにも気をつけて、体も鍛えているので、男性の私から見てもなかなか格好いいし好感も持てる。案外頭のいい人も多く、話していても退屈しない。不思議なことあが、彼らは、結婚は敗北であると考えている。ドン・ジョヴァンニのように、結婚しないで各地の女性とアヴァンチュールを重ねるのが理想というわけだ。だから、自分が結婚していることを恥じていて、「一瞬の心の迷いだった」などと訳のわからない言い訳をしている。

・イタリアの食事は短くても2時間、長い場合はアペリティフを入れると5時間などということも珍しくない。昼食と夕食を合わせると、1日の活動時間の大半を食卓で過ごすということだって起こりうるのである。たしかに、「生命を維持するために必要な栄養素を摂る行為」としての食事には、この時間は長すぎる。もちろんイタリア人も栄養補給のためにそれほどの時間を費やすことはない。厳密にいえば、イタリアでは食事の時間が長いのえはなく、食卓にいる時間が長いのである。それはイタリアの食卓が、栄養補給以外の社会的意味を非常に多く持っているからで、結果として時間が長くなるのである。イタリアでは、食卓は人生のほとんどすべての問題を解決する場であり、とても重要な意味を持っている。食卓は人との出会いの場であり、別れの場であり、相手を見定める場でもある。就職活動の場であり、プロジェクトをスタートさせる場であり、打ち合わせの場でもある。社会の重要な活動の多くが食卓で行われるのである。そういう意味ではイタリアにおいて食事をするということは、ひとつの重要な儀式である。

・イタリアのようなコネ社会では、友人の輪を広げないと仕事も発展しない。そして、そのためにはアペリティフは最高の機会なのである。だからよく「アペリティフに1時間半もかかるなんて信じられない」という批判を聞くが、さまざまな活動を展開するためにはそれなりの時間が必要なのである。それが嫌で、食事をすることだけが目的であれば、アペリティフが終わるころに来ればいい。実際私もコネを広げることになんの興味もないパーティーの場合はそうしている。逆に、プロジェクトを発展させたかったり、仕事の中押しをしたかったり、コネを広げたいパーティーの場合は、アペエイティフに行って、十分に活動できたらディナーはパスするという場合もありうる。

・イタリアの伝統的な食事はアンティパスト(前菜)、パスタ(リゾットやスープの場合もある)、メインディッシュ(魚、肉など)、ドルチェ(お菓子)という4皿構成である。この1皿と1皿の間がやたらと長いのだが、それはキッチンが遅いのではなく、わざとある程度の時間を挟んでいるのだ。4皿が次々に出てきて、あっと言う間に食事が終わってしまったのでは、食事の重要な目的である社会的活動ができない。イタリアの食事が長いのは、料理人がのろまなのではなく、それだけの時間が必要とされているからである。

・イタリアのパーティーは、まちまちに人が集まってきて、なんとなく始まり、三々五々に人が散っていき、なんとなく終わるというのが理想だ。だからイタリア人は締めのあいさつを嫌がる。楽しい時間が徐々にフェード・アウトしていくというのが理想で、そこに残って話し続ける人もいれば、さっさと切り上げて場所を変え、盛り上がる人もいる。それぞれが継続的に夕べの時間を楽しんでくれればいいのである。締めのあいさつをするということは、楽しく流れている時間に唐突にピリオドを打って、「さあそろそろ帰りましょう」とメッセージを送っているようで、彼らには暴力的に思えるのだ。日本では「いただきます」と「ごちそうさま」で食事の始まりと終了を宣言するが、イタリアにそのような言葉はない。

・イタリアの食卓はコネを広げる出会いの場だから、招く側は一生懸命に招かれる客にとって有意義な人物を招待して、チャンスを広げてあげようとする。それが優れたホストの条件なのである。だから友人の家に招かれると、そのたびに異なる人物がいて、新たな可能性が提供される。その中から気が合って親友になっていく場合もあれば、フィーリングが合わなくてそのままになってしまう場合もある。そういう意味では、イタリアの食卓は男女の区別なく繰り返される合コンのようなものであるともいえる。たとえそのままになっていた相手でも、将来なんらかの理由でコンタクトする必要が出てきたときは、「3年前のAの家に招かれたときにご一緒した○○です」とメールを送ると、一見さんよりははるかに簡単に事が進む。食卓は貴重な生身の名刺交換の場(イタリアの場合はプライベートな場で名刺交換をすることは少ないが、実際に会ったという記憶が名刺代わりになる)でもあるのだ。だからコネが重要なイタリアでは、この食事の誘いを断っていると、チャンスは広がらない。「イタリアの食事は長いからパス」という外国人をよく見かけるが、それではイタリア社会で地位を固めることは難しいだろう。食卓が嫌いな人間は信頼されないという変な国なのである。

・私は数々のワイナリーを訪問してきたが、訪問だけで帰った場合と、一緒に食事をした場合では、親しみがまったく異なるし、次に会ったそきの距離感も異なる。ワイナリーを訪問して出会っただけの相手は単なるビジネスパートナーのような位置づけなのに対して、一緒に楽しい食事を共にした相手は、たとえそれが1回だけであっても、友達、仲間という位置づけになるのである。前者が建前だけの付き合いにとどまったのに対して、後者は少しでも本音の付き合いができた関係という意識を持つのだ。食卓は人間を裸にする。私は仕事でたくさんインタビューをしてきたが、相手の本質に迫るなら、事務所における100時間のインタビューよりも、2時間の食卓の共有のほうがはるかに役立つと確信している。もうすでにほかの文献などにも散々書かれている建前の部分ではなく、そこでしか得られない本音を聞くことができるからだ。

・食卓でフィーリングが合う相手とは、根源的なところで響き合っているので、ビジネスもきっとうまくいくだろうし、男女の場合なら結婚してもうまくいく可能性が高い。一方どこかしっくりこない相手とは、「肌が合わない」可能性が強いので、職業的にも、プライベートでもあまり好ましい発展はないだろう。もちろん私とフィーリングが合わない人でも、ほかの人とはフィーリングが合うだろうし、ひとそれぞれの相性である。重要なのは自分と波長の合う相手を見つけることで、そのためには食卓が理想的な場であるということだ。

・イタリアの食事の習慣で日本と最も異なるのは、あらゆる接待の中で、自宅に招くことが最高とされているところであろう。日本だとよほど親しい仲でない限り、自宅に招くことは少ないと思うが、イタリアでは、高級レストランに招くよりも自宅に招くほうが、心のこもった行為とされている。しかも、基本的に招かれると次は招き返すのが礼儀とされているので、この連鎖がずいぶん続くし、友人が多い人の場合、かなりの頻度で自宅の夕食に誰かが来ているということになる。もちろんこの場合も、重要なことは美味しい食事をごちそうすることではなく、相手を家族の一員のように扱うことである。実際、自宅に招かれた場合は出される食事もその友人が日ごろ食べているもので、特別な料理が用意されるわけではない。だから招待も前もってではなく、昼間に会っていて「今晩食べにくる?」といったような軽い感じで招かれることも多い。だからこちらも、「それでは行かせてもらうわ」ぐらいの感じで行けばいい。あまり事が仰々しくなってしまえば、自宅に招待するということの意味がなくなってしまうからである。

・私の知り合いでピエモンテ出身の有名なワイン生産者がいる。有名な貴族で、いつも高級な仕立服を見事に着こなしていて、ダンディーで、礼儀正しく、必ずレディーファーストで、まさに絵に描いたようなジェントルマンだ。ところが、私のまわりの女性ワイン生産者にはあまり人気がない。「堅苦しい」「刺激的でない」「結婚したら退屈そう」というのが理由だ。結婚するなら堅実なほうがいいと思うのだが、イタリア人女性はやはり「面白くなければ人生じゃない」派が多いようだ。そんな女性に限ってやや軽薄な男性が好きで、そんな男の冗談に笑い転げて、「いやーだ」などとはしゃいでいる。やはりイタリア人女性はチョイ悪系が好きなようだ。機転が利いて抜け目ないほうが、堅実で真面目であるより評価される国なのである。



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